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臨床研修指導医の「つぼやき」を定期的にお届けします。
「つぼやき」とは「つぶやき」と「ぼやき」をかけた筆者の造語です。
No.126
2025年1月14日火曜日
ずっと記憶に残っている夢というのは、それほど多くはない。その中でも、浪人時代に見たトイレにまつわる夢は、今でも鮮明に覚えている。
ひとつは、広大な場所に、かまぼこ型をした、たくさんの大きなバラック小屋が並んでいる夢。小屋の中に入ると、上段と下段に便器(夢の中では和式トイレだった)が設置された、二段ベッドのようなものが数十個並んでいる。どうやら、それぞれが個々人に割り当てられているようで名札がかかっていた。上段のトイレを使うには、二段ベッドについているようなハシゴを登らねばならなかった。朝目覚めてから、上段のトイレの排泄物は、下段の人の頭の上に落ちてくるのではないかしら?と疑問に思った記憶がある。
もうひとつのトイレにまつわる夢。大きな屋敷で、トイレに行きたいと言うと、障子で仕切られた、二十畳くらいの大広間に案内された。その座敷の中央に、一段低くなった、畳二畳分くらいの大きさの黒塗りの木の床があり、その中央にトイレが設置されている。なぜだかこれも和式トイレだった。座敷には、このトイレしかなく、四方は広い空間だけが広がっていた。このような広い空間の中では、落ち着かず、ゆっくり用も足せないなと感じて目が覚めた。
このようなトイレの夢を見たのには理由がある。医学部を受験する前に一年間浪人生活をしていたときのことだ。規則正しい生活をするためにと考えて、ぼくは牛乳配達のアルバイトをしていた。朝4時に起きて、牛乳屋の店舗に単車で出かけ、大体午前7時頃までには仕事を終える。これを毎日休まず続けたのだが、牛乳配達を選んだのは、配達員に無償で「寮」が提供されていたからでもあった。
ところが、この「寮」というのがクセ者だった。かつては牛乳屋の店舗として使われていた建物らしかったのだが、瓦屋家族が住む家の、道路に面した一部だけが、「寮」として二人の配達員にあてがわれていただけだった。ちょうど英語の大文字のLを逆さまにしたような格好の、瓦屋家族の住まいがあり、その下に、境界を一枚のベニヤ板で区切っただけの、ふた部屋の「寮」が存在していた。
「寮」にはトイレがなかった。用を足すには、「寮」を外に出て西側に面した木戸から瓦屋の家に入らなければならなかった。トイレは土間のようなところにあり、もちろん瓦屋家族と共用だった。しかも、その木戸は午後10時には鍵をかけられてしまうので、それ以降はトイレを使えなかったのだ。朝は午前4時起きなので、木戸の鍵は、まだ閉まっていた。だから、朝は牛乳屋の店舗に行ってから用を足していた。午後10時以降に用を足すときには、近所の神社まで歩いて行って、公衆トイレを使わなければならなかった。
このような生活をほぼ一年間していたおかげで、先のようなトイレの夢を見たのではないかしら。
TOTOに就職したぼくの友だちは、「木目調のトイレの研究をしている」と言ったことがあった。いまだに、木目調トイレを見ないということは、彼のプロジェクトは商品化できなかったのだろうか。
No.125
2025年1月7日火曜日
昨年10月に91歳で亡くなったせなけいこさんは、「ねないこ だれだ」や「おばけのてんぷら」などの絵本で知られる絵本作家だが、彼女がイギリス民話を元に描いた「わたしゃ ほんとに うんがいい」という絵本がある。
おばあさんが道を歩いていると、つぼを見つける。中を見ると金貨がいっぱい。「わたしゃ ほんとに うんが いい」。重いので、ショールでひっぱって行くうちに、金貨は銀のかたまりに変わってしまう。それでも、銀でいろんな物をつくってもらえるので、「わたしゃ ほんとに うんが いい」。さらに銀のかたまりをひっぱって行くと、銀は鉄になり、最後は石になり、やがて長い足を出してしっぽを振って笑ってどこかへ飛んでいってしまう。すべてをなくしてしまっても、おばあさんは「わたしゃ ほんとに うんが いい」と大笑い。
日本の昔話「わらしべ長者」とは、まったく逆の展開だが、この「わたしゃ ほんとに うんが いい」を読んでいて思い出したのが、パトリシア・ライアン・マドソンの『スタンフォード・インプロバイザー』(東洋経済新報社)という本だった。夢に向かって行動を起こそうとしているが、失敗して恥をかくのではと恐れたり、周囲の評価を気にしてためらっている人に対して、著者はこの本の中で、「一歩を踏み出すためのアドバイス」をしている。そのアドバイスの中に、「あるがまま」を受け入れる、というのがある。未来に備えるのではなく、どんなことが起きても対応できるようにしておくように、ということである。せなけいこさんの描いたおばあさんのリアクションは、まさに、このインプロバイザーの姿勢に他ならない。
『スタンフォード・インプロバイザー』の行動ルールには、「まず『イエス』と言う」という項目が、一番最初に挙げられている。「馬鹿げている、と思われるかもしれませんが、あらゆることに、『イエス』と言いましょう。すべての提案を受け入れましょう。提示されたことに賛成してください。誰かの夢を後押ししてください」と。
この『老指導医のつぼやき』も、医局事務のMさんに「病院のブログに何か書きませんか?」と声をかけられたのがきっかけだった。特別に書こうと思っていることがあったわけでもないのに、何も考えずに、ぼくは「はい」と答えてしまった。そして、こうして二回目の新しい年を迎えることができている。
『スタンフォード・インプロバイザー』によれば、イエスと言う人が手にいれるのは、「わくわくした気持ち」なのだそうだ。今年もわくわくしながら書き綴っていきたい。どうぞよろしくお願い申し上げます。
せなけいこさん、ありがとうございました。
No.124
2024年12月24日火曜日
フィリピン出身の患者さんがいた。直腸がんだったが、すでに脳転移・肝転移・骨転移があった。人工肛門が造設され、全脳照射を受け、脊椎の固定術もされていた。ご主人は日本人だが、二人はフィリピンで知り合い、すでに役所に婚姻届は出されていた。それぞれに、前パートナーとの間に娘さんがいる再婚同士だった。
患者さんはカトリック信者なのだが、若い頃はけっこう無茶苦茶な生活をしていたそうだ。あるとき、キリストが目の前に現れて、それ以来無茶をしなくなった、と話して下さった。病室には簡易の祭壇が設けられ、毎日そこで祈りをささげ、日曜日には街の教会のミサに出かけていた。
死期が近づいたとき、彼女は「本当は教会で結婚式を挙げたかったの」と打ち明けた。法的には夫婦であっても、カトリック信者であった彼女は、神様の前で永遠の愛を誓いたいと願っていたのだろう。ご主人に彼女の意向を伝えたところ、ご主人もその願いを叶えてやりたいと同意された。それからは時間との闘いだった。両下腿がゾウの足のようにむくんできている彼女にはそれほど時間の余裕はなかった。ご主人の娘さんは花嫁がかぶる、白いベールを手作りした。毎日のように見舞いに来ていたフィリピンの友人たちが協力して、ほぼ二週間で結婚式の段取りを整えた。結婚式は、京都河原町三条のカトリック教会で執り行われることになった。結婚式では、ぼくとぼくの妻が証人をさせていただいた。カトリックの結婚式の証人とは仲人のようなもので、式の間、新郎・新婦の介添えをし、結婚証明書に署名をする役目だ。
心配していたのは、彼女の体調だった。痛みや呼吸苦を和らげるため、あらかじめモルヒネのレスキューを服用していたが、むくんだ足で、教会の長いバージンロードを歩くのは大変だろうと思われた。しかし、彼女は何とか自力で、入り口から司祭の前まで歩き通した。結婚式後の宴は、教会の地下の小ホールで行われた。友人たちが、手作りのフィリピンの郷土料理を並べ、みんな笑顔で、神様の前で結ばれた二人を祝っていた。
病院に戻って二日後に、彼女の意識レベルが低下してきた。それ以降は傾眠傾向となり、結婚式のちょうどひと月後に、彼女は神に召されていった。
結婚式で参列者に配られたお礼のカード
No.123
2024年12月17日火曜日
ぼくが工学部にいた頃、四年生になると研究室配属といって、希望する研究室に分かれて卒論のための実験をしていた。そのときの忘年会だったと思うのだが、学部生から院生と教授を含めた教官らと一緒に鍋を囲んだ。
ぼくは、配属された研究室で、初めての忘年会だったので、ちょっと緊張していた。しかし、大学院生は、最初から教官たちとも打ち解けるような雰囲気だった。酒が回ってくると、博士課程の大学院生が、歌を歌い出した。デカンショ節の替え歌だった。デカンショ節というのは、丹波篠山の盆踊りのときの歌で、本歌はこんな歌だ、
「デカンショー、デカンショーで半年暮らし、後の半年ゃ寝て暮らす。よ〜いよ〜いデッカンショ」
このデカンショ節の節回しで、研究室では学生の最長老である博士課程の大学院生が歌った替え歌は、
「教授、教授といばるな教授。教授、学生のなれの果て。よ〜いよ〜いデッカンショ」
というものだった。え?教授の目の前で、こんな歌を歌っていいのだろうか、と当時のぼくはびっくりしたのだが、それを聞いていた教授は、始終ニコニコしていた。そればかりか、他の院生や教官たちも、「おぉ〜」と声を上げながら拍手までしていたのだ。教授がどんな反応をするだろうかと見守っていると、やおら、デカンショ節で即興の替え歌を返したのだ、
「学生、学生といばるな学生。学生、教授の飯のタネ。よ〜いよ〜いデッカンショ」
ここでまた、大爆笑だった。
こうした歌が忘年会で出てくるのだから、すごく自由な雰囲気の研究室だったのだろう。
その後、ぼくは、同じ研究室で修士課程に進んだが、教官や院生たちは、毎日のようにテニスやバドミントンや卓球をしていた。修士課程の一年目には、教授以下教室員そろって、春には宇治田原にハイキングに行き、夏には若狭へ一泊二日の海水浴に行き、秋には清滝でバーベキュー、と和気あいあいとした雰囲気の中で研究をしていた。実験データを出すときには、研究室に泊まり込んでいたこともあったが、オフには研究室仲間でハメをはずす。今から思うと、自由で豊かでぜいたくな環境だった。
残念ながら、医学部に進んでからは、このような経験をした記憶がない。
自分の「なれの果ての姿」を映す鏡があって、「え!今がもうなれの果てだって?」てなことになったら、こわいだろうな。
No.122
2024年12月10日火曜日
No.121
2024年12月3日火曜日
朝、出勤前に妻から「その靴下、穴があいてるからはきかえて行ってね」と言われた。
その靴下に穴があいていることにぼくは気づいていたのだが、靴に隠れる部分だし、職場に行けば弾性ストッキングにはきかえるのだから、問題はないだろうと思っていたのだ。ジーンズは、穴だらけの破れたものでも若者は平気ではいているのに、靴に隠れる部分が破れた靴下をはくのは、どうして許されないのだろうか、とその日一日考えた。
最初に浮かんだのが、黒澤明監督の映画『生きる』(1952年)だった。志村喬演ずる主人公は、区役所の役人で一日中書類にハンコを押すという毎日を35年間送ってきた。その主人公が胃がんになる。死を意識して初めて、それまで自分は「生きてこなかった」ことに気づき、仕事を放り出して、三文小説家に誘われるまま夜の街で遊びまわる。その朝帰り、同じ職場で働いていた若い娘(小田切みき)が退職願にサインをもらうために主人公の家を訪れる。そのとき、娘のストッキングの爪先やかかとに穴があいていることに主人公が気づく、という場面がある。彼女が穴のあいたストッキングをはいていたのは、貧乏ゆえに新しいストッキングを買えなかったからだった。
ぼくは、今のところ、靴下一足買えないくらいに困窮はしていないから、貧乏は理由にはならないだろう。
次に思い出したのは、学生の頃にボランティア活動を一緒にしていた女の子から贈られた靴下だった。冬物で、ベージュ色に口ゴムの部分に赤と緑だったかリング状のアクセントのついた靴下だった。大切にはいていたが、いつしか穴があいてしまった。このときはなぜだか、その穴のあいた靴下をはけず、しばらくタンスにしまっていた。
若い頃には穴のあいた靴下をはけなかったのに、年をとってから平気ではけるようになったというのは、単に年をとって羞恥心がなくなったから、というのが理由なのかもしれないな、と思い至った。
そう言えば、出先で倒れて救急車で運ばれたときのことを考えて、いつも下着はきれいなものを身につけるようにしていると話していた医師がいた。意識を失って救急室に担ぎ込まれたときに、処置を急ぐために衣服をハサミで切ることがある。そんなときに、穴のあいた薄汚い下着を着ていたのでは恥ずかしい、というのがその理由だった。ふだん目に触れない下着であっても、どのような場面で人目に触れるか分からないからね、と語っていたが、その後、彼はそういう場面に遭遇したのだろうか。
え?朝の出勤前の穴のあいた靴下はどうしたのか、ですって?もちろん、別の靴下にはきかえましたよ。靴下の穴ひとつで、妻との関係が険悪になるのはかないませんから。
今年の待降節は12月3日から始まります。クリスマスイブには、穴のあいていない靴下を準備しておきましょうね。
No.120
2024年11月26日火曜日
キース・ジャレットという「ジャズ」ピアニストがいる。「ジャズ」とカッコでくくったのは、彼がジャズというジャンルを超えて、クラシックも演奏し、現代音楽にも通ずる音楽を演奏しているからだ。
ぼくが学生の頃、岡田真澄さんがDJを務めるFM音楽番組のオープニングテーマにキース・ジャレットの曲が使われていた。最初の五音が印象的な透明感のあるピアノソロで、何の曲だろうかと気になっていたのだが、あるとき、岡田真澄さんの番組で、その全曲が紹介された。同じように気になっていたリスナーがリクエストをしたのだった。
その曲は、キース・ジャレットの『ザ・ケルン・コンサート』(1975年)という2枚組アルバムのPartⅠだった。ただ、この曲は、演奏時間が26分くらいあって、50分ほどの番組で全曲をかけると、放送時間の半分以上を費やしてしまうことになるのだが、岡田真澄さんは、その長さに触れて、「どうしましょう…思い切ってかけてしまいましょうか」と言って、全曲をかけて下さった。
その後、LPレコードを買い求め、しばらくの間、ぼくは毎日のように「PartⅠ」を聞いて過ごしていた。
後に知ったことだが、このケルンのオペラハウスでのソロ・コンサートのときのキースの体調は最悪で、用意されたピアノも希望したものではなく、調律もされていないという悪条件下での演奏会だったらしい。ヨーロッパ・ツアーはすべて車での移動で、ケルンでコンサートをする前は24時間くらい眠れていなかったそうだ。そのような悪条件の下で彼は演奏をして、素晴らしいライブ録音を残してくれたのだ。
後のインタビューで、ソロ演奏をするときには、いつも「不安や疑いをずっと持ったまま」だと彼は告白している。そして、その解決法をひとつあげるとしたら、「とても疲れているというのは良いことなんだ」と秘訣を明かしている、「身体的な痛みや何かがあると、不安がっている暇がなくなるからね。実際、自分を疑うためのエネルギーがない、ということなんだけど。痛みから逃れたいために、音楽の中にのめりこんでいく」(『インナービューズ キースジャレット』[太田出版2001年])と語っている。また、チューニング(調律)に関しては、彼はあまりこだわりをもっていないと言い、「どこかの部屋にいて、そこに音のする何かがある。そしたら、ぼくはそれで何とか音を出そうとすると思う。よっぽど調子はずれでない限り、『これはダメだ!』なんていわないだろう。それを使うしかないじゃない」(前掲書)とも語っている。
医療においても、いつでも、どこでも最高の条件がそろっているとは限らない。でも、目の前で苦しんでいる患者さんがいた場合には、悪条件の下でも手を差しのべることを諦めてはいけないのだろうな、とケルン・コンサートを聴きながら考えた。
岡田真澄さんの番組を聴いて、買ったLP。
真っ白なジャケットだったが、半世紀近く経って色あせてしまった。
No.119
2024年11月19日火曜日
緩和ケア病棟で50歳の男性が亡くなった。肺がんだったが、多発脳転移による意識障害が著しく、言葉を理解できても発語がままならず、自分の意思をしっかりと表現することは困難だった。下肢の筋力が落ち、ほとんどベッド上で過ごしていた。
独身の営業マンで、大阪を拠点にバリバリ働いていたが、ある日無断欠勤があった。心配して同僚がアパートを訪れたところ、彼は床に倒れて動けなくなっていた。
大阪の病院で治療を受け、何とか一命はとりとめた。母親が京都にいたが、足腰が悪く、大阪の病院まで見舞いに行くのが大変だった。
実は、この患者の母親というのが、ぼくが大学生になって、京都で暮らしていたときに下宿していた下宿屋の大家さんだった。普通の民家で、使われなくなった部屋を下宿生に貸すという形式の下宿屋だった。
家の入り口は大家さんと共通で、下宿生は家の鍵を渡されていた。入り口を入るとすぐ左手に二階へ上がる階段があり、二階のふた部屋が下宿生にあてがわれていた。東に窓があり、窓からはその家の庭(いわゆる前栽)を見下ろせた。トイレは一階にあった。玄関を入ると細長い通り土間があり、奥にトイレがあった。いわゆる「うなぎの寝床」と言われる典型的な京の町家作りだった。
門限はなかったが、一度深夜2時頃に帰宅したときに、鍵を持って出るのを忘れていたことに気づいた。どうしようかとしばらく迷ったあげく、大家さんを起こして玄関の戸を開けてもらったことがあった。平謝りに謝ったが、とくにとがめもされず、中に入れてもらえた。大家さんは当時、まだ30歳代で美しい方だった。
その方に、当時4、5歳くらいのやんちゃ盛りの一人息子さんがいた。下宿人の部屋には鍵はなかったので、出入りは自由だった。いつの頃からか、息子さんは勝手にぼくの部屋に入ってくるようになり、私物を触るようになっていた。ぼくがひと月以上かけて作った、ハーレーダビットソンの1/6スケールのプラモデルで遊んでいて壊されてしまったこともあった。その子の祖母が胃がんで亡くなったとき、お通夜と葬式の合間に、ぼくの部屋で、その子の「子守り」をしていたこともあった。
その下宿の大家さんとは、下宿を出てからも毎年年賀状を交換するような関係を続けていたが、ある日、息子さんを緩和ケア病棟に入院させてもらえないかという電話が病院にあり、大阪の病院から転院してもらうことになった。
入院して、病室へご挨拶にうかがったときに、学生時代に下宿でお世話になった者です、と自己紹介をすると、混濁した意識の中で、患者さんは「おぉ!」と言って目を見開いてくれた。40年以上も前の下宿人を覚えてくれていたようだった。その表情を見たとき、彼を最期までお世話させてもらおうと、ぼくは決意したのだった。
そして、入院して約5ヶ月後に、彼は旅立って行った。
おぉ、あなたは50年前に市バスでわしの隣に座っていた方ではありませんか!?
No.118
2024年11月12日火曜日
医療の現場では、「どうしていいかわからない」場面に遭遇することがある。いや、医療に限らず、ふだんの生活の中でも、誰もがそういう場面に出くわすことはあるかもしれない。ある日、道ですれ違った、見知らぬ妙齢のご婦人から突然交際を申し込まれる、などということはほとんどないだろうけれど、田舎の親が亡くなったという知らせを学会発表の前日に受けるとか、同僚の未婚の女性から「私、妊娠しちゃったの」という相談を受けるとか、海外旅行に出かけてから、炊飯器のご飯を残したまま家を出たことに気づくといった程度のことは、ひょっとしたら経験するかもしれない。
内田樹は、「『どうしていいかわからないとき』に適切にふるまうことができるかどうか、それがその人の本源的な力がいちばんはっきり現れる瞬間です」と『街場の教育論』(ミシマ社2008年)の中で述べている。高校生までの教育では、ほとんど「正解」がある問題にだけ取り組んでいた。英語や数学の問題集を解いて、答えが合ったの間違ったのと一喜一憂していたわけだが、大学や社会では、「解」のない問題に出合うことの方が多いのではないかしら。
写真家の星野道夫は、アラスカの魅力に取りつかれて、アラスカに住み、アラスカの自然をカメラで捉えてきた。彼は、1994年に、グッチン・インディアンのオールドクロウという村の祭りに参加したときのことをエッセイに残している。(『旅をする木』[文藝春秋1999年])この村では、二年に一度、方々に散らばったグッチン・インディアンが集まり、人びとが抱えているさまざまな問題を話し合うという。話したい者が、誰でもマイクの前に立ち、順番も時間の制限もなく話すのだそうだ。唯一の約束は、用意された一本の杖を誰もが握りながら話すということ。そのときの話題は、「思い出であったり、告白、憂い、未来への夢」であったりとさまざまで、中には、資源の枯渇、人口問題、環境汚染など、「正解」のない問題も話される。こうした話題は、ちょっと考えただけでも無力感におそわれそうな問題なのだが、星野道夫氏はこう言っている、「ひとつの正しい答えなどはじめから無いのだと…そう考えると少しホッとします。正しい答えをださなくてもいいというのは、なぜかホッとするものです」と。
「正解」のない問題に直面したとき、私たちはとかく「正解」を出そうと焦りますが、グッチン・インディアンの祭りのように、心にわだかまっている問題について、誰でも仲間の前で発言できるような場が、まずは必要なのではないでしょうか。
「出口が八方ふさがりのような気がしてしまう状況の中で、人びとが必死により良い方向を探してゆこうとする姿にはいつも打たれます」と星野道夫氏は言っていますが、ぼくたちは、この組織や社会の中で、誰もが意見を自由に言える場を、果たしてもっているのでしょうか。
おい!誰か早く医者を呼んできてくれないか!
No.117
2024年11月5日火曜日
『死の臨床研究会』という一風変わった名前の研究会がある。医師や看護師だけでなく、死の臨床に関わっている僧侶など宗教関係者や臨床心理士、教育職と多方面の会員で構成されている研究会だ。10月に札幌市で開催された『死の臨床研究会』に参加した。
今年の『研究会』の最後に、市民公開講座として北海道医療大学名誉教授の石垣靖子先生の講演があった。演題は「『傍らにいる』というケア」。石垣先生は、北大病院で臨床、看護基礎教育、看護管理に携わり、東札幌病院の看護部長から同院の理事副院長となり、2002年から北海道医療大学大学院看護福祉学研究科教授、2016年から同校の名誉教授をされている。臨床から看護教育、病院管理までを経験されてきた方だ。
石垣先生は、看護師長時代を振り返りながら話をされた。その中で、いつ病室に行っても、何も返事をしてくれない患者さんについての話があった。何の返事もされないので、まるで「そばにいることを許されていない感じがして、無力さを感じていた」そうだ。それでも毎日病室を訪れていたが、最期に、その患者さんから、「いつも見守ってくれてありがとう」と声をかけられて、自分自身の思い上がった考えに気づいたのだという。
とかく、患者さんのために何かをしてあげようと思う態度は、ともすれば、うぬぼれや自己満足、自己陶酔におちいりかねない。患者さんの傍らにいることができるのは、「傍らにいることを許された者だけ」ということを謙虚に受け止めなければならないと気づいたのだそうだ。
そして、印象的だったのが、講演が終わった後の会場からの質問に対する答えだった。おそらく、緩和ケア病棟で働く現役の中堅看護師さんだと思われる女性が、マイクの前に立って、「私たちの病院では、スタッフの数が減らされて、毎日の忙しい業務に追われていて、ゆっくり患者さんの傍らに寄り添う時間もありません。どうすればいいでしょう」と訴えるような口調で質問をした。この質問に対して石垣先生は、「私たち看護師は、ケアをしていない日はないんですよ」と、やや強い口調で答えられた。「日常の業務の中で、患者さんに接するときは、私たちは常にケアをしているのですよ。たとえば患者さんをお風呂に入れているときに、どんなお仕事をされていたのですか?とか、どんなことに興味をもっておられるのですか?と問いかけることで、その人の人生に触れることができるでしょう。それがケアをするということです。それを許されているのが私たち看護師なのですよ。大切なのは、その人に、その人の人生に関心をもつ、ということなのではないかしら」
スタッフの数が少ないから、忙しくて余裕がないからまともな看護ができない、と嘆く看護師さんが、十分な時間の余裕があれば理想的な看護ができるとは限らないでしょ、と指摘されているようにも聞こえた。こういう姿勢は医師にも必要かもしれないな、と思ったのでした。
傍らにいるのを許されたことに感謝…
No.116
2024年10月29日火曜日
以前、アルバイトで麻酔の仕事をしに行っていた病院からの帰り、バス停でバスを待っていると、黒いレザーのジャケットとパンツを身につけた男性から声をかけられた。一目見て、その服装は似合ってないなぁ…と思ったのだが、その男性が、バイト先の病院の産婦人科医であることに気がつき、ぼくはにこやかに挨拶をした。彼はどちらかというと、いわゆる「しょうゆ顔」であったので、黒いレザーの上下の洋服は、どう見ても似合っていなかった。ふだん白衣に身を包んでいる己れへの反抗だったのだろうか。
このように、いったん白衣を脱いだときに、医者は誰でも私服になるわけだが、黒いレザーの上下を着た姿は、産婦人科医はおろか、おそらく医者にも見えないだろう。では、私服になったときの「医者らしい服装」というのは、はたしてどのような服装だろうか。
学会などに出かけると、いちばん無難で目立たないのはスーツ姿だ。暑いからといって、ポロシャツやアロハシャツで出かけると、かえって目立って浮いてしまう。でも、このスーツ姿も街中に出れば、医者には見えないかもしれない。医者といえば、白衣かスクラブと相場が決まっているのだろうか?
大学生になったときに、教養課程の講義に生物学のリレー講義があった。学部の教授が一年生に数回ずつの特別講義をしてくれていたのだが、そのときの教授陣の一人が、日本の発生生物学を牽引してきた故・岡田節人(名前は「ときんど」と読みます)先生だった。岡田先生は、ブルージーンズにアロハシャツを着て、大学構内に真っ赤なオープンカーで乗りつけていた。つい数ヶ月前まで高校生だったぼくは、その姿を見て、「え?これが大学の先生??」と驚いたものだった。確かに教育の場にはふさわしくない格好かもしれないが、これが、ポロシャツかワイシャツだったら、まず印象には残らなかったに違いない。岡田先生の場合、このブルージーンズにアロハシャツという姿は、その軽妙な関西弁で語る、飽きさせることのない講義内容とマッチしていたので、すぐに馴染んでしまった。
大事なのは、医者らしい身なりとか大学教授らしい服装というよりは、その人の個性に合っているかどうか、ということなのかもしれませんね。
医者らしい医者もどき(ニセ医者)と医者らしくない医者を見破るにはどうすればよいのだろう?
No.115
2024年10月22日火曜日
世界で初めて、小惑星(イトカワ)から資料(サンプル)を地球に持ち帰ることに成功した「はやぶさ」のプロジェクトマネジャーをしていた川口淳一郎氏は、こんな話をしたことがある。
「私は、心配していたことが起きてしまうのは三流だと思っています。心配していたことは起きないのだけれど、予想もしていなかったことが起きてしまうのは二流。では、一流はどうかと言えば、これは何も起きないのです。だから一流の人というのは、案外評価されないのではないかという気がします。トラブルが起きて、それを解決したとなると目立ちますが、そもそもトラブルが起きないので目立たない。何事もなく、やってしまうからです」(NHKテレビテキスト『仕事学のすすめ』2011年6月号)
アメリカのアポロ計画でも、初めて月面着陸に成功したアポロ11号は有名だけど、その後月面に着陸できた5回のミッションは、ほとんど記憶にない。ただ、アポロ13号だけは、宇宙空間で起きた爆発事故のために月面着陸を果たせなかったが、地上(NASA)の知恵と飛行士の忍耐力により、三人の飛行士が無事に地球に帰還できたことで話題になった。これは、1995年にロン・ハワード監督が映画化している(『アポロ13』)。
川口氏の定義によれば、これは予想しないことが起きたので、「二流」ということになるのだが、映画を見ると、三人の宇宙飛行士を地球に無事帰還させることは「一流」の仕事で、とても「二流」とは思えない。
手術室における麻酔でも、何事もなく手術が終わると、「外科医の腕がよくて、麻酔も楽でよかったよね」的な評価を受けることがある。確かにそれもあるのだけれど、何もしていないように見える麻酔科医も、術野の出血量や手術の侵襲に応じて、ちょこちょこ対応をしているのです。あまり気づいてはもらえないようですが。
以前いた病院で、婦人科の悪性腫瘍の手術の際に2000g近く出血したことがあった。術後に、婦人科の先生から「何単位輸血しましたか?」と聞かれたときに、「輸血はしていません」と答えたら、少し驚いた顔をされたことがあった。実は、それまでの経験から、ある程度の出血量が予想されたので、手術が始まると同時に輸液をしっかりして、あらかじめ血液を希釈しておいたため、何とか輸血にたよらずに手術を終えることができたのでした。これは、どの患者さんにも使える方法ではありません。もともと貧血がなく、凝固能に問題がなく、心機能、腎機能に問題がない比較的若い患者等々という条件がそろわなければならないからです。でも、術前に予想を立てていれば、出血してから慌てなくてもよくなることもあるのですよ。備えあれば憂いなし。
耳栓あれば、へた歌も憂いなし!
No.114
2024年10月15日火曜日
10月16日は、アメリカ文化圏では、「世界麻酔の日」として知られている。それは、1846年のこの日に、世界で初めてエーテルによる公開麻酔が成功裡に行われたからだ。この日、ウィリアムT.G.モートンが、公衆の面前で、頸部の腫瘍を摘出する手術をエーテル麻酔下に成功させた。
モートンは歯科医師であった。彼は自分の診療所でエーテルを麻酔に使用していたが、これを目撃した新聞記者が、「患者が痛みを訴えることなく抜歯できたこと」を、あるとき新聞記事にした。その記事が、ビゲロウという外科医の目にとまる。そして、仲間の外科医と相談して、アボットという若者の頸部にある先天性血管性腫瘍の摘出術を、この新しい麻酔薬を使って行うことになった。それが1846年10月16日のことだった。
この公開麻酔が行われた階段教室は、今もMGH(マサチューセッツ総合病院)の一角にあるブルフィンチ棟の最上階に「エーテル・ドーム」として保存されている。
ぼくは、1998年、シカゴブルズが三連覇を果たした年に、ブリガムアンドウィメンズ病院におられた麻酔科界の重鎮L.D.ヴァンダム先生(彼はハーバード大学で最初の麻酔科医で、当時84歳だった)を訪ねるためにボストンを訪れた。そのときに、ヴァンダム先生は、ぼくにMGHを訪ねてみることを勧めて下さった。まったく予定になかった行程だったが、ヴァンダム先生を訪ねる直前の国内線の移動でロストバゲージに合い、スーツケースを持たない身軽な身の上の一人旅だったので、ヴァンダム先生に勧められるままに、ボストン美術館を訪れた後、MGHを見学に行った。
エーテル・ドームは観光客向けに開放されていて中を見学することができた。階段席の背には、ドクターの名前が刻まれていた。この階段教室で、ニューイングランドジャーナルオブメディスンに載せる症例検討会が開かれていたのだが、その席に座る医師のネームプレートがはめ込まれているのだと説明された。19世紀の半ばに、ここでエーテルによる公開麻酔が行われたことに思いをはせながら、当時麻酔科医をしていたぼくは、しみじみと歴史の重みを噛みしめていたのだった。
ヴァンダム先生(右)と、ロバート・ヒンクリーが描いた、『エーテル麻酔による最初の手術』と題する絵。絵の中央で、患者の後ろに立っているのが、モートン。手にエーテル麻酔器を持っている。
MGHのエーテル・ドームにて。ボストンの美術館で出会ったスウェーデンから来た女性と偶然再会し、階段教室の椅子に座った写真を彼女に頼んで撮ってもらった。
No.113
2024年10月8日火曜日
夏川草介の『スピノザの診察室』を読んで、「う〜む。こんなことを書かれたら困るな」という箇所があった。
坂崎さんという患者が、がんの痛みに耐えかねて日曜日の明け方に訪問看護師に連絡を入れた。そして、電話を受けた小説の主人公である雄町哲郎が、夜明けとともに患者の自宅を訪れる。そこで、麻薬性鎮痛薬の貼付剤を増やして、彼が勤める原田病院の医局に戻ったときの同僚(元精神科医の秋鹿)との会話が次のようなものだった。
「坂崎さんがいよいよ厳しくなってきました。だいぶ痛みが出てきていて、奥さんも参ってきています」
「いよいよですか…」
「フェントスを増やしてきましたから、少しレベルが落ちてくるかもしれません」
(59頁)
その後、がん性疼痛についての雄町先生の経験が挿入される。
…薬に対する患者の反応は千差万別で、驚くほど医者の思い通りにはならず、よかれと思ってモルヒネを増やして、あっという間に呼吸が止まることさえ哲郎は経験している。
(61頁)
そして、この坂崎さんという患者は、その日の午後に亡くなってしまうのであるが、これらの表現は、緩和医療の現場では、次のような誤解を招くおそれがある。
・医療用麻薬を使用すると意識レベルが落ちてしまう。
・医療用麻薬を増やすと、人によっては呼吸停止することがある。
フェントスというのは、医療用麻薬のフェンタニルを塗った調布剤で、皮膚に貼ると吸収されて血管内に入り全身に作用を及ぼす。ただし、即効性がないので、血中濃度が安定するまでには、2〜3日かかる。だから、坂崎さんのように、その場の痛みを抑えるためには、増量してもすぐには効果が現れないのだ。
また、モルヒネの副作用は、まず便秘になって、眠気が出て、呼吸数が低下し、意識レベルが下がる、という順番で現れる。どのような経路(静注・皮下注・経口・坐薬)で使用したのかは書かれていないが、モルヒネによる呼吸停止は、静注で一気に濃度を上げない限り、まず起こらないでしょうね。
一般の読者が、『スピノザ』で先のような記述を読むと、「やっぱり麻薬はこわいな。息が止まることもあるし、いよいよ最期に使う薬みたいやな」という誤解をもってしまうのではないかしら。夏川草介は現役医師の作家であるだけに、記述を事実と思い込んでしまう読者も出てくるかもしれないので、このような表現は、たとえ小説であっても慎んでほしいな、と思ったのでした。
医療用麻薬は、トレーニングを受けた医師が使用する限り、怖くはありませんよ。
スピノザスヌーピーのピザ食べるのざ(別に深い意味はありませんよ)
No.112
2024年10月1日火曜日
夏目漱石のちょっと地味な中編小説に『野分』というのがある。野分(のわき)とは、台風のこと。小説は、学生時代に新任の教師をいためつけて、学校から追いやった主人公が、大人になってから、追い出した恩師と再会するという話。追い出された教師は、その学生のことを覚えていないが、生徒だった主人公の方はかつての恩師を覚えている。いまだ確固とした生き方をしていない主人公は、かつての恩師がどのような生活をしているのだろうかと気になって、身辺をうろつく。
あるとき、主人公は「解脱(げだつ)と拘泥(こうでい)」という論説を雑誌で読む。(実は後に、それを書いたのが、かつての恩師だったと分かる)その論説の中で、何度も何度も出てきたのが「拘泥」という言葉だった。これは、「こだわり」という程の意味だ。ぼくは、大学に入ったときに、「拘泥」という言葉をこの小説で知り、「こだわり」という言葉より、ちょっと知的な感じがしたので、それ以降、気に入って折に触れて使ってきた。
そして、その論説の中では、「拘泥は苦痛であるから避けなければならぬ。拘泥の苦痛は一日ですむ苦痛を五日、七日に延長するいらざる苦痛である。自己が拘泥するのは他人が自己に注意を集中すると思うからで、つまりは他人が拘泥するからである」云々と、拘泥することの害について述べられている。
この言葉を知って以来、「拘泥しない」というのが、ぼくの座右の銘のようになっている。
スピリチュアルペインというのは、自分が置かれた状況とそれまで自分が維持してきた信念や生き方に不調和ができたときに生じると言われている。自分自身がこうありたいと思い描く姿と現実の職場や社会に置かれた自分の姿は、必ずしも一致していないという場面は、いくらでもある。そうした、自分にとって不都合な周囲の状況が好転しないことに「拘泥して」いると、やがては「自分はいったい何のために生きているのだろう?」などと考えてこんでしまうようになるのかもしれない。
周りの状況を変えるより、自分自身が変わる方がずっとたやすいのではないかしら。拘泥せずに、しなやかに生きてみませんか?
拘泥しなくていい場面とそうでない場面があるのでご注意を
No.111
2024年9月24日火曜日
「人のふんどしで相撲をとる」とは、他人の物を利用して、自分の利益をはかること。あるいは、自分は犠牲をはらわずに、平気で人のもので事をおこなうことのたとえ。なのだそうだ。
今回は、つぼやきのネタが尽きた上に、けっこう用事が重なって時間の余裕がなかったので、人のふんどしを借りることにしました。(ご容赦ください)
天草に旅行に行ったときに、無料で配られていた、『のさる新聞』[令和元年(2019年)6月吉日 第14号]に、「インターネットで拾った面白い看板特集」という記事が載っていました。すなおに面白い。
平成二十四年(2012年)の第22回京都広告賞のグランプリ受賞作品。すばらしいですね。
平成二十年(2008年)11月4日付の読売新聞のKracieの全面広告(部分)。思わず、口元がほころんでしまいますね。
どうして、このような古い記事が手元にあるかというと、実はぼくは学生の頃から、何か絵画的に興味をそそるような素材を見つけると、ファイルに収集をしていました。ある時から、ファイル名を『面白図絵』として、ユーモアのある素材を集めるようになりました。いつか、ネタ切れして困る日が来ることもあろうかと思い、こうした資料を集めていたのです。(ウソです)
でも、最近では、このような行為は、「人のふんどしで相撲をとる」とは言わず、「シェア」というようですね。
No.110
2024年9月17日火曜日
学生の頃、皮膚科の実習で、患者さんの皮膚にできた皮疹を言葉で表現するときに、「湿疹」と書いたら、上級医から「湿疹というのは診断名ですよ」とたしなめられたことがある。皮疹を言葉で表現するのは、実にむずかしいのだ。先日も、病棟の患者さんの首の両側に、赤い皮疹が出たのをじんましんだと思っていたら、対診依頼をした皮膚科の先生から「これは多型滲出性紅斑ですね」と言われてしまった。皮疹の診断もまたむずかしい。
皮膚は人体最大の臓器と言われている。その面積は、成人の場合、たたみ一畳分にも及ぶそうだ。皮膚は体の一番外側にあるので、病変があると、見ただけでほぼ診断がついてしまう。ただし、即座に診断できるためには、当然、経験を積まねばならない。
医学は経験学習の占める比重が大きな学問だから、とにかく一度、「実物を見る」ということが大事なのだが、珍しい症例になるといつでもどこでも出合えるものではない。北大の総合博物館で、ロウ製皮膚病模型ムラージュ(moulage)の展示を見たことがある。今では根絶されて実物に出合うことも叶わない「天然痘」のムラージュも展示されていた。写真とは異なり立体感があって、より実物に近い標本だ。このような模型だと、ジロジロ見つめても問題はないのだが、生きた患者さんとなると、いくら表面に見える病変だからといって、観察(視診)し、ましてや触れる(触診する)ときには、患者さんに許可を得るなどの配慮をしなければならない。
学生時代の皮膚科外来実習のときに、円形脱毛症の比較的若い女性の患者さんが、教授の診察室に入って来られたことがあった。彼女は、窓際に並んでいる七人の医学生を見てたじろぎ、ちょっと憤ったような表情をして、診察を受けずに出て行ってしまった。当時の大学病院の廊下には、「当院は教育機関でもあるので、医学部学生が参加することがありますので、ご了承ください」といった内容の「注意書き」がそこここに貼られていたのだが、外来受診した患者さんひとりひとりに、学生が立ちあってもよいかという、説明と同意はなされていなかったように思う。
皮膚病ではなかったのだが、以前勤めていた病院の手術場の看護師さんから、あるとき十代の頃の辛い経験を聞いたことがある。彼女は、思春期特発性側弯症であった。大学病院の整形外科にかかっていたが、側弯症の症例呈示をするために、彼女は数十名の医学生の前に立たされたのだそうだ。多感な年頃だっただけに、その経験はトラウマとなったようだ。
かつては、「学用患者」と呼ばれる患者さんがいた。治療費を免除される代わりに治療や研究のために「協力」を要請される患者さんのことだが、最近では、倫理的な制約が問題となって、こうした患者さんはほとんどいなくなっているようだ。
百見は一聞にしかぬ場合もありますよ。
No.109
2024年9月10日火曜日
緩和ケア医を志したときに、奈良の新薬師寺を年に一度訪れて、そこで一年ごとに振り返りをしてみようと決めた。
新薬師寺には、薬師如来像と十二神将(十二人の武将)の立像がある。十二神将は、円陣を組んで中央の薬師如来像を守るように取り囲んでいる。一年に一度新薬師寺を訪ね、同じ場所で、緩和ケア医としての過去一年間を振り返る。そして、十二神将の絵葉書を、毎年一枚ずつ買い求め、一年間で経験したこと、考えたことなどを、絵葉書の裏に記していった。定点観測ならぬ定点リフレクション(振り返り)だろうか。新薬師寺は、近鉄奈良駅からかなり距離があり、バス路線からも離れているので、観光客はまばらで訪れる人は少ない。だから、少しひんやりとした堂内で十二神将を眺めながら、ゆっくりと一年を振り返るのには適している。
本堂の入口を入って、いちばん手前にあるインダラの絵葉書を買い求めたのが2014年だった。その後、右回りに毎年一体ずつ絵葉書を集めて、2025年には最後のバサラの絵葉書を手にいれる予定であったが、途中でコロナ禍に見舞われて、2020年は奈良に行けなかった。あと三体の神将が残っており、バサラの絵葉書を手に入れるのは2026年になりそうだ。
緩和ケア病棟では、平均すると二日に一人の患者さんが亡くなっているので、その全員を思い起こすことはできないのだが、一年間に病棟を去って行ったスタッフはすべて覚えている。こちらは、幸い亡くなった方はいないが、異動や退職で病棟を去って行った。慣れ親しんだスタッフがいなくなる度に、緩和ケア病棟の質が落ちるのではないかという不安に襲われてしまうのだが、新たなスタッフがやってきて、新鮮な風を送り込んでくれる。新しいスタッフもまた、経験を積み、やがては緩和ケア病棟の質を支えてくれるように成長していくのだろう。スタッフの新陳代謝を思うとき、頭の中には、いつもビートルズの 『イン・マイ・ライフ』が流れている。日常の診療で色々落ち込むことがあっても、一年単位のスパンで振り返ると、自分自身のわずかな成長が確認できるので、少し安心できることもある。
新薬師寺を訪れた後に、興福寺国宝館の阿修羅像に会いに行くことがある。興福寺は、近鉄奈良駅からのアクセスがよいこともあって、いつ行っても、大勢の修学旅行生やインバウンドの観光客などで賑わっている。
興福寺の阿修羅像は、高校生の頃から折りにふれて見に来ている。以前は、正面を向いている、例の少し眉をしかめて、じっと前を見つめている少年のような顔貌にばかり気をとられていたのだが、緩和ケアに関わるようになってからは、異様に細長く伸びた、六本の腕が気になるようになってきた。そしてあるとき、この腕は、緩和ケアの真髄を表しているのかもしれないな、と考えるようになった。
すなわち、掌を天に向けているような一番上の腕は、「患者にのしかかる苦痛を支え」、真ん中のかかえこむような格好の腕は、「患者に寄り添い優しく抱きかかえ」、胸の前で合掌している手は、「患者の苦痛がなくなりますようにと祈っている」ように思えてきたのだ。
今年は、まだ奈良へは行っていない。次に定点リフレクションで新薬師寺を訪ねたときには、興福寺の阿修羅像にも会いに行って、元気をもらって来ようと思う。
阿修羅像の手は料理の真髄を表すという説もあるらしい。
すなわち、作って、運んで、いただきます、だって。
No.108
2024年9月3日火曜日
村上春樹は、2009年にエルサレム賞を受賞したとき、記念のスピーチを行うためにイスラエルに赴いた。当時もイスラエル政府はガザに対して攻撃をくり返していて、村上春樹がエルサレム賞を受けたこと、およびイスラエルに赴くことに反対する声も多かった。その反対の声を押し切って、イスラエルでおこなったエルサレム賞受賞のあいさつが、「壁と卵」というスピーチである。これは、『村上春樹 雑文集』に納められているが、ネット上でも読めるので、一度読んでみてください。
この「壁と卵」の中で「私たちはもろい殻を持った卵だけれども、それぞれにかけがえのないひとつの魂を持った卵だ」と村上氏はたとえている。そして、壁は、私たちが作った「システム」だと。そのシステムは本来は私たちを護るべきはずのものであるのに、「あるときにはそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人を殺させるのです。冷たく、効率よく、そしてシステマティックに」と、スピーチで述べている。
卵はもろいので、壁にぶつかっていけば割れてしまうけれども、村上氏は、「どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです」と言っている。
ぼくが働く緩和ケア病棟においても、この一年間で、いくつもの卵が壁にぶつかって割れてしまったのを見てきた。彼女らは、自らが「卵」であるという表現はせず、自分たちは「駒」のように扱われていると嘆いていた。「駒」というと、たとえば将棋の駒のようにそれぞれに役割があるにちがいない。桂馬なら桂馬の、歩なら歩の役割があるはずだ。彼女らの嘆きは、「駒」のように扱われたからではなく、「駒」本来の使い方をしてもらえなかったことに対する悔しさから出てきたものではなかろうかと、近ごろ考えている。
ある「駒」は緩和ケアを続けたいと望んでいたのに、緩和ケアとはほど遠い部署に追いやられ、ある「駒」は「システム」の重圧に押しつぶされて(文字通り体まで壊して)、自ら将棋盤から退いていった。そんな彼女らの言動を見ていると、こうしたことは、彼女たちを「駒」のように扱っていることが問題なのではなくて、そもそも彼女らに「駒」本来の働きをさせていなかったことが問題だったのではなかろうか、と思えてきたのだ。このような不本意な扱いを受けてきた彼女らの「貢献」に対して、果たして「システム」は彼女らに敬意や関心を払ってきたのだろうか。
経営の父と呼ばれた、ピーター・F・ドラッカーがアメリカのある大学院で講義を行っていたときに、黒板に三つの質問を書いたそうだ、
そして、ドラッカーはこれを黒板に書きながら、「この三つの質問を社員に問いかけてみて、何割の社員が『イエス』と答えるかによって、その会社がいかほどのものかが分かる」と話したそうだ。
この一年間に、壁にぶつかって割れてしまった卵たちは、上の三つの質問にはどう答えただろうか?
そして、今のあなたは、これらの質問に『イエス』と答えられるかしら?
すてきな壁の作り方:魂を抜いた卵を積み上げて、マニュアルキソクという接着剤で固めます。監視の目をつけ、聞く耳は持たず、最初は口は要りますが、ムゴンノアツリョクが出るようになったら口は要りません。外壁は、外から殻が見えないようにISOペンキで、ぶ厚く美しく塗ってください。
No.107
2024年8月27日火曜日
先日、久しぶりにオペ室をのぞいたら、BGMをYouTubeから流していた。これだと、患者さんの好みに合わせた選曲が、ほぼ無制限にできそうだ。
かつては、看護師の術前訪問で患者さんの好みの曲を聞いて、できるだけそれに沿うような音楽を、CDプレーヤーで流していた。手術室で音源ディスクをストックするために、棚の一角には色んなジャンルのCDが並んでいたものだ。
この手術室のBGMは、本来患者さんのためのものなので、患者さんがリクエストした曲を流すことになる。全身麻酔であれば、麻酔を導入して眠ってしまうまでの短い時間だけ流れていればよいのだが、全身麻酔の前に行う硬膜外麻酔のためのカテーテルを留置するときのBGMは、麻酔科医にも聞こえてくる。そんなとき、患者さんが演歌を希望されると、ぼくはいつも困っていた。なぜなら、ぼくは演歌が苦手だから。「津軽海峡・冬景色」や「与作」が流れていると、演歌独特の「こぶし」のせいかどうかは分からないのだが、手元が狂いそうになる(もちろん、演歌のために硬膜外穿刺を失敗したことは、一度もありませんよ)。
クラシック音楽であっても、手術室に合う曲と合わない曲があるようだ。モーツァルトなら、たいての曲は邪魔には感じない。たとえモーツァルトの交響曲がBGMで流れていても、ぼくはほとんど気にならない。しかし、これがベートーベンの交響曲となると、なぜか気になって手の動きが止まりがちになる。何だか「おいおい、仕事をしながらオレの音楽を聞くなどという不謹慎な態度は許さんよ。しっかり集中して聴きたまえ」と言われているようで落ち着かないのだ。ショパンのピアノ曲などは、一見(というか一聴)静かで、手術室のBGMに合いそうなのだが、これも意外に合わない気がする。(これは、ぼくだけの印象かもしれませんが)
とにかく、手術室のBGMを選ぶのも意外とむずかしいものですね。
チンドン屋の演奏は手術室には合わないかなぁ?まだ、試したことはないけど。
No.106
2024年8月20日火曜日
「台所でスパゲティーをゆでているときに、電話がかかってきた。」
村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』の、この冒頭の一文を読んだときに、ぼくは麻酔科時代のエピソードを思い出していた。当時の麻酔科は、待機制で緊急手術の麻酔にそなえていた。日曜日の待機当番だった上級医のY先生は、手術室の日直看護師から、緊急手術が入るので麻酔をお願いします、という連絡を受けた。そのとき、ちょうどそうめんをゆでていたY先生は、「ちょっと待ってくれる。今、そうめんをゆでてるから」と、いつもののんびりとした口調で言って、いったん電話を切ってしまったのだそうだ。
『ねじまき鳥』では、「知らない声」の女からの電話であったのだが、この麻酔科医の呼び出しは、知らない声の女からではなく、いつも手術室で顔を合わせている看護師からだった。その後、緊急手術の麻酔をするためにY先生は病院に出かけたのだけれど、「そうめんをゆでているからちょっと待ってくれる」という発言は、もちろん次の日には手術場全体で共有されることになった。
手術場の看護師も待機制をとっていた別の病院では、こんなエピソードもあった。まだ一年目の新人看護師が待機当番の夜に、彼氏とデートをしていた。二人でイタリア料理店に行き、スパゲティーを注文した後に、緊急手術が入るので病院に来て下さいという連絡を受けた。このときは、さすがに「スパゲティーを食べるまで待って下さい」とは言えず、彼氏を残して彼女は病院に向かったのだそうだ。
ぼく自身も、麻酔科の待機当番のときに、韓国料理の店で忘年会をしている途中で呼び出されたことがある。このときは、初めて食べるはずだった韓国冷麺を食べそびれてしまい、残念な思いをした。また、食べ物がらみではないのだが、日曜日の昼に散髪屋で髪を切ってもらっている途中で呼び出しを受けたことがある。このときは、散髪屋のオヤジさんが、「帰ってきはったら、あと半分やりまっさ」と快く送り出してくれて、夕方に戻ってきてから散髪後半戦を再開したのだった。
緊急手術はいつ入るか予定が立たない(当たり前だけど)。休日や夜中に急性虫垂炎や消化管穿孔を起こしても、病院に行けば、いつでも手術ができて当然だろうと、世の中の患者さんたちは思っておられるかもしれませんね。でも、無事に緊急手術を遂行するためには、陰に、こうした手術室スタッフの苦労が隠れていることがあるかもしれませんよ(まあ、そうめんをゆでるのは大した苦労ではありませんが)。
グランドキャニオンで綱渡りをしているときに呼び出されたら大変だろうな。ぼくにはまだ、そんな経験はありませんが。
No.105
2024年8月13日火曜日
「関係」について、前回の続きのような話。
身も心も含めて、人というテーブルを支えているのは、やはり「関係」という柱に尽きるのかもしれない、と最近思い始めている。
何人もの患者さんが、「明日」をなくしてしまった例を緩和ケア病棟で見てきた。熊野神社前の八ツ橋の店で、若い頃に働いていたという女性のために、今度の日曜日に八ツ橋を買ってきてあげようと思っていたら、週末に亡くなってしまった。担当している患者さんが興味を持ちそうな雑誌の記事を見つけたので、切り抜きを明日届けようと思っていたら、次の日には意識がなくなっていた。自宅で状態が悪化し、緩和ケア病棟に緊急入院する予定の患者さんが救急室に運ばれて、ストレッチャーの上で心電図検査を待っている間に呼吸が止まってしまった…。これから先、自分に与えられた時間がどれくらいあるかなんて、実際のところ誰にも分からないのではないかしら。
がん患者さんの終末期には、病状が加速度的に悪化することがある。「明日」がないかもしれないがん患者さんを前にすると、大切なのは、未来の約束や共にいる時間の長さよりも、今ここで相対しているお互いの「関係」なのではないだろうか、と考えるようになってきた。そして、そうした「関係」というのは、何も生死に関わることばかりではなく、日常生活の中で出会うさまざまな人々との、あらゆる「関係」についても同じように言えることなのではないだろうか。
以前こんな言葉に出会ったことがある、「小才は、縁に出会って縁に気づかず、中才は、縁に気づいて縁を生かさず、大才は、袖すり合った縁をも生かす」。江戸初期の剣術家、柳生宗矩の言葉とされている。ぼくたちは、毎日々々、人との「関係」の中で生きている。その「関係」の中には、朝にあいさつをかわすだけの人もいるかもしれない。終日仕事を共にする人もいるかもしれない。初めて会う人、いつも会う人、たまに会う人。あるいは、手紙やメールでのやり取りだけの「関係」もあるかもしれない。それら無数の「関係」の中に自分という存在がある。出会いは縁であるが、縁を生かすも殺すも自分の心がけ次第ということだ。
クールさを美徳のひとつと思い込んでいた学生時代は、人付き合いがわずらわしく感じられたこともあった。若い頃は、サイモンとガーファンクルの『アイ・アム・ア・ロック』という曲の、「自分の周りを鉄壁の要塞で固めて誰も立ち入らせない。友情なんかいらない、苦痛を生むだけだから」というつっぱった歌詞に共感していたこともあった。
こんなぼくが、今ではコンビニのおじさんやお姉さんともたわいのない会話を交わせるようになっているのだから、人間、変われば変わるものである。
世界は「関係」でできている。
No.104
2024年8月6日火曜日
全身麻酔から覚醒した患者さんに、「手術が終わりましたよ」と声をかけたときに、「えっ!?もう終わったんですか?まだ手術が始まっていないと思ってました」と言われることがある。このような患者さんにとっては、全身麻酔中の「時」は進んでいないと感じられるのだろう。でも、手術に関わるスタッフの「時」は、確かに経過している。手術室の壁の時計も、その「時」の流れを数字で表している。このように延々と過ぎていく「時」はクロノスと呼ばれている。
一方、夕べ家族そろって夕食をとったとか、子どもの出産に立ちあったとか、あるいは親の死に目に間にあった、などという自分が経験する出来事は、関わる相手の時間の流れがたとえ異なっていたとしても、確かにある時点で交わっている。こうしたイベントにまつわる「時」はカイロスと呼ばれている。
このように、「時」にはクロノスとカイロスがある、と昔から考えられてきた。
ぼくは、何も存在しない空間においても途切れなく流れる時間がある、とかつては信じていた。しかし、イタリアの物理学者カルロ・ロヴェッリは、こうした普遍的な時間というのは存在しない、あるのは相互作用という「関係」だけだということを、現代物理学の知見を駆使して証明してくれた。このことを知ってから、クロノスと呼ばれる普遍的な時間は存在せず、あるのは「関係」というカイロスだけではないかと、ぼくは考えるようになった。(詳しく知りたい方は、カルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』[NHK出版]を読んでください)
在宅緩和ケアをしている小澤竹俊先生は、人というテーブルを支えている、時間、自律、関係という三つの柱について述べている。がん患者さんで余命が少なくなったときには、時間(この時間はクロノスですよね)という柱が短くなる。やがて、体の動きがままならなくなって歩けなくなり、トイレにも行けなくなると、自律という柱が短くなる。すると、支えているテーブルが傾いてしまう。しかし、時間と自律の柱が短くなっても、関係という柱を太くしておけばテーブルは支えることができるのだ、と説明している。(『13歳からの「命の授業」』[大和出版])これは非常に分かりやすいたとえで、直感的にも理解しやすい。
しかし、カルロ・ロヴェッリの「時間は存在しない」「あるのは「関係」だけだ」という説に触れてからは、(クロノスの意味での)時間という柱(少なくとも未来に向けての柱)は、そもそも存在していないのではないかと考えるようになった。あるのはただ、自分と自分の周りの「関係」(カイロス)だけなのではないだろうか。
このテーブルをスピリチュアリティ(自分の存在意義とか生きている意味)と考えると、スピリチュアリティを支えるためには、常日頃から「関係」の柱をできるだけ太くしておかねばならないように思われる。そして、「関係」の柱を太くしておくということは、何も残された時間の余裕がなくなったがん患者さんに限ったことではなく、生きている限り、誰にとっても大切なことなのではないだろうか。
「時間」と「自律」の柱が短くなるとテーブルは傾く。しかし、「関係」の柱を太くすれば、テーブルは支えられる。
No.103
2024年7月30日火曜日
大学に入ったときの教養課程に、人文地理学という授業があった。鹿児島出身の友人が、土産にかるかんと芋焼酎を買ってきてくれたとき、大学のすぐ横にあった彼の下宿で、昼休みにかるかんをあてに焼酎を数人のクラスメイトと飲んだ。その後、午後の人文地理学の授業に臨んだことがあった。ところが、鹿児島出身の友人はすっかり酔っ払い、階段教室の一番上の席で、授業中に騒ぎ出してしまった。昼休みに一緒に焼酎を飲んでいた友人たちは、かかえるようにして彼を教室から連れ出したのだった。卒業後、同窓会で顔を会わせて、そのときのエピソードに触れると、当の鹿児島出身の友人は、昼休みにみんなで芋焼酎を飲んだことは覚えているのだが、人文地理学の授業から強制退場させられたことはまったく覚えていなかった。それにしても、若気の至りとはいえ、人文地理学の教授にはたいへん失礼なことをしたものだ。
この人文地理学の授業で今でも覚えているのは、最初の授業で、京都の地名について講義してくれたことだ。京都の地名は独特の読み方をするものが多く、地方出身の学生にとっては、新鮮な驚きばかりだった。
烏丸丸太町、車折神社、帷子ノ辻なども初めてだったら読めないかもしれませんね。それぞれ、カラスママルタマチ、クルマザキジンジャ、カタビラノツジです。
そのときの講義で一番難物だったのが、一口だった。これは久御山町にある地名ですが、何と読むかご存知でしょうか?実は、これはイモアライと読むのだそうです。
医学・医療の世界では、むずかしいというよりは、業界独自の読み方をしている言葉があるのに気づかれているでしょうか?
鼻腔、口腔、腹腔は、医学用語では、ビクウ、コウクウ、フククウと読みますが、「腔」という字を一般人は、腔腸動物(コウチョウドウブツ)というように「コウ」と読みます。
ちょっと特殊ですが、舌の表面の絨毛のような乳頭の中にポツポツと見えるキノコ型の乳頭を茸状乳頭と言いますが、医学部では、これを「ジジョウニュウトウ」と読むと教わりました。でも「茸」は「ジ」ではなく、正しくは「ジョウ」としか読めません。
いわゆる慣用読みというのでしょうか。これは、ふだんぼくたちが使っている漢字でもあります。たとえば、消耗、情緒などは、一般的には「ショウモウ」、「ジョウチョ」と読んでいますが、正しいというか従来の読み方は「ショウコウ」、「ジョウショ」なのですね。
腔を「コウ」と読むのは医療業界の慣用読みでしょうが、「茸」を「ジ」と読むのは、多分漢検3級をクリアできなかった医者が間違って読んでしまったのがそのまま通用しているような気がします。
何だか今日は、国語の授業みたいでしたね。
No.102
2024年7月23日火曜日
新設の病院の麻酔科医をしていたとき、高校時代の同級生が病院に訪ねてきたことがあった。彼女はその病院の近くに住んでいて、病院の玄関口に掲示されたネームプレートを見て、ぼくのことを思い出してくれたようだ。彼女は、高校二年生のときに同じクラスで、当時ぼくが憧れていた女性だった。
ちょうどその頃、日曜洋画劇場で『シベールの日曜日』というフランス映画を放映していたのだが、その映画で少女役をしていたパトリシア・ゴッツィに、彼女は似ていた(と、高二のぼくは思っていた)。彼女のことが頭と心から離れなくなったとき、ぼくは思い切って彼女に「付き合ってください」と告白をした。結果、その場で即座にフラれてしまった。
こっそり告白したつもりだったのに、なぜかその日のうちに、クラスの他の女の子たちがその秘密の告白を知っていたので驚いた。別の女の子(確か剣道部だった)が、彼女がぼくの告白を言いふらしているわよと教えてくれた。しばらくは誰の顔もまともに見られないくらい恥ずかしかった。その屈辱からどのように立ち直ったのかはまったく覚えていないのだが、初めて女子の残酷さを知った経験だった。
イギリスの詩人テニスンの「恋してふられる方が、一度も恋をしないよりはましだ(’Tis better to have loved and lost, than never to have loved at all.)」という言葉を知ったのは、多分四度目の失恋の後だったと思う。
そして、こうした精神的打撃から立ち直る力を「レジリエンス」と呼ぶのだということは、結婚をして、もはや失恋する機会を失ってからだった。レジリエンスというのは、失恋からの立ち直りに特化した表現ではないのだが、振り返ってみると、ぼくのレジリエンスは失恋で鍛えられてきたように思える。
ところで、高校以来、約三十数年ぶりに再会した憧れの女性とは、患者さんがほとんどいなくなった病院の外来待合室で、短時間だが言葉を交わすことができた。彼女は単に懐かしいわねという話をしていたのだが、ぼくが思い出していたのは、やはりフラれた日の苦い経験だけだった。一度もデートしていなかったのだから仕方がないといえば仕方がないのだけど…。
No.101
2024年7月16日火曜日
医療の現場で、医師は時に感情が揺さぶられる経験を味わうことがある。この感情には、辛い、悲しい、惨めだ、苦しい、などの陰性感情と、嬉しい、感動した、ワクワクした、という陽性感情とがある。こうした感情は、人と人とが接する仕事の中ではしばしば起こりがちではあるものだが、日々の臨床を続けていく上で大事なのは、こうした感情の起伏をいつまでも引きずらないことだ。
こうした、心が動いた経験をしたとき、後々まで感情を引きずらないようにするために、SEA(シーではなくエスイーエイと読みます)(Significant Event Analysis)という振り返りの手法がある。これは、数人のグループで行うもので、一枚の用紙に、まず、①自分自身の臨床経験の中で、心が動いた経験を具体的に書き出し、②そのときに自分がどう感じたかを振り返り、③そのときうまくいったこと、④そのときうまくいかなかったこと、⑤こうしたらよかったなと思うことを書き出し、最後に⑥次に同じようなイベントに出会ったときにどうすればよいかを書く。そして、グループの中で、①〜⑥について発表し、コメントを述べ合う。ただし、このときのコメントは、決して相手のことを批判したり非難したりする内容にはならないようにする、というのが原則です。
ぼくは、臨床指導医講習会で初めてSEAを体験した。そのときぼくは、麻酔科医として担当した帝王切開で、無呼吸で生まれてきたベビーの蘇生をした経験を語った。アンビューバッグで換気しようとしても、肺が硬くて換気ができず、とても怖い思いをしたのだった。SEAに参加した数人のメンバーの中に産婦人科医がいたが、彼も同じような経験があると話してくれて、僕の中にあったモヤモヤした感情がちょっとすっきりしたように記憶している。
緩和ケアに従事するようになってから、緩和ケア病棟での研修を終えた研修医にSEAを実施してみたことがある。本来グループですべきなのだが、研修医と1対1で行った。心が動く経験については、陰性感情とは指定しておらず陽性感情でもOKなのだが、研修医が述べる経験は、圧倒的に陰性感情を抱いた経験が多かった。中には、患者からきつい言葉をかけられたと打ち明け、SEAの途中で涙を流した研修医もいた。
レイモンド・チャンドラーの『水底(みなそこ)の女』にこんな一節がある。「医師だって、我々と同じ普通の人間なのだ。悲しみに耽ることもあれば、限りなく続く惨めな闘いに従事することもある。」(村上春樹訳)くり返すと、大切なのは、そうした感情をいつまでも引きずらないこと。感情が揺さぶられて落ち込んだり舞い上がったりするのではなく、経験を振り返って将来の糧としていくことで、医師は成長してくのでしょうね。
No.100
2024年7月9日火曜日
人が100歳を迎えたときには、紀寿とか百寿といって祝われる。この「つぼやき」は別に100年続いたわけではないから、紀寿ではないのだが、100回というのは一応の区切りかもしれない。で、100回記念ということで、今回はひとつ宣伝をお許しください。
実はこの度、生まれて初めて絵本を作らせていただきました。『がんになったライオン』(クリエイツかもがわ)という絵本です。これは、2021年に当院の緩和ケア病棟で作った同名の電子紙芝居がもとになっています。
『がんになったライオン』(京都民医連中央病院YouTubeチャンネル)
この動画は、医療関係者だけでなく介護関係者も含めて、広く緩和ケアを知ってもらうために作られたものでしたが、この話をもとに絵本を当院で作ることになり、絵と文を任されました。
クリエイツかもがわの岡田温実さんと初めて打ち合わせをしたのが、2022年11月22日でした。絵本をどうやって作るのかも知らなかったので、サンプルを見せてもらいながら、まず絵本のボリュームとページ割りを決めましょう、と基本から教えていただきました。
電子紙芝居は絵が60枚以上あり、このままでは絵本のサイズに合わないので、子どものケアを省略して短くし、ストーリーも変更しました。絵本では、小説や物語と違って絵の比重が大きくなるので、見た目の印象が大事です。でも、文字数がずっと少なくなる分、文章を読んだときのリズムや響きもおろそかにできません。だから、絵本では、絵と文章両方ともに気を配らなければなりません。
登場人物(動物かな?)の顔や姿もかなり変更しました。絵は水彩絵の具を主体として、一部色鉛筆とアクリル絵の具を使って描きました。見た目がきれいな絵にするために、色は混ぜないようにしようと決めていました。たとえば、黒と白を混ぜて灰色を作るのではなく、グレイ・オブ・グレイとデービス・グレイという二種類の灰色絵の具を使い分け、緑系の絵の具は五種類使いました。城壁やリュウの背中などは、ザラっとした質感を出すために、色鉛筆を使っています。
絵よりも苦労したのは文章でした。本文は読み返すたびに、何度も何度も手を加えていました。最終稿を出してからも、「こころ」や「いのち」をひらがなのままにするのか漢字にするのか、最後の最後まで悩みました。
この絵本を作り始めたときは、コロナ禍まっ只中でした。2023年に入って、ロシアのウクライナ侵攻とイスラエルのガザへの攻撃が始まりました。絵本には政治的なメッセージは一切ありませんが、読み返すと、これらの戦争の影響を受けたかもしれないなぁ…と思うところはありました。
今回は、緩和ケアの啓蒙という意図がありましたが、いったん作者の手を離れた絵本に、どのような感想をもつかは読んだ人にゆだねられます。よろしければ、一度手に取ってご覧ください。
『がんになったライオン』(1600円+税)
全国の書店、オンライン・ショップで発売中。
No.99
2024年7月2日火曜日
アダム・グラントの『GIVE & TAKE「与える人」こそ成功する時代』(三笠書房)に、人間の思考と行動は、三つのパターンに分類できると書かれている。すなわち、「ギバー(与える人)」「テイカー(受け取る人)」「マッチャー(バランスをとる人)」の三パターンである。
「ギバー」とは、最初に相手のことを考えて、見返りを期待せず、その人のために与えようとする人。「テイカー」は、物事を自分中心に考え、自分が利益を得る(得をする)ように行動する人で、その手段としてのみ、相手に与えるような人。「マッチャー」とは、人間関係のやり取りにおいては、与えたものと同等のものが得られるべき(五分五分の関係)だと考える人。
臨床研修指導医が、何の報酬も出ないのに、時間を割いて研修医にレクチャーを行うときは「ギバー」かもしれない。大学教授などが、大学院生が行った研究を自分が指導したのだからといって、自分を論文のファーストネームにするような場合は、間違いなく「テイカー」だ。子どもを私学の学校に通わせているお母さんたちが、高い授業料に見合った教育をしてくれと学校に要求するのは「マッチャー」だろうか?もちろん、同じ人でも、さまざまな場面でそれぞれのタイプが入れ替わることはあり得るかもしれない。
これらは、時間、名誉やお金を介したやりとりのように聞こえるが、佐々木かをりの『Give & Givenの発想』(ジャストシステム)では、もっと広い意味でとらえている。「ギバー」とは、「周りのために、積極的に行動を起こしている人だったり、考えを提供する人、建設的な発言をする人、笑顔を振りまく人…人生でも、社会でも、まわりにプラスの影響を与えている人」。そして、「テイカー」とは、「その場を吸い込んでしまうような、ブラックホールのような人。たとえば、無表情で意志がわからない人。前に進むことに抵抗をして、全力で足踏みをしてしまっているような人。前に進んでいる人の悪いところを探して、批判や非難をする人、周りの人の足を引っ張る人など。まるで、燃え上がっている炎を一瞬のうちに消してしまう消火器みたいな人」という具合だ。
そして、「ギブ&テイク」という表現をしていると、ついつい与えたのだから奪っても当然という認識を育ててしまうかもしれないと恐れて、彼女は「テイクという単語を、私の辞書から消した」と述べている。そんな彼女が生活の中心に据えた発想は、「ギブ&ギブン」つまり、与え、与えられる、というものであったという。
「医のプロフェッショナリズム」で触れた、プロフェッショナリズムを支える四つの柱のひとつにあった「利他主義」の精神は、「ギブ&ギブン」から生まれるものかもしれない。そして大切なのは、医療行為における「ギブン」は、おそらく医療費ではないということ。医療行為における「ギブン」とは、きっと患者さんからいただく「ありがとう」のひと言に違いない。
動物にはエサを与え過ぎないでね。
No.98
2024年6月25日火曜日
『論語』の中で気に入っている言葉がある。
「学んで思わざればすなわち罔(くら)し。思うて学ばざればすなわち殆(あやう)し。(為政第二)」
吉川幸次郎の解説によると、「学んで思わざれば、の学ぶとは、読書を意味し、思うとは、思索を意味する」とのこと。本ばかり読んで自分の頭で考えなければ、罔し、すなわち「混乱をきたすばかりである」。逆に、頭で考えてばかりで読書をしないと、殆し、すなわち「生活は独断に陥り、不安定である」という意。
このような態度は、臨床医学においても必要ではないかと思われる。臨床医学は、多分に経験学習の比重が大きい。だから、本ばかり読んでいても一向に臨床能力は養われないだろう。実際の症例から学ぶことはとても重要なことではある。でも、だからと言って、ただ単に臨床経験を積むばかりでは、独断に陥りかねない。(かつて、これを「経験の垂れ流し」と表現した先生がいた。言い得て妙である)たまには、本を読んで自分の経験をふり返ることも大事なのだ。
ジョンズ・ホプキンズ大学医学部の内科教授であったウィリアム・オスラーも臨床について、同様のことを述べている。彼は臨床を航海にたとえて、次のように述べた。
「患者を診ずに本だけで勉強をするのは、まったく航海に出ないに等しいと言えるが、反面、本を読まずに疾病の現象を学ぶのは、海図を持たずに航海するに等しい」(『平静の心 オスラー博士講演集 新訂増補版』)
ここで告白するのだが、ぼくが麻酔科から緩和ケア内科へ転身したときに困ったのが、内科の知識不足だった。内科臨床はおろか、本すらあまり読んでこなかったので、麻酔科医として手術室で働いているうちに、確実に診断能力は劣ってしまったようだ。緩和ケア医として働き始めたころ、たとえば抗菌薬の選択ひとつをとっても分からないことばかりだった。幸い、院内には優秀な先生方が控えておられたので、他科の先生方に質問をしたり、対診依頼書を書きまくったりして、何とか切り抜けてきている。
新しい臨床研修制度の下で鍛えられている昨今の研修医の先生方は、内科も外科も救急も、一応広く修得されているので、うらやましい限りです。臨床経験を積み、テキストにあたって経験をふり返り、次の症例に活かしていってください。
近くの郵便局に行くだけなんだけどな…
No.97
2024年6月18日火曜日
コロナ禍に見舞われる前、当院では、昼どきにランチョンセミナーが開かれていた。新任の医師は、お披露目もかねて必ず何らかの演題で話をすることになっていた。ぼくは、緩和ケア科・麻酔科として着任したが、以前から気になっていた、「医のプロフェッショナリズム」についての話をした。そのとき、『論語』とからめてプレゼンテーションをしてみた。というのは、『論語』によく出てくる「君子」をプロフェッショナリズムを体現した人物、すなわち「プロフェッショナル」とみなしてみると、意外としっくりくるような気がしたからだ。
「君子はその言の、その行に過ぐるを恥ず(憲問第十四)」
プロフェッショナルは、大きな声で意見を主張するばかりで行動が伴わないことを恥ずかしく思う。
「君子は義にさとり、小人は利にさとる(里仁第四)」
プロフェッショナルは利益よりも正義を大事にする。
「君子は器ならず(為政第二)」
プロフェッショナルは器のように形が限定されて融通がきかないものではなく、その働きは広く自由である。
「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず(子路第十三)」
プロフェッショナルは人と調和するが雷同(何でもかんでも人の意見に同調すること)はしない。
どうでしょう、「君子=プロフェッショナル」と言っても、ほとんど違和感がないと思いませんか。
そもそも医師にとって、プロフェッショナリズムとは国家試験のような試験を受けて授与される資格ではない。また、何らかの基準があって、それらを満たしたからプロフェッショナルになれるというものでもない。当院でのランチョンセミナーの準備をしているときに、プロフェッショナリズムというのは、はるか先にある「到達すべき目標」のようなものではないかしら、と考えたことがある。それは、研修医であっても定年を過ぎた医師であっても、医の大海原を航海するときに、常に見失ってはいけない北極星のようなものではないでしょうか。
医のプロフェッショナリズムの定義はいろいろあるようだが、ぼくが気に入っているのは、L.アーノルド&D.T.スターンが呈示した模式図だ。これは、医のプロフェッショナリズムをギリシャ神殿のような建物にたとえていて、直感的にわかりやすい。臨床能力(医学的知識)・コミュニケーションスキル・倫理的および法的理解を土台とし、
卓越性(Excellence)・人間性(Humanism)・説明責任(Accountability)・利他性(Altruism)の4つの柱に支えられているのがプロフェッショナリズム、という模式図である。
それにしても、『論語』が編纂された頃、つまり孔子とその弟子たちが中国大陸を放浪(?)していた頃って、日本は弥生時代だったのですね。『論語』は聖書よりも古い古典で、忠義とか孝行とか礼とか、何かと堅苦しい印象があるけれど、今でもハッとする言葉に出会うことがあるのだからすごいですよね。
タケコプターではプロフェッショナリズムは手に入りませんよ。
No.96
2024年6月11日火曜日
スマホに、「フィットネス」というアプリが入っている。これは、1日の運動目標として、カロリー消費量をあらかじめ登録しておくと、歩いた歩数に応じて赤いリングの軌跡が増えて行き、設定したカロリー消費量に達すると、リングが完成する仕掛けになっている。夜になってもリングが完成していないときには、「あと3分間のウォーキングでリングを完成できますよ」などという表示が画面に出てくる。こんな表示を見ると、急かされるような気分になって、家人にうさん臭がられながら、無目的的に家の中を歩き回ってしまうことがある。あと、2000円の購入でポイントアップしますよ、というアマゾンのポイントアップセールと同じ心理攻撃だ。
犬の散歩に出かけると、ウォーキングをしている人をよく見かける。独りで、あるいはご夫婦で。これは、あくまでウォーキングであって、散歩ではない。健康増進や足腰の衰えを予防する、などの目的をもった「運動」の一種であろう。
本来、「散歩」というのは、何の目的ももたず、目的地も定めず、ただブラブラ歩くことではないだろうか?だとすると、犬の散歩というのも、犬の排泄を目的としているのだから、厳密には「散歩」とは言えないかもしれない。
英語で「散歩をする」という単語を調べると「go for a walk」という熟語が見つかる。どうやら「散歩をする」に当たる一語の動詞は、英語にはないようだ。ドイツ語には、「散歩をする」という動詞、「spazieren(シュパツィーレン)」がある。「あてもなく、のんびりとぶらつく」という意味だ。このように、本来「散歩する」という言葉には、確たる目的をもって歩く、という意味合いはなさそうだが、散歩の途中で思いもよらぬ出来事に出くわすことがある。外山滋比古のベストセラー『思考の整理学』にも紹介されている、いわゆる「セレンディピティ(serendipity)」という現象である。ちょうど去年の今ごろ、犬の散歩中に交尾中のモリアオガエルのご夫婦(だと思うのですが)に出会ったことがある。ぼくは、モリアオガエルの卵(木の枝に塊状になっている泡)は何度か見かけたことはあったが、モリアオガエルの生きた個体を見たのは、これが初めてだった。しかも、雌雄の二個体を同時に、しかも滅多に見られない交尾中の御姿を。であるから、これはまさにセレンディピティでした。
仕事や研修に追われる医療者は、四六時中目的をもった行動をしているかもしれませんが、たまには純粋な意味での「散歩」をしてみてはいかがかしら。予期せぬセレンディピティに出会うかもしれませんよ。
犬の散歩中にお会いした、仲のよいモリアオガエルのご夫婦。
No.95
2024年6月4日火曜日
先日、京都大丸8階に昨秋オープンした、LA RISOTTERIAというリゾット専門店に行ってきた。以前に、このブログでも紹介した、カ・デル・ヴィアーレの姉妹店である。厨房が見えるカウンター席と数席のテーブル席があるのは、カ・デル・ヴィアーレと同様の造りだ。ただ、テーブル席は、丸いテーブルに四分の三周くらいシートがあって、大きな一枚の木の板を筒状に成形した背の高い背もたれで囲まれているので、個室風の雰囲気がある。この「丸」をモチーフにしたテーブル席は、カ・デル・ヴィアーレの渡辺シェフのこだわりなのだそうだ。
テーブル席に置かれたプレートに、リゾットの豆知識が書かれていた。これによると、LA RISOTTERIAでは、うるち米ではなく、イタリア米を使っているとのこと。トマトのリゾットとハーブのリゾットを注文したが、出てきたリゾットの米を見ると、確かに日本のうるち米よりも細長く、白っぽかった。これをアルデンテに仕上げるのがシェフの腕の見せどころだ。
アルデンテというと、パスタをゆでる時の調理法かと思っていたが、本格的なリゾットも、アルデンテに仕上げるのですね。ネットで、リゾットの作り方を調べると、おじやのようにベタベタにならないように仕上げるには、米は洗わず、オリーブオイルで生米を炒める時にあまりかき混ぜず、温度が下がらないようにブイヨンは熱いものを少しずつ加えるべし、とあった。この、アルデンテというのは、イタリア語で、al dente、意味は「歯ごたえがある」なのだそうだ。デンタル・クリニックという言葉からも想像される通りdenteというのは、歯のこと。パスタや米の芯がわずかに残る「歯ごたえがある」くらいにゆでるのが、いいらしい。
このアルデンテのリゾットを食べながら考えていたのは、医者もアルデンテがいいのではないかしら、ということだった。一人前の医者になるまでに、人の何倍も勉強をしていると、ともすれば、「お医者さん」たちは、何も知らない患者さんたちより自分たちの方がエラいのだと錯覚してしまいがちになるのではないかしら。病状や検査データだけを見て診断して説明に及ぶと、説明を聞いた時の患者さんが、どのような受け止め方をし、どのように納得するか(または誤解しているか)、あるいはショックを受けるかにまで注意が向かなくなってしまうおそれはないだろうか。たとえ、それが医学的にはまったく間違っていない「正しい説明」であったとしても、である。知識ばかりつめ込んだ医者は、ゆで過ぎて水分を含み過ぎたパスタのようなもので、もう一度食べたいとは、誰も思わないかもしれない。
では「医者の芯」とはそもそも何だろうか?「医者の芯」とは「謙虚さ」かな、とカプチーノを飲みながら考えていた。アルデンテの医者とは、謙虚な心を残した医者のことかもしれないな。
LA RISOTTERIAの看板です。
No.94
2024年5月28日火曜日
高槻市にあるJT生命誌研究館の名誉館長である、中村桂子さんの『生きている不思議を見つめて』(藤原書店)という本を読んだ。その中で、「地球に優しくしよう」という態度は<上から目線>だと触れられていたのを読んで、確かにそうかもしれないなと思った。
JT生命誌研究館に「生命誌絵巻」という絵がある。この絵巻は一番下を要として左右に扇を開いたような恰好をしている。扇形の要は、38億年前に誕生した祖先細胞で、すべての生きものはそこから始まっている。扇の軸に沿って時間が経過する中でさまざまな生きものが生まれてきた。単細胞から多細胞へ。海から陸へ、空へと、生きものは多様化してきた。そして、扇の左上端にはヒトが描かれている。
ここで大事なのは、そうした「多様性」をもった生きもののすべては、DNAが入った細胞でできている「共通性」があるという点。そして、どの生きものも38億年の歴史をもって今ここに存在しているという点なのだ。すべての生きものは、「さまざまな形をして、さまざまな生き方をしているだけで価値の上下はありません」と中村桂子さんは強調している。
「地球に優しくしよう」と言うとき、その視線は上から扇を見下ろしている。つまり、38億年の歴史をもった地球上の多様な生きものたちを、あたかも自分だけは特別な存在なのだと言わんばかりの視線で見下ろしている。これを、彼女は<上から目線>と呼んだ。しかし、忘れてならないのは、人間も38億年の歴史をもった生きものであり、自然の一部であるという事実なのだ。「このあたりまえのことを基本に置くというのが生命誌の基本」ですと、彼女は強調している。
人間が、他の生きものとは異なっていると考え始めたのは、そもそもいつ頃なのだろうか?『創世記』には、神は、人に「海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、血を這うものすべてを支配させよう」と言った、と記されている。だとすると、人がこの世に現れた時点から、すでに人は他の生きものを上から目線で見ていたことになるわけだ。<上から目線>は案外根深そうな視線だから、ぼくたちが自覚しなければ改まらないのかもしれないな。
No.93
2024年5月21日火曜日
緩和ケア病棟で最初に入院患者さんの似顔絵を描いたのは、90歳代の肺がんの女性だった。できるだけ実物に近づけようと、顔の皺も克明に描いたので、自分ではうまく仕上がったと思っていた。ところが、患者さんにその絵を手渡したところ、「まあ、私ってこんな年寄りなの?」と不満を述べられてしまった。
それ以降、患者さんの似顔絵を描くときには、三つのことに気をつけるようになった。①ご本人の実年齢よりも、ずっと若く描く(とくに女性の場合は必須) ②笑顔に描く ③その人の好きな花や動物の絵などを添える、の三つだ。そのように描くと、不満を述べる患者さんはいなくなった。「え〜、こんなに若く描いてもらって…」などと言いながらも、まんざらではなさそうで、たいていの患者さんの顔はほころんでいるのだ。
似顔絵は、油性サインペンを用いて、A4のコピー用紙に、数分間で描く。その間は患者さんと対面しているが、ふだん交わさないような会話ができることもある。サインペンの下書きができたら、詰所に戻ってクーピー色鉛筆でさっと色をつける。このときに、話の中に出てきた、好きな花、動物(ご自分のペットのこともある)などを添える。パートナーやお子さん、時には親御さんとともに描くこともある。患者さんのご家族によっては、こうして描いた似顔絵を額に入れて飾って下さることがある。ありがたいことである。
ときに、お元気なころの写真をスマホなどで見せてもらうことがあるのだが、わずか数ヶ月前の間に、化学療法の副作用で髪の毛が抜け、悪液質となって痩せた顔貌に変化するのを見て、人の顔とはこれほどまで変化するものなのかと驚くこともある。そんなときは、お元気なころの写真があれば、それを見て似顔絵を描かせてもらっている。
ご自分の顔に興味をもつかどうかというのは、どうやら認知機能や意識状態に左右されるようだ。認知症が進んだ方や、せん妄状態にある患者さんは、似顔絵を描いて手渡しても、ほとんど関心を示されない。逆に、ぼんやりとしているように見える患者さんであっても、似顔絵を見たとたんに顔がパッと輝く場合がある。ぼくは、この表情の変化を見るのが好きなのだが、このような方の認知機能はまだまだ大丈夫なようだ。
No.92
2024年5月14日火曜日
工学部時代の研究室の教授が還暦を迎えたとき、ぼくは医学部の学生になっていた。すでに研究室を離れていたが、教授の還暦の祝いの席に招待された。そのときにスピーチを頼まれたのだが、何を話そうかと考えているうちに、人が還暦を迎えるまでの60年間で、心臓から送り出す血液を琵琶湖に流したらどれくらい琵琶湖の水位が上がるだろうかという話をスピーチに入れようと思いついて、概算したことがある。
人の心臓から送り出される血液量、すなわち心拍出量は、年齢によっても運動量によっても変化するので、ごく大雑把に、0歳から60歳まで平均して1分間に5リットルとして計算した。すると、人の心臓が60年間に送り出す血液量は、約1億6千万リットル(約16万m³)になる。琵琶湖の面積はおよそ670.4km²。人が還暦まで休まずに心臓から送り出した血液を琵琶湖に流し込んだとすると、琵琶湖の水位はおよそ0.24mm上昇する計算になる。1mmのたった4分の1。これは食品をラップするサランラップなどを2枚重ねた程度の厚みですね。心臓ポンプで60年間休まず琵琶湖に血液を流し込んでも、その程度の水位の変化にしかならないことを知って愕然とした。
夏場などに、琵琶湖の水位が下がって大変だと、ときどき報道されることがある。では、琵琶湖の水位が1cm低くなると、一体どれくらいの水の量が失われたことになるのだろうか?計算すると、これは体積にして約67億リットルになる。日本で一人が使う水の量は、1日に平均220リットル程度と言われているので、琵琶湖の水1cm分の水量67億リットルは、約3000万人以上の1日に使用する水量に匹敵する。京都市の人口が約148万人だから、琵琶湖の水位1cm分は、大体京都市民全員が日常使う水を20日間程度まかなうことができる計算になる。
こうしてみると、人が還暦を迎えるまでに心臓から送り出した血液量は、琵琶湖の水位にほとんど影響を及ぼさないのに、わずか1cmの琵琶湖の水位の変化は、多くの人の生活に影響を及ぼしているのが分かる。このように考えると、自然界の中で一人の人間の力はちっぽけなものだが、自然界のわずかな変動は、人間に実に大きな影響を与えているのだなあ、と改めて感心してしまう。
抽出できた全知識量が、たったのこれだけだって!?
No.91
2024年5月7日火曜日
新任の研修医の先生が、医局であいさつをするときに、「ご迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお願いします」と言うことがある。プロ野球の世界だと、高校を出てすぐに頭角をあらわす選手がいるが、医療は経験学習が大きな比重を占める分野だから、臨床現場を知らない「お医者さん」に、多くを期待する上級医や指導医は、ほとんどいない。
ぼくが麻酔科研修をしたときの部長は、「バカに教えるつもりで指導している」とよく言っていた。たとえば、気管挿管という麻酔科の中心的な手技を教わるときには、最初に部長が喉頭鏡をもって、自ら喉頭展開をする。研修医は部長の左側に立って、部長の横から口の中をのぞきこむように言われ、声門が見えるかどうかを聞かれる。「見えます」と答えると、「動かすなよ」と注意されながら部長の手から自分の左手に喉頭鏡を受け取る。そして右手に持った気管内チューブをゆっくりと声門に向かって進める。部長は、個々の研修医の技量を見極めながら、ある時期を過ぎると、最初から喉頭鏡を持たせてくれたのだった。このように、研修を始めた頃は、文字通り「手取り足取り」の状態だった。
年を重ねるごとに、現場の中で自在に動けるようになる。現場(手術場であったり病棟であったり)は、自分一人だけが働いている場所ではない。さまざまな職種が同時に働いている。何かの本で、「働くとは、はた(つまり周りのスタッフ)を楽にすることだ」と書かれていたのを読んだときに、なるほど、と思った。研修医の頃は、言うなれば修行の身だから、はたに迷惑をかけても許されるだろう。分からないことがあったら、いくら質問しても構わない。しかし、一人前になって現場に出たときには、「はたを楽にする」ことを意識していないと、働いていることにはならないということを忘れてはならない。
などと、偉そうなことを言っているが、ふり返ると、ぼく自身、これまで数えきれないくらいはたに迷惑をかけてきたように思う。病棟で、日勤帯の終わり近くになって指示を出して看護師さんに迷惑をかけたり、小児の点滴がなかなかとれなくて介助の看護師さんの時間をとったり、挿管チューブのサイズが合わず、看護師さんに別のチューブを持ってきてもらったり、と数え上げればキリがない。
これからは、「先生がいない方が仕事がはかどりますね」なんて言われないように気をつけようっと。
「働き方改革」より先に「働き害改革」が要りそうですね。
No.90
2024年4月30日火曜日
『アウェイクAwake』は、2007年に公開されたアメリカ映画だが、これは、実際に全身麻酔中に覚醒する場合がある、というインシデントをヒントに作られた映画だ。この映画が日本で公開されたとき、確か日本臨床麻酔学会のプログラムの中でも映画が上映されていたと記憶している。
映画は、重篤な心疾患をもった大金持ちの若者が、元看護師の若い女性と恋に落ち、結婚する。そして、心臓外科手術を勧められて手術に臨むのだが、実は、その手術の途中で、その若者を殺してしまおうという計画が立てられていたのだった。ところが、(予定していた麻酔科医が来ず、手術着のポケットにウィスキーをしのばせている、飲んだくれの麻酔科医がピンチヒッターとして現れたため、と麻酔科医にとっては不名誉な設定なので、あえてカッコ付きにしますが)心臓の手術を受けている主人公が術中覚醒する。そして、幽体離脱のような状態になって手術の場面やスタッフの会話を見聞きして、その悪事と黒幕を暴いていくというトンでもないストーリーである。
実際の術中覚醒では、このような幽体離脱風放浪状態は起こらない。たいていは聴覚あるいは痛覚による情報が記憶されるというものだ。
ぼく自身が経験した術中覚醒はこんな感じだった。頸椎前方固定術の術中、ちょうど腸骨から移植骨を採取する場面で、急に頻脈になり血圧が上昇してきた。体動はみられなかった。麻酔深度を深くすることでおさまったが、術後訪問で、患者さんから「手術中に声が聞こえました」と聞かされて、術中覚醒していたことが分かった。患者さんは、見舞いに来た友人らに、手術中に声が聞こえたという話をしたところ、「そんなことがあるわけないだろう」と否定されていて不安に感じていたとのことだった。ぼくは、手術の途中で麻酔が浅くなって周りの声や音が聞こえることはあり得ますと説明をし、全身麻酔中の記憶が残ったことを謝罪した。その説明によって彼女は、自分がおかしくなったのではなかった、と安心したとのことであったが、全身麻酔中に術中覚醒を起こした場合、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に発展することもあるので、早期に対応しなければならない。
実は、術中覚醒というのは、0.2〜1.0%と、けっこうな頻度で起こっていると言われている。しかし、そのことを術後まで記憶している、いわゆる術中覚醒記憶という例は0.2%程度になる。それでも、日本で行われている全身麻酔は年間約500万例だから、その内1万人程度が術中覚醒記憶を経験していることになるので、決して油断はできませんね。
アメリカのジョークで、こんなのがある。「全身麻酔に望むこと。患者は痛くないこと。外科医は動かないこと。そして、麻酔科医は覚えていないこと。」
術中昏睡にもご注意を!
No.89
2024年4月23日火曜日
『孫子』の中に、将、すなわちリーダーがそなえるべき資質を述べた言葉がある。
「将とは、智、信、仁、勇、厳なり」(始計篇)
一般的には、次のような解説がなされていることが多い。すなわち、「将軍は、才智にたけて、部下から信頼され、思いやりがあって、勇敢で威厳があるべきだ」と。ぼくは、以前から「信」の解釈が、これではおかしいのではないかと思っていた。他の四つの資質は、リーダー自身が備える資質と理解できるのだが、「信」だけ、部下から信頼されるという解釈になっている。リーダーが立派であることの結果として、部下から信頼されるわけだから、「信頼されること」をリーダーの資質と考えるのはおかしいのではないだろうか。ここは、受け身の表現ではなく、「信じる」という能動的な態度と解釈した方がよいような気がする。つまり、良いリーダーというのは、「部下を信じることができるリーダー」だということだ。
現代の医療はチーム医療である。さまざまな専門性をもったスタッフが協力し合って、共通の目標に向けて前進する、というのが理想の医療組織だろう。医療においては、軍隊や官僚組織ほど上下関係は明確ではない。将軍のようなリーダーはおらず、ある意味では一人ひとりがリーダーである、と言えるかもしれない。
しかし、ひとつの科やプロジェクトチームでは、一応リーダーと呼ばれる人がいる。このリーダーが、部下を信用できないときには、組織は硬直してぎくしゃくしてしまうかもしれない。部下からの提案には耳を傾けず、リーダーが、「俺の言う通りにしていろ」的態度をとっているようでは、あまり楽しい組織とは言えないだろう。
以前、麻酔科時代に、部長が交代したときに手術室外での全身麻酔を縮小したことがあった。手術室外での麻酔とは、たとえば未破裂脳動脈瘤に対するコイリング術や、前立腺がんに対する密封小線源挿入術などのために、アンギオ室や透視室で全身麻酔をすることである。麻酔科学会からも手術室外での麻酔は、専門医の要件のひとつとして挙げられているのだが、交代した新部長は、かたくなに手術室外での麻酔を断っていた。よほど、部下を信用できなかったのか、それまで手術室外で麻酔を行っていたスタッフが進言しても聞き入れてもらえず、結局、他科のドクターに迷惑をかけることになってしまった。
『孫子』の「信」は、「部下を信頼できる」と解釈したい、と考えるきっかけとなった経験だった。
愚将の資質は、痴、辛、刃、遊、幻、かしら?
No.88
2024年4月16日火曜日
緩和ケアにたずさわり始めた頃、60歳代の前立腺がん末期の男性を担当したことがある。がっしりした体格で、確か床屋さんだったと思う。いつもベッドにあぐらをかいて座り、いろいろ話を聞かせてくださった。ある時、彼は「死ぬのがこわい」と話したことがあった。彼は何の宗教も信仰していなかった。無宗教というより、むしろ、積極的な無神論者だった。曰く、「死んでしまったら、いっさいが無になる。自分の存在がこの世からなくなってしまうのがこわい」と。この患者さんにとって、死とは終わりであり、いつか自分の存在が「無」になるということに耐えられなかったようだ。
キリスト教では、肉体はなくなっても天国で霊魂は生き続けるとされている。仏教では、本来は来世という概念はなかったようだが、宗派によっては「極楽浄土」という次の世界があるとされている。このように、人が亡くなっても次の世界があると信じている方が、「いっさいが無になる」と考えるより気が楽になるかもしれない。
村上春樹は、「僕にとって、死とは『おしまい』というよりは、『果て』に近いものであるような気がします」(『雑文集』)と言っている。マラソンやトライアスロンをしている作家らしい表現だ。ゴールは、ひとつのマラソンの「終わり」にあるものだが、ランナーの生活はその後も続くので、「果て」に近いと考えたのかもしれない。「果て」まで行くと、その先にまだまだ「道」があるかもしれない。でも、その「道」は、自分自身が「果て」まで行かないと分からないといったところだろうか。
人は、がんになると多かれ少なかれ、人生最期のとき、すなわち「死」を意識し始めるようだ。「死ぬのがこわい」と言った前立腺がんの男性も、「自分は、まだまだ死ぬわけがない」と思っていたときには、普通に生活できていたのだろう。それが、がんになって、治る見込みがないと気づいたときに、「死んだらどうなるのだろうか?」という不安に襲われたのかもしれない。
では、人が死を意識することは、よくないことなのだろうか?杣田美野里(そまだみのり)さんは、肺がんで亡くなった写真家だが、こんなことを言っている、「がん患者であることは、けっして幸せなことではありません。でも、命の期限を知り、いろいろなことを諦めたその後で、当たり前と感じていたものが輝きを増すことがあるのだと思います」(杣田美野里『キャンサーギフト 礼文の花降る丘へ』)死を意識すると、それまで当たり前のように思っていたことを愛おしく感じるようになる、とはがんになった患者さんからよく聞く言葉です。
行先は自分で選べないの?
No.87
2024年4月9日火曜日
オスタップ・スリヴィンスキーというウクライナの詩人が、ロシアの侵攻を受けて命からがら逃げ延びてきた人々の語る言葉に耳を傾け、その言葉を『戦争語彙集』(岩波書店)という本にした。日本語に訳したのは、日本文学研究者のロバート・キャンベル氏。ロバート・キャンベル氏は、この『戦争語彙集』の英訳をネットジャーナルで見つけ、何としても日本語に翻訳して、日本に紹介したいと思いたったそうだ。それだけではなく、戦争が継続しているウクライナに自ら乗り込んで、戦火をくぐり抜けた人たちの「言葉」を集めたオスタップ・スリヴィンスキー本人に面会している。そして、『戦争語彙集』に収められた「言葉」の作者の何人かからも直接話を聞いて、「戦争のなかの言葉への旅」という渡航記を日本語版の『戦争語彙集』にカップリングさせている。
最初、何で『語彙集』などというタイトルにしたのだろうと不思議に思っていた。『語彙集』は、原語では、アルファベット順に言葉が並べられているという。いわば辞書のようなタイトルで、日本語では、「バス/おばあちゃん/稲妻/妊娠/バスタブ/ココア/チョーク…」といった具合に、一見戦争とは何の関係もなさそうな言葉が並んでいる。このタイトル自体は、話を聞き、文章として書きとめたスリヴィンスキー氏自身がつけたものだ。
たとえば、「チョーク」。キーウ在住のワレリーが語ったのはこんな話だった:キーウ地方で、ロシア軍が拠点にしていた学校へ立ち寄ったとき、連れ去られた人々が監禁されていたらしい半地下に降りて行った。その部屋の一つに入ると、チョークで壁に文字が書かれていた。
「助けて。カーチャ」。それだけ。
そして隅の方には、チョークの欠片が落ちていた。その文字を書いたチョークかもしれないと思い、わたしはそのチョークを持ち帰りました。持っていると、カーチャを見つけるのに役立つような気がして…。もちろん、まだ生きていればの話だけれど。
戦時下では、「チョーク」という言葉が特別な、別の意味を持ってくるのだ。何気ないタイトルが並んでいるけれど、読むとそれらのタイトルが思いもよらぬ意味を伴って記憶に焼きつく、といった感じだ。
ロバート・キャンベル氏は、『戦争語彙集』を読んで、「巨大な『悪』を前にして、ひとりの人間、一個人は無力な存在かもしれません。それでも、(中略)ひとり一人が存在をかけて、巨大なものを言葉で切り取った『断片』を積み重ねていくことができるならば、いつの日か、その『悪』を押し留めるような抑止力になるのではないか、という微かな希望」を抱いたと述べている。
No.86
2024年4月2日火曜日
『ゴジラ−1.0(マイナス・ワン)』を観た。『ゴジラ−1.0』は2023年秋に公開されていたが、2024年3月に、米アカデミー賞視覚効果賞を受賞したため、再上映されていた。山崎貴監督のVFX(Visual Effects:視覚効果)は、圧倒的な迫力があった。実写に重ねたCG(コンピュータグラフィックス)によるVFXはまったく違和感がなかった。素晴らしい。
VFXもさることながら、ストーリーもよくできている。(脚本も山崎貴が書いている)第二次世界大戦中の特攻隊であった敷島浩一少尉(神木隆之介)が、特攻機の不具合を理由に、大戸島に不時着するところから物語が始まる。大戸島は守備隊基地で、そこにはベテラン整備兵の橘宗作(青木崇高)がいて、特攻機には何の不備もないことを指摘される。そして、(こいつはなすべきことをなさずに逃げて来たのではないか)という疑いの目で見ていた。特攻機を不時着させたときの敷島少尉の心の中には、「お国のために死なねばならない(must)」という気持ちと、「俺は生きたい(want)」という相反する気持ちがせめぎ合っていたに違いない。
人には「思うがままにふるまいたい」という「want」と、「こうあらねばならない」という「must」の相反する二つの自分が存在している。がん研究会有明病院の腫瘍精神科部長の清水研先生は、『他人の期待に応えない』(SB新書)の中でそのように述べている。そして、この二つの気持ちがあまりにかけ離れているとき、人は悩み苦しむのだと言っている。
敷島少尉は、特攻機を大戸島に不時着させたとき、自分は「死なねばならぬ身」だが、本当は「生きたい」と、まったく正反対の気持ちを同時にかかえていたために苦しむのだが、彼は、戦後も「must」と「want」、二つの気持ちで悩み続ける。戦争が終わって東京に帰り、彼は、ふとしたきっかけから大石典子(浜辺美波)という女性に出会う。ともにひとつ屋根の下で暮らすようになるのだが、「自分は生きていてはいけない人間だ」、典子といっしょに暮らしていても、「自分は幸せになってはいけない人間なのだ」と、彼はいつまでも「must」に縛られて生きていた。やがて、彼はゴジラと対峙することになるのだが、ゴジラとの闘いの中で、果たして彼は、この「must」を克服することができるのだろうか?そして、この二人がいつか結ばれることはあるのだろうか?それは、映画を観てのお楽しみ。
ラブストーリーとしても楽しめる映画でした。
一作目のゴジラ(1954年公開)の姿は怖かった。今回のゴジラは、それに匹敵する怖さがあった。子どもも観に来ていたが、これは子ども向けの映画ではない。
No.85
2024年3月26日火曜日
「つぼやき」を書き出して一年が経った。最初は、研修医の先生方の参考になるかもしれないと思い、自分の経験を思い出しながら、書いてきた(つもりだった)。が、読み返してみると結局はぼくが書きたいと思ったことしか書いてこなかった気がする。面白い話題ならば、これまでの臨床経験の中には、もっと興味深い話も多々あった。しかし、個人が特定されるような話はできないし、倫理的に問題があるような話題も書けない。(これまでの話題でも、あえてイニシャルにしたり、カタカナ表記で名前を出したりしていましたが、一部をのぞいて仮名です)誰かに迷惑がかからないように注意を払いながら、かつての経験を掘り起こして、つぼやいてきたつもりです。(でも、万が一迷惑をかけていたらごめんなさい)
さて、今年度の緩和ケア研修は、珍しく男性二名でした。二人とも熱心でユニークな研修医でした。ほかにもさまざまな診療科がある中で、選択枠で緩和ケアの研修を選んでもらえただけでありがたいと感謝しています。お疲れさまでした。残念に思うのは、研修期間がひと月あるいはひと月半と短かったこと。この短期間に心に残る経験をしてもらえていたらよいのですが、病院全体のデューティ(週一回の当直や救急当番)をこなすかたわらの緩和ケア研修だったので、時間の余裕がなく、いつも消化不良な感じがぬぐえず、申し訳なく思っています。
初期研修期間は、医師国家試験を終えて、医師としてスタートした最初の2年間に当たります。ぼく自身の経験では、この最初の2年間の経験値は、その後の医師としてのあり方を支える大きな柱となっています。もちろん、知識や技能は日進月歩で進歩していくので、常に更新していく努力が求められますが、医師としてどのように振る舞うかという姿勢というか態度は、この最初の2年間の過ごし方が大きく影響しているように感じています。
人が壁にぶち当たって悩むような問題は、たいていどこかの誰かが同じようなことで悩んでいるものです。だから、ひとりでモンモンとせず、どんどん本を読んでいくといいのではないかと思います。きっとどこかにヒントや答えがありますよ。Good luck!
No.84
2024年3月19日火曜日
道元が著した『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の中に、「八大人覚(はちだいにんがく)」という8項目の覚書のようなものがある。「大人」とは仏教では仏や菩薩をさすとのこと。この「大人」が日々修行をする8項目が「八大人覚」。
ぼくが感心したのは、この覚書の冒頭にあるのが、「少欲」であることだった。「欲」というと、食欲、性欲、出世欲、金銭欲など、ガツガツ、ギラギラしたイメージがある。道元は、禁欲、無欲とは言わず、これらの欲望を否定していない。この洞察が鋭く、エラいと思うのだ。スポーツの試合では、ときどき「無欲の勝利」という言葉を聞くけれど、実際のところ、どんな試合でも勝ちたいという思い(欲)がなくては勝てないのではないかしら。
大事なのは、「少欲」すなわち欲張りすぎないこと。ライオンはお腹がふくれたら、そばに獲物がいても狩りをしないらしい。でも、ヒトは、レストランなどで食べきれない料理を注文して残してしまうことがある。性欲や出世欲、金銭欲についても、求めればキリがない。
この行き過ぎた「欲」を抑えるために、「八大人覚」の第2項に「知足」とフォローしているところもまたいい。足るを知る、すなわち今自分の手元にあるものに満足するという心をもつということ。自分に足りないところばかりに目が行くと、「もっともっと」と「欲」が出てくるもの。でも、今手元にあるものに対して、ありがたく思って満足すれば、もっともっと幸せになれそうな気がする。
ぼく自身、緩和ケア病棟で働くようになってから、終日寝たきりで、食欲がなくなり、ムセて食べられなくなった患者さんや、便秘や下痢に悩まされる患者さんをみているうちに、ふつうに歩いて、食べて、便を出す、という当たり前のことが、実はすごくありがたいなのだということに気づいた。
ほんとに今日一日を生き延びるだけでも、ありがたく幸せなことなのですね。
龍安寺にあるつくばいのデザイン。真ん中の水の入った正方形の部分を「口」という漢字に見立てて、上から右回りに読んで、「吾、唯、足るを知る」つまり「知足」ですね。右の絵は?何だろう…
No.83
2024年3月12日火曜日
2011年の東北大震災のとき、京都医師会JMATの一員として、ぼくは震災から11目にいわき市に支援に入った。医師3名、事務職員1名のメンバーで、二泊三日でいわき市の医師会と協力しながら、いわき市内の避難所を訪問して診療にあたった。
東京からいわき市までは、途中ひび割れた路面を避けながらタクシーのバンで移動した。タクシーの運転手もまた被災者だった。自宅の水は出るがガスが出ないので、水でシャワーを浴びていると聞いて、うしろめたさを覚えた。ぼくたちは郡山市内のホテルで、余震が続いていたとはいえ、温かいシャワーを使えたのだから。
各避難所の状況を、夕方に医師会館に戻って報告し、日ごとの状況を共有していた。小学校の避難所にいた、翌日が出産予定日だという妊婦さんは無事出産できただろうか。広い体育館の一角に黒いラブラドール犬と一緒に避難していた若い女性は、自宅の2階に居て、津波が襲ってきて身動きできなくなったときの恐怖を語っていたけど、PTSD(心的外傷後ストレス障害)になっていないだろうか。小学校の図書館で横になっていた中年の女性は、風邪をひいたようだが、冷たい床の上に薄い段ボールを広げて寝ていた。彼女はその後回復したかしら…。わずか二、三日で継続性のない「支援」だったので、無力感にさいなまれた。
夕方医師会館に帰るとき、タクシーの窓の外は真っ暗だった。ぼくは夜だから当然だと思っていたのだが、タクシーの運転手が、「ここは、前はもっと明るかったんですよ。今は停電でどこにも灯りが見えません」と話してくれたので、初めて「これは異常な光景なのだ」ということに気づいた。
東北大震災から約半年後、2011年の秋に、いわき市を再訪した。
医師会館を訪ねると、かつて避難所に届ける薬剤を、段ボール箱につめて置いていた建物は、傾いていたとのことで取り壊されていた。いわき市医師会の会長は、「津波で自宅の診療所が水浸しになり、エコーなどの器械が全滅しました」と、震災直後には聞けなかった話をして下さった。
いわき市の支援に入ったときに知り合った、いわき市共立病院(当時)のドクターとナースとも再会できた。看護師さんは、「以前は海岸の砂浜をジョギングしていたけれど、震災以降は砂浜を走ることができなくなりました」と話していた。友人が津波にさらわれたまま、遺体が見つかっておらず、砂浜を走っていると友人の骨を踏むのではないかと不安になって、彼女は砂浜を走れなくなったのだそうだ。
タクシーで被災地を移動しているときに、大きな通りの交差点で、首輪をした子犬が歩いているのを見かけた。飼い主からはぐれたのだろうか?太田康介という写真家の『のこされた動物たち 福島第一原発20キロ圏内の記録』(飛鳥新社)という写真集を後に読んで、東北大震災では原発に起因する避難区域に取り残された動物たちが大勢いたことを改めて知った。東北大震災による行方不明者数はいまだに2500人程度と報道されていますが、動物たちの死者数や行方不明者数はまったく明らかにはされていません。
No.82
2024年3月5日火曜日
先日、病棟で、不二家のノースキャロライナというお菓子が話題になった。すると、二年目研修医のF先生はおろか、他のスタッフも誰もその菓子の存在を知らなかったので、驚いた。渦巻柄のキャラメルなので、一度見たら忘れられない菓子なのだが、今は販売されていないらしい。ぼくたちが若い頃になじんでいた「最先端文化」は、若い世代にとっては「歴史的遺物」となっていることもあるようだ。
ポケベルもそのひとつかもしれない。ぼくが医学部を卒業して初期研修を始めたころは、待機番のときにはポケベルを持たされていた。スマホもPHSもなかった時代だ。初期のポケベルは数字しか表示できなかったので、ポケベルに病院の電話番号が示されると、手近の公衆電話から病院に電話をかけていた。
ロビン・クック原作の『コーマ』が1978年に映画化された。これは、研修医スーザンの友人が、ボストン記念病院で中絶手術を受けた後に昏睡状態となってしまう事件に端を発する医療サスペンスだ。この事件に疑問を抱いたスーザンは、昏睡(コーマ)について調べ始める。すると、彼女の友人の他にも何人かが昏睡状態となっていることが分かった。しかも、昏睡となった症例は、すべて第8手術室で発生していた。この謎を、恋人である医師マーク(マイケル・ダグラス)とともに追っていくというストーリー。
この映画『コーマ』の中で、医師のマークがポケベルで呼び出され、廊下の壁の電話からコールバックするという場面が出てくる。アメリカでも、この時代にはポケベルしかなかったのですね。
ポケベルを持たされていた頃、女子高生たちは、数字を打ち込んで「メール」をしていたことがあった。たとえば、10105(今どこ?)、11014(会いたいよ)、3470(さよなら)といった具合だ。
114106というのは(あいしてる)なのだそうだ。
では119104は?実はこれはポケベルメールではない。これは、アウシュビッツ収容所での経験を元に『夜と霧』を著した、心理学者V.E.フランクルがアウシュビッツ収容所にいたときの被収容者番号だ。ノースキャロライナやポケベル文化は廃れてしまったので、研修医のF先生と話が合わなかったが、彼は『夜と霧』を読んでいたので、こちらは話が通じた。『夜と霧』は霜山徳爾氏の訳で長らく読まれていたが、2002年に池田香代子氏の訳で新版が出ている。ノースキャロライナやポケベルと違って、歴史の荒波を乗り越えた古典は、いつの時代でも、年の離れた世代間でも、共通の文化として受け継がれていってほしいですね。
No.81
2024年2月27日火曜日
ぼくが研修医だったころは、研修先の病院にはMRIはまだ導入されておらず、CTもなかなか予約が取れなかった。臨時枠でCTが必要なときには、放射線科に頼みこんで撮影してもらっていた。(頼みに行くのはもちろん研修医の役目です)
CHARGE(チャージ)症候群の乳児を担当したときのことだった。CHARGE症候群の小児は、目の異常や先天性心疾患、後鼻孔閉鎖、成長発達遅延、泌尿生殖器奇形、耳の異常など複数の異常が複合していることが多い。ぼくが担当した女児は、すでに耳鼻科で後鼻孔閉鎖に対する手術を終えて小児科に送られてきた。そのとき、上級医からCT検査をするようにと言われて、CT検査の依頼書に、ひと言「CHARGE症候群です。」と記載した。すると、すかさず放射線科部長のH先生から呼び出され、「CHARGE症候群って何やねん?何を知りたいのか書かんかったら何を見たらいいのか分からんやろ」的なことを言われた。
CHARGE症候群は約2万人に1人という頻度で生まれる稀な先天性疾患なので、出逢ったことのない医師の方が多い。だから、併存する先天性異常の何を知りたいのかを記載すべきだったのだ。CHARGE症候群の患児を受けもったぼくは、それなりに疾患について調べていたが、出逢ったことがない医師からみれば、郵便局の窓口で魚の背びれだけを見せられて、「これは何の魚でしょうか?」と尋ねられたようなものかもしれない。これがきっかけとなって、画像診断で解らないことがあると、H先生に相談に行くようになった。質問をすると、熱心かつ丁寧に教えてもらえた。
H先生が定年を前にして退職されるときの送別会に参加した。H先生は、病院勤務の33年間、毎日自転車で通勤され、病院ではエレベーターを使わず、階段で昇降(病院の建物は7階建て)していたとのこと。さらに、毎日何らかの文献をひとつは読み続けていたと明かされて舌を巻いた。「一日一論文」は6年間継続し、そのうち2年間は、文字通り「一日一論文」を達成されたとのことだった。
先生は、「退職後は東北大震災で津波の被害を受けた岩手県釜石市の病院に単身赴任で勤務します」と、送別会の席で表明された。震災から3年後のことだった。建物や器械はあるのに医師がいないという状況を知り、退職後は被災地の医療に貢献したいと考えたのだそうだ。H先生の志の高さに感銘を受けた送別会だった。
No.80
2024年2月20日火曜日
「出戻り」というのは、辞書によれば、「離縁になって実家に帰ること、あるいは帰った女性」を指す言葉らしい。医学部にも「出戻り組」と呼ばれた学生がいた。こちらは、結婚したけれど、自立・自活するために医者の道へ進むことを決意した女性が医学部に入り直すことではなく、一度他の大学を出て、医学部に入学し直した学生(男女を問わず)のことを表す言葉だった。もともとの学部はさまざまだ。薬学部などは医学部に近いが、理学部、工学部という理系学部だけでなく、教育学部、法学部、経済学部と文系学部出身者もいる。かく言うぼくも「出戻り組」の一人で、工学部の化学系学科を卒業している。
これら「出戻り組」は、医学部に現役で入学した連中と比べると、当然のことながら数年、年齢が上である。この年齢が高いというのは、長所でもあり短所でもあるかもしれない。最高学府で他の専門領域の学問を修め、人生経験もそれなりに長いので、ものごとを多面的、多角的にとらえることができる(場合もある)というのは長所かもしれない。しかし、反面、年齢が高いということは、体力的な衰えも現役生に比べると早く来るので、長時間手術や当直など、体力勝負の診療については不利かもしれない。これは短所でしょうね。
ぼく自身の経験で言うと、ドイツ語は前の大学で一度履修していたので、医学部では、ドイツ語の先生の過去問を見ながら、『ドイツ語の傾向と対策』という小冊子を作った。これが同級生や留年生にけっこう重宝がられた。専門課程の化学の知識は、医学部の授業ではあまり役立たなかったが、実験していたことは、結婚してからも役に立っている。次の日の実験ができなくなるので、その日の実験が終わると、ビーカーや試験管はその日のうちに洗浄していた。この習慣が身についたおかげで、結婚してからも台所の茶碗や皿を洗うことはまったく苦にはなっていない。
でも、「出戻り組」の一番の長所は、ふたつの「異なる国」の住人と知り合いになれることかもしれない。国によって言葉が違うように、学部が違うと、ものの見方や考え方が、かなり違っているものだ。工学部時代の学友の何人かとは、今でも年賀状を交換している。彼らは、とかく閉鎖的になりがちな医者の考え方に警鐘を鳴らしてくれる良き審判者でもあるのです。
No.79
2024年2月13日火曜日
『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』は、ロレンツ・ハートが作詞し、リチャード・ロジャースが作曲した名曲だが、ジャズのスタンダード・ナンバーとしてもよく演奏されている。歌詞の内容は、「あなたは見た目はパッとしないけど、わたしにとっては最高の男性なのよ。だからそのままずっと変わらずに、そばにいてちょうだい」と、女性が男性に向かって歌っているラヴ・ソングだ。
日本のヴァレンタイン・デーは、いつのころからか、女性から男性にチョコレートを贈る日となっている。ぼくが研修医になったころには、女性が男性にチョコレートを贈るという行為が習慣化されていて、ぼくも看護師さんや患者さんからチョコレートをいただいたことがある。そんな中で、いちばん愉快(ファニー)だったのが、麻酔科にいたときのヴァレンタイン・デーだった。
手術場の看護師さんたちは、麻酔科医や手術場に出入りする外科医にチョコレートを贈っていたのだが、ある年、ぼくがもらったチョコレートの袋の中に、一枚の紙切れが入っていたことがあった。見ると、左端に外科医や麻酔科医の名前が書いてあり、その横の欄に、手術場の看護師さんたちの署名と数字が入っていた。
最初は何のことか分からなかったが、これはどうやら、各ドクターにチョコレートを贈りたいと考えている看護師さんたちが、ドクターごとに投票するような表であることが分かった。すなわち、A先生に贈りたいと考えている看護師さんは、その横の欄に、自分の名前と出資金額を記入していく、そしておそらく、その合計金額に応じたチョコレートが男性に贈られるという趣向だったのだろう。
少額ずつたくさんのドクターに出資する各個撃破型あるいは平等博愛(薄愛?)主義派ナースもいれば、この人にだけという集中攻撃型あるいは利己偏愛主義派ナースもいた。こちらの方は、数は少ないけれども出資額は大きかったようだ。もちろん、その中間の数人に出資する、「まあ適当でいいんじゃない」派ナースもいた。いわゆる人気投票のようなものではあるが、このような分配表は、みんなのチョコレートに付けられる訳ではないから、もらったドクターには、誰がどれだけ出資しているかということは分からない仕組みにはなっていたのだろう。
ところが、その出資者と出資額の一覧表が、たまたまぼくが受け取ったチョコレートにまぎれ込んでいたために、外科医の人気分布がバレてしまった、というわけだ。外科医の日ごろの立ち居振る舞いからみて、意外に思った人物はおらず、ぼくは、その極秘書類を見て、「なるほどね」とは思ったけれど、誰にも公表はせずに紙片を師長さんに返した。これが、ぼくが経験した、一番のマイ・ファニー・ヴァレンタイン・デーだった。
え?ぼくの出資者や出資額がどうだったのか、ですって?…残念ですが、昔のことなので忘れてしまいました。
No.78
2024年2月6日火曜日
小児科では、イベントがあるとたいてい研修医が着ぐるみを着る役回りだった。クリスマスにはサンタクロースとトナカイ、節分には鬼のかっこうなどである。
節分のときには、二人の研修医が赤鬼と青鬼になった。ぼくは赤鬼の役をしたのだが、その年の看護師さんたち(デザインは彼女たちがしていたようです)から、「赤鬼は赤いタイツをはいてください」と、女性用の真っ赤なパンティストッキングを渡された。こんなもの、どこの誰がどんなシチュエーションではくのだろう、と考え込んでしまうくらいドギツイ赤色だった。この真っ赤なストッキングをはいて、女の子が街を歩く姿をいろいろ想像してみたが、とにかく言われるがままに、そのパンティストッキングをはいた。鬼の面(これは画用紙に顔を書いて、輪ゴムで耳に留めるだけのお粗末なものだった)をかぶり、頭に毛糸で作った鳥の巣頭のカツラをのせ、赤いシャツを着て虎柄のパンツをはいて赤鬼になった。
このとき、パンティストッキングというのは意外と温かいものだということを初めて体感した。節分といえば、2月3日。真冬である。病棟の床はけっこう冷たいけれど、パンティストッキングだけで動いても、下半身はさほど寒さを感じなかったのだ。
それまでは、街なかでミニスカートにストッキングだけで歩いている女の子たちは、寒くないのかしらと同情していたのだが、意外に温かいことを知り、彼女たちは案外心地よく冬の街を闊歩していたのだなぁ、と妙に納得した。
とまれ、鬼役は、ダンボール製の棍棒を持って、子どもたちの病室を回って行く。そして、子どもたちには、新聞紙を丸めて作った大きな「豆」があらかじめ渡されていて、鬼たちは、その大きな「豆」をぶつけられて退散する、というのが筋書きだった。
今でも覚えているのは、ぼくが担当した小学校5年生の男の子が、鬼が病室に入ってくる前から怖がってしまって、豆を投げることもできず、大きな体を丸めて、うずくまっていた姿だった。どう見ても怖そうな鬼には見えないのだけれど、彼の頭の中では、想像が膨らみすぎたのか、怖い鬼に見えたのかもしれない。
ひと目でいいから、真っ赤なパンティストッキングをはいた担当医の晴れ姿を見てほしかったんだけどなぁ。
No.77
2024年1月30日火曜日
近ごろのテレビドラマの手術の場面を見ると、ピッピッピッ…という心電図モニターやパルスオキシメータの音とともに手術が行われている様子が描かれている。このパルスオキシメータや心電図モニターって、現代の手術というか麻酔には欠かせないモニターだけど、実は歴史はけっこう浅いのです。
スティーブ・マックイーンがクールな刑事役を演ずる『ブリット』という映画がある。この映画はリアリティを追求するために、すべてロケ撮影されているが、映画に出てくる病院も実際の病院でロケをし、手術場面でも本物の医師や看護師を使ったという。(映画を見返してみると、確かに持針器の針に糸をかける鮮やかさは、俳優さんが真似できる動作ではない)この手術場面で、傍らに大きな箱型モニターが見える。前面に15cm四方のオレンジ色の四角い画面がある。どうやら、これが心電図モニターのようだ。回復室では、古いラジオのような箱型モニターの前面に大きな丸い画面があり、心電図の大きな波形がひとつだけ、オシロスコープのように現れては消えていく心電図モニターが置かれていた。
この映画が制作されたのが1968年で、この時期には、米国ではこういう心電図モニターが手術室や回復室に導入されていたのだなぁ、と感慨深く見ていた。もちろん、このころ、現代の麻酔では必須とも言える、パルスオキシメータは影も形もありませんでした。
全身麻酔がいつ始まったかというと、米国では、1846年のウィリアム・モートンという歯医者さんが行ったエーテル麻酔が最初とされている。このころは、心電図モニターはおろか、血圧計すらなかった。(ちなみにシュコシュコと送気球をもんで腕をしめつけ、駆血帯がゆるんだときに、動脈から流れ音を聴診器でとらえる血圧計が開発されたのは20世紀の初めのことです)
日本では、花岡青洲が麻沸散を用いて行った乳がん手術が最初の全身麻酔だが、これは、モートンのエーテル麻酔の約40前の1804年とされている。もちろん、このときも何のモニターもなかった。
モニターがない状態での全身麻酔は、麻酔科医にとって怖かっただろうな。でも、そもそも麻酔をしないで行っていた手術は、患者にとっては、それ以上に怖かったでしょうね。
映画『ブリット』で見た手術室の心電図モニター(左)と回復室の心電図モニター(右)
No.76
2024年1月23日火曜日
以前ぼくが術前麻酔科外来を担当したときに、こんなことがあった。外科手術前に麻酔の説明をする時間なのだが、ほんとによくしゃべる中年女性の患者さんがいた。説明をさえぎって、自分がしゃべりたいことをしゃべる方だったので、こちらは説明らしい説明が十分にできず、ほとんど話を聞くだけに終わってしまったような面談になった。ところが、後で患者さんから「ほんと丁寧に説明してもらってよくわかりました。ありがとうございます」と言われたのだ。こちらは、いつもより説明不足だったと思っていたのに、患者さんは満足していた様子であったので、その乖離を不思議に思ったのだった。
博報堂が行った「会社と私の本音調査」の第1回・働き方の本音の調査というのが公開されている。経営層、管理職層、一般社員それぞれに仕事に関する意識についてインターネットを用いて調査した資料とのこと。コミュニケーションに関連した項目では、経営層から管理職層をみた場合、58%ぐらいが「コミュニケーションがうまくいっている」と回答したのに対して、管理職層から経営層をみた場合は約41%、一般社員から経営層をみた場合は約33%しか「うまくいっている」と回答しなかったそうだ。医師と患者のコミュニケーションでも同じような傾向があるかもしれない。すなわち、患者とコミュニケーションが「できている」と感じている医師が5割、医師とコミュニケーションが「できている」と感じている患者は3割(ひょっとしたらもっと少ないかも)。
医師や経営層は、患者や一般社員に向かって、大事なことを「話している」からコミュニケーションは取れていると思っているが、彼らには、医師や経営層の声は届いていないかもしれないのだ。概して、上層部が思っているほど、彼らの言葉は部下には浸透していない、ということだ。
そう言えば、以前に「『が』よりも『げ』」を紹介したときに出てきた西院の高山寺の門前の言葉に、こんな言葉もありました。
「口はひとつで耳ふたつ。自分が話す倍だけ人の話を聞きなさい」
コミュニケーションでは、高山寺のご住職の言うように、話すと聞くのバランスは、1:2くらいが妥当なのかもしれませんね。
No.75
2024年1月16日火曜日
小児科研修医の頃、外来から「髄液検査をするように」との伝言付きで、乳児が入院してきたことがあった。外来は副部長のT先生が担当していたが、病棟に上がってきた男の子は、ニコニコと愛想よく熱もなかったので、上級医を含めて、病棟担当医は誰もが「何でこの子が髄膜炎疑いなの?」と不思議に思っていた。主訴は、「ハイハイしているときに、パタンと倒れることがあるのが気になる」という母親の訴えだった。
病棟で腰椎穿刺をして髄液を採取すると、白血球で白濁した髄液が返ってきたので、一目で「細菌性髄膜炎」だと分かった。そこからは、みな大慌て。ただちに抗生剤を二剤投与(細菌性髄膜炎だけは起炎菌に対して抗生剤がはずれると大ごとになるので、二剤投与が許されていた)して治療にあたった。治療が速やかだったため、男の子は、入院中けいれんや意識障害を来すこともなく、何ら神経学的な後遺症を残すこともなく退院していった。
ぼくは、このとき、T先生がなぜ髄膜炎を疑ったのかが、分からなかった。小児科を離れてもずっと不思議に思っていたので、あるとき、思い切って手紙を出してたずねてみた。驚いたことに、ぼくがずっと忘れずにいたこの症例を、T先生はまったく記憶されておられなかった。
手紙には、先生が医学部を卒業して渡米し、ワシントン大学の小児科で研修をしていたころのエピソードが書かれていた。その当時(1960年代)、米国の小児病院の夜間救急室には髄膜炎と敗血症の症例が多く、その早期診断治療は初診を担当する研修医の大切な役割だったのだそうだ。だから、急性疾患で救急室を訪れる乳児については、つねに髄膜炎を念頭に置いて診察し、少しでも疑いがあれば髄液検査をする、というのが原則だったのだそうだ。“いつもと様子がちがう”、“機嫌が悪い”、“ウトウトしがち”などの親の訴えがあるときは、典型的な症状がなくても、診察で髄膜炎が否定できなければ髄液検査を行うように指導を受けていた、と手紙には綴られていた。このときに、「かわいそうだから」と仏心を起こして髄液検査を怠ると、「チキン(俗語で臆病者の意)」と呼ばれたのだそうだ。
子どもの髄液穿刺というのは、背中がのけぞらないように、看護師さんに泣き叫ぶ小児の頭と足を押さえてもらい、局所麻酔なしで、腰椎穿刺針や翼状針を背中に突き立てるので、勇気のいる手技のひとつだが、先の乳児は、この検査を怠っていたら亡くなっていたかもしれないのだ。このように、仏の心を持って鬼の手で臨まねばならぬことが医療にはあるのです。
デコレーションケーキを切るときも勇気がいりますね。
No.74
2024年1月9日火曜日
中学生のとき、音楽鑑賞会があった。ほとんどの生徒にとって、クラシックの演奏会というのは初めての経験だった。ぼくも、レコードやラジオでライヴ演奏を聴いたことはあったけど、生のコンサートはこれが初めてだったと思う。
演目の中に、モーツァルトのファゴット協奏曲があった。今から思うと、中学生の音楽鑑賞会にしては、ちょっと変わった演目ではなかったかと思うのだが、第一楽章にファゴットが独奏する部分、いわゆるカデンツァがあった。このとき、一緒に演奏会に行っていた生徒の一人がカデンツァが終わったときに拍手をした。ぼくは、クラシックのマナーとして、曲の途中では咳払いをしたり拍手をしたりしてはいけない、と聞いていたので、「あぁ、アホなやつや。曲の途中で拍手なんかしたらあかんのに。拍手は曲のいちばん最後にするもんやで…」と思っていたのだった。
でも、それから色んな音楽を聴くようになり、ジャズのライヴなどでは、それぞれのパートがソロをとったときに、曲の途中であっても客は拍手をし、ロックや日本のポピュラーミュージックなどでは、一緒に合唱してもいいのだと知って、中学生時代の同級生の拍手は、案外正しい反応ではなかったのだろうか、と考えるようになった。むしろ、ソロ演奏が素晴らしくて、本当に感動したら自然と拍手をしてしまうのではないかしら、と思うようになり、中学生のときに拍手をした同級生のことを「アホなやつ」と思った自分を恥じて反省した。
学会の講演でも、演者が話し終わってから、挙手して会場のマイクのところまで歩いて行って質問するというのが礼儀になっている。特に白熱した講演でもないことが多いので、ひと通り聞き終えてから質問しても何ら問題はない。でも、白黒はっきりしていないようなホットな話題だったら、話の途中でも質問をしたくなるのが正しい反応なのではないかしら、と思うことはある。そういう最先端の議論をするような場が、本来の学会であるべきなのだろうけど、様々な話題を並べた、半ばお祭りのような内容の学会では、そういう場面には出くわさない。最先端の研究発表の場だったら、きっと講演の途中でもバンバン質問が飛び出してくるのでしょうね。
No.73
2024年1月5日金曜日
西大路四条の交差点の北東の角に、高山寺という浄土宗のお寺がある。この界隈は、西院(阪急の駅名は「さいいん」ですが、嵐電の駅名は「さい」と読みます)と呼ばれている。この「さい」という響きが、「賽(さい)の河原」に通ずるところから、高山寺は、子どもを救う地蔵として、信仰を集めているそうだ。
この寺の、四条通りに面した門前に、かつては短いけれども印象的な住職の言葉が掲げられていた。その中で印象に残っている言葉がある。
「われがわれがの『が』で生きるより、おかげおかげの『げ』で生きよ」
たとえば、外科の手術で患者の病気が治って退院したという場合、執刀医が「わしが治してやったのだ」と言ったとしたら、周りのスタッフはどんな気持ちになるかしら?
手術は当然、一人ではできない。術者を助ける助手のドクター、機械出しナース、外回りナース、麻酔科医、と手術そのものでも多くの人たちの協力がいる。入院した場合は、病棟ナース、術前検査をする検査技師や放射線技師、食事を作る栄養課のスタッフ、入退院に関わる事務職、病室を清潔に保つ清掃スタッフ等々、一人の患者を治療し、ケアをするためには実に大勢のスタッフの力が結集されている。
こうしてみると、執刀医は「手術が無事に終わり患者さんが退院できたのは、みなさんのおかげです」と言うべきではないかと思えてくる。まさに、「われがわれがの『が』で生きるより、おかげおかげの『げ』で生きよ」ですよね。
「おおきなかぶ」という昔話をご存知でしょうか。おじいさんがかぶの種を植えると、やがておおきなかぶができるのですが、大きすぎてひとりではひきぬけない、そこへおばあさんや孫えや犬や猫やねずみが手伝いに来て、ようやく引き抜けた、というお話ですね。医療もこの「おおきなかぶ」と同じような気がします。
かぶ(病や苦痛)はおじいさんが抜いたのではなく、みんなのおかげでひきぬけましたとさ。めでたしめでたし。
No.72
2023年12月26日火曜日
忘年会のシーズンになると思い出すことがある。
手術場の忘年会というと外科系のドクターも参加する大規模な宴会だったが、麻酔科研修医時代、一度、その幹事をしたことがあった。今はなくなっているが、四条高倉の大江戸という店が会場だった。この店のトイレは床が一部ガラス張りになっていて、床下に池の水が流れてこんでいて、時おり錦鯉が悠々と足元を泳いでいく姿をみることができた。
トンカツが売りの店で、参加人数を綿密に調整しないと料理が足りなくなる恐れがあったので、事前の参加確認には、いつも以上に神経をつかっていたように記憶している。
ところが、直前になると、病院の宴会の常で、参加できなくなる医師が現れるものだ。このときは、整形外科医の医長クラスの医師が、最終参加人数を店に報告した後に(つまりほぼ当日に)キャンセルすると言ってきた。彼は悪びれる様子もなく、診療が忙しいのだから宴会に出られないのは当然だろうという態度(ぼくにはそのように思えた)で、不参加だけを告げてきたのだった。普通、このようなドタキャンの場合、参加費だけは支払うべきだと思うのだが、彼は出席しない宴会の費用を払うのは理にかなわないと思ったのか、ただの凛色だったのかどうかはわかりませんが、とにかく参加費を払わなかった。
忘年会になると、色々な部署の宴会をかけもちする医師も多く、ドタキャンした側からすれば、それらの内のひとつに過ぎないのかもしれませんが、自腹を切らねばならない幹事にまでは気がまわらなかったのでしょうね。
トイレに行ったとき、足元に泳いで来た錦鯉も悪趣味に見えてしまった忘年会だった。
No.71
2023年12月19日火曜日
病院では、病室の壁や手術室の麻酔器へのパイピングなどでいつでも酸素が出てくる。この酸素は中央配管と呼ばれているが、この中央配管から供給される酸素ガスは、どこから供給されているのかご存知でしょうか?この質問を麻酔科医に投げかけたときに、「大阪ガスです」と答えた医師がいたという話を以前に聞いたことがある。
研修医のみなさんは、病院の中央配管にパイプをつなげば噴き出してくる酸素ガスが、どこから来ているかご存知でしょうね。え!知らない、ですって?どこから来るのか知りもしないで、日々全身麻酔をかけたり、呼吸不全で酸素の恩恵にあずかったりしている日本人の何と多いことか…。チコちゃんが知ったら、「ボォーっと生きてんじゃねーよ」と叱られそうですね。
民医連中央病院の酸素ガスは、駐車場・駐輪場の南側にある囲いの中の、白っぽいタンクに液化酸素の状態で保存されている。大阪ガスが供給しているのではありません。液化酸素は、使用すると当然減ってくるので、なくなる前にタンクローリーがやってきて、液化酸素をタンクに補充してくれている。
実は、病院で使用される医療用酸素は薬剤のひとつ。薬剤なので、当然薬価が設定されている。液化酸素から供給される中央配管の酸素の値段は、1リットルが0.19円。これが、患者さんが移動するときによく持ち歩いている、黒い小型酸素ボンベになると、酸素の値段は1リットルが2.31円となり、実に12倍にもなる。(からあげくん1個と6個増量中2パックの違いですから、化学的な組成は同じなのに、小型酸素ボンベの酸素は高級品なのですね)
病棟のデイルームなどで、酸素吸入中の患者さんが、小型酸素ボンベからの酸素を吸入しながらのんびりとテレビを見ておられる姿を見かけると、小心者のぼくは、「あぁ、高い酸素を吸っておられるのだなぁ…」などとついつい考えてしまう。
今日は、みみっちい話になってしまいましたね。すみません。
囲いの中の白いタンクに、中央配管で病院中に届けられる酸素が液体の状態で保存されている。なくなる前に、タンクローリーで液化酸素は補充されるので、酸素はガスと同じように途絶えることなく供給されているけれど、酸素は、決して大阪ガスから届けられているのではありません。
No.70
2023年12月12日火曜日
高校を出るまでは、ぼくはインスタントコーヒーしか知らなかった。コーヒーとは焙煎した豆を挽いて抽出するものだというのは、大学に入ってハットリくんから教えてもらった。最初はミルクと砂糖がないとコーヒーを飲めなかったが、ハットリくんに「コーヒーはブラックだよ」と諭されて、やがてぼくもブラックコーヒーを飲めるようになった。そのうち、コーヒー豆にはアラビカ種やロブスタ種があって、アラビカ種の方が断然おいしいということを知り、いろいろなストレートの豆やブレンドコーヒーを飲み比べていた。
あるとき、神戸出身の友だちから、「バターブレンドコーヒー」の豆をもらったことがあった。コーヒー豆を焙煎した後に、バターをブレンドして作るということだが、確かにバターの香りのする豆で、それまでに味わったことのないおいしいコーヒーだった。初めてバターブレンドコーヒーに接してから、約40年振りに、バターブレンドコーヒーを開発した喫茶店を訪れる機会に恵まれた。阪急沿線の御影駅の駅前にある、御影ダンケという店である。
店には、ご夫婦と娘婿さんの三人が働いていた。奥さんに話を聞くと、ご主人は、ユニークなバターブレンドコーヒーの取材を受けて、一度テレビに出たことがあるそうだ。ところが、それ以降二番煎じのようなバターブレンドコーヒーを作る同業者が出てきたので、その後二度とテレビには出なくなったのだそうだ。喫茶店を始めたころは、学生の溜まり場となり、深夜4時頃まで店を開けていたこともあったとか。
阪神淡路大震災の被害はどうだったのか気になったのでたずねてみた。奥さんによると、建物の被害は大したことはなかったが、コーヒーカップなどの食器が全滅したそうだ。御影ダンケでは、実にさまざまなカップが壁に備え付けの棚に並べられているが、コーヒーカップはすべて大倉陶園の陶器で揃えられているそうだ。震災では、このカップの被害額が甚大だったという。大倉陶器のカップと言えば、1脚1万円以上はする高級品だ。これだけの貴重なコレクションが一瞬で失われたのだから、奥さんが嘆くのも無理はない。
コーヒー豆は一人30g(これはかなり多い)を使い、ペーパードリップで一人前ずつコーヒーカップに直接淹れてくれる。カップは、客の印象に合わせて選んでいるとのこと。バターをブレンドしているのに、油膜がまったくないのが不思議だった。
御影ダンケの店内と、この日選んでくれたコーヒーカップ
No.69
2023年12月5日火曜日
嵐山を眺めるのは早朝が良い。秋の紅葉を背負った渡月橋には、まだ人も車もほとんどなく、ただ、水鳥が時おり、橋を横切るばかりだ。嵐山の山肌は、四季折々に表情が変わる。秋が過ぎ、樹々が枯れたところに、雪が降ると、うっすら雪化粧した嵐山が別人のような姿になり、また惚れ直してしまう。
麻酔科時代に、季節ごとではないが、年とともに髪型が変わっていった専攻医がいた。彼は、散髪にはいつも四条河原町の美容院に行くと言っていたから、髪型には気をつかっていたのだろう。ある時期彼は、ハードジェルで髪の毛をツンツンにしていた。しかしながら、麻酔科医は、仕事中は帽子をかぶらなければならないので、半日帽子をかぶっていると、自慢のツンツンヘアも帽子でのされてしまう。だが、不思議なことに仕事が終わって帰宅するときには、彼の頭髪は、またツンツンに戻っていた。おそらくロッカールームで髪型を整えてから帰っていたのだろう。
先日、麻酔科学会で、そのツンツン頭だった彼が、壇上で教育講演をしている姿をお見かけした。その時は、若い頃のツンツン頭ではなく、肩までかかるくらいのロングヘアで、ジェルでは固めておらず、リンスを3回くらいしたようなサラサラの直毛になっていた。舞台の下手に演台があり、彼は左手にマイクを持って講演をしていたが、顔にかかってくる頭髪を右の耳にかけるようにして、ときどき、右手でサラサラの髪の毛を後ろへ払う仕草をしていた。この髪をかき上げる動作が気になって、ぼくは講演の内容に集中できず、話の内容が頭に入ってこなかった。
そう言えば、当院にも先日まで腰まで届くくらいのロングヘアにしていた女医さんがいたが、ある時、突然ショートヘアになっていた。家庭の主婦なのに失恋でもしたのかしらと心配していたら、ヘアドネーションをされたとのことだった。ヘアドネーションとは、小児がんや白血病で髪の毛を失った子どもたちに医療用ウィッグを無償で提供するボランティア活動のこと。
ひょっとして、学会会場の演壇で髪の毛をかき上げていた麻酔科医も、ヘアドネーションのために髪の毛を伸ばしていたのかも?(ちなみにヘアドネーションのためには31cm以上の長さが必要なのだそうです)
ほぼ同じ時刻にほぼ同じ位置から撮影した、秋と冬の嵐山と桂川。
No.68
2023年11月28日火曜日
学生の頃、松本清張の『砂の器』が映画化された。ぼくは、まず原作を読もうと思って、小説の『砂の器』を読み始めた。実家で文庫本を読んでいるときに、それをのぞきこんだ妹が、「あ、兄ちゃん、この犯人、〇〇(まだ読んでいない方のために伏せ字です)やで」と聞いてもいないのに教えてくれたことがあった。妹はすでに映画を見ていて、ストーリーを知っていたのだ。
そもそもそそつかしい妹だった。飛行機から飛び出してから、パラシュートを忘れたことに気がつく人のように、妹は考えるより先に言葉や行動が出てしまうようだ。妹に悪気はなかったのだろうが、新潮文庫の上巻のまだ数十ページしか読んでいないのに、犯人が分かってしまうなんて…。腹が立つより先に力が抜けてしまった。
『刑事コロンボ』では、最初に視聴者に犯人が示される。これを刑事コロンボが追いつめていく。この手法を倒叙法という。この描き方なら最初から犯人視点で物語られるので、犯人が分かって当然だが、『砂の器』は犯人が最初から分かる展開ではなかったので、最初に犯人を教えられると、読むワクワク感がそがれてしまった。(もっとも松本清張の作品なので、誰がどんな風に犯罪を犯したか、ということよりも、なぜ犯人がその犯罪を犯したのかという動機の方が物語の柱だったから、その後も小説は楽しめましたよ)
臨床の現場では、真犯人を突き止めるのがなかなかむずかしいこともある。たとえば、ヘビースモーカーが肺がんで亡くなった場合、もしもその人がタバコを吸っていなかったら、そもそも肺がんにはなっていなかったかもしれない。原子炉で働いていた人が急性白血病で亡くなった場合、もしもその人の職場が現場から離れた事務職だったら、白血病にはならなかったかもしれない。…となると、犯人が、肺がんや白血病でいいのだろうかと考えてしまう。死因統計には、がんや脳血管障害という分類が出てくるが、真犯人は、案外、生活習慣であったり、環境であったり、場合によっては貧困などの経済状態であるのかもしれないなぁ、などと推理するのは考え過ぎかしら。
犯人はお前だな!
No.67
2023年11月20日月曜日
ぼくは、すでにてるてる坊主が死んでいたのではないかと考えた根拠について話した、
「みよちゃんの家でてるてる坊主を見せてもらったときに、みよちゃんはキラキラの入った青いサインペンで顔を描いたと言っていましたが、キラキラの一部が、てるてる坊主の顔に現れた溢血点(いっけつてん)であることに、ぼくは気づきました。先生、溢血点というのは、どんな死に方をしたときに見られるのでしょうか?」
河田先生は、ひと呼吸おいてから、覚悟を決めたように話しだした、
「それは法医学の領域になるけれど、急死したときの兆候のひとつだとされているね」
「急死、というのは窒息死も含まれるのでしょうか?」
「うむ、もちろん含まれるよ。首を吊って亡くなったときも窒息が原因となるけれど、このときも眼瞼結膜などに溢血点が見られるだろうね」
「延髄を突いて殺害した場合には溢血点は現れるでしょうか?」
「さあ、どうだろうね。法医学は専門ではないからよく分からないけど、溢血点は、過度にうっ血を生じた時に、毛細血管が破綻してできるとされているから、うっ血する間もなく亡くなった場合には見られないかもしれないね」
「いずれにしても、てるてる坊主がすでに死んでいるなら、雨が降ったというストーリーを作るために、わざわざ竹串を延髄に刺す必要はなかったのではありませんか?」
「うむ、そうかもしれないね」
「すると、すでに死んでいるてるてる坊主の延髄にわざわざ竹串を刺したのは、その前にてるてる坊主を殺した真犯人をかばうため、と考えていいのでしょうか?」
「てるてる坊主の首にひもが巻かれた時点で、てるてる坊主が窒息死していた可能性は十分に考えられるだろうね。でも、彼女たちには殺意はまったくなかったと思うよ」
「彼女たち?」
「うむ、首にひもをまきつけたときに、てるてる坊主が窒息死した可能性があったかもしれないと私は考えていたんだ。でも、チハルたちの話を聞いてみると、二人とも、てるてる坊主の首にひもをまいていたから、どの時点で窒息死したか、私には断定できなかったんだ。最初は、みよ子が縫い糸を切れてしまうまで力をいれてしばり、その後、チハルが金色のひもでしっかり首をしばっているからね。でも、みよ子もチハルも、どちらにも殺意はなかっただろうから、これは故意の殺人とは言えないだろうね」
「先生は、みよちゃんに犯人だと思われていますが、それでいいんですか?」
「ああ、みよ子やチハルにたとえ殺意がなかったとしても、過失でてるてる坊主を死に至らしめたと分かったら、やはり傷つくだろうからね」
店には、『奇妙な果実』を歌う、ビリー・ホリデーの切ない歌声が流れていた。
ぼくは、コーヒーが数滴入ったミルクをゆっくりと飲み干した。(完)
No.66
2023年11月16日木曜日
次の日の日曜日、河田先生はみよちゃんにすべてを話して謝った。おとといの晩、大学から帰ってきた時には、すでに雨が降り出していた。みよちゃんの部屋の窓に、てるてる坊主がぶらさがっていたのを見て、明日の遠足が雨で流れると、てるてる坊主にお祈りした願いがかなわなかったと、みよちゃんが将来何も信じられない人間になるかもしれない、そう思ったお父さんは、その場で、てるてる坊主を殺害することを思いついたのだという。そして、台所から竹串を持ち出して、家の裏にあるアルミ製の脚立を伸ばして、みよちゃんの窓のところまで上り、てるてる坊主の延髄をひと突きした、と説明した。てるてる坊主が死んだために、雨が降ったのだということにすれば、信じることを諦めない人間に成長できるのではないかと思ったのだと、先生は打ち明けた。
みよちゃんは涙を流したが、お父さんに悪意はなかったことは理解できたので、最後には許してくれた。
ぼくが帰ろうとすると、先生が呼び止めた、
「加茂川くんはお昼には時間があるかい?」
「とくに用事はありません」
「JACOのマスターにライヴを聴きに来ないかと誘われているんだけど一緒に行かないか?ピアノ・トリオで、オール・ビル・エヴァンス・プログラムのライヴらしいよ」
「はい、実はぼくもおじから誘われていました。昼の部だったら行けそうです」
いつものライヴでは、出演者の関係者程度で閑散としているのだが、この日のJACOは、けっこうにぎわっていた。ビル・エヴァンスの曲というだけで、これだけのお客さんが集まるのだな、とぼくは感心した。
ライヴは、「ワルツ・フォー・デビィ」から始まり、「ブルー・イン・グリーン」で終わった。「ブルー・イン・グリーン」は、発表当時は、マイルス・デイヴィスが作曲したとクレジットされている曲だ。今日のオール・ビル・エヴァンス・プログラムと銘打ったライヴで、この曲を入れるのは、勇気のいることだったのではないかしらと、ぼくは思った。でも、「ブルー・イン・グリーン」という曲に、ビル・エヴァンスが関与していることは、演奏を聞けば誰でもうなずけるに違いない。
ライヴが終わり、再び、おじの選んだ音楽が流れてきた。
ぼくは河田先生に質問をした、
「先生は、竹串を刺す前に、てるてる坊主がすでに死んでいたことを知っていたのではありませんか?」
「えっ!何だって?」
No.65
2023年11月13日月曜日
ぼくはしばらく沈黙して、窓の外を眺めていた。昨日の雨模様とは打って変わって、今朝は澄み切った秋の青空が広がっていた。
「加茂川くんの推理を聞かせてくれないかな」
ぼくが沈黙していると、河田先生が切り出した。
「はい。犯人は、みんなが寝静まった後に、みよちゃん家の庭に侵入し、家の裏に置いてあった脚立を伸ばして、みよちゃんの部屋の窓の下に立てかけたものと思われます。そして、脚立を上って軒下のてるてる坊主の延髄をねらって竹串をさしたのでしょう」
「…加茂川くんには、もう犯人の目星がついているみたいだね」
「ええ。まず、犯人は庭に入って迷う様子もなく、家の裏まで往復して脚立を取ってきています。それは、雨でぬかるんで土に残された足跡でわかります。脚立は、みよちゃんの部屋の窓の下に立てかけても、軒下のてるてる坊主まで手を伸ばすことは、相当上背のある人物にしかできません。そして、犯人は、てるてる坊主の延髄を正確にひと突きしています。」
「つまり、犯人は、家の脚立の置き場所を知っていて、背が高くて、しかも頭頸部の解剖をよく知っている人物ということだね」
「はい。でも、てるてる坊主を殺害することだけが目的だったら、わざわざ竹串は残しておかなかったのではないでしょうか?ぼくには、犯人が正確に延髄をついているんだということを周りに示したかったように思えます。つまり自分には正確な解剖学的な知識があるのだということを知らせるために…」
「さすがは加茂川探偵。てるてる坊主を殺したのは、きみが推理した通り、この私だ」
先生は動揺する様子もなく、いとも簡単に自白をした。しばらく先生の目を見つめていたぼくは、おもむろに口を開いた、
「動機は、何だったんですか?」
「動機ね…。今度の秋の遠足は、みよ子にとっては、もちろん加茂川くんやほかの一年生にとってもだけど、春の遠足が雨で流れてしまったので、小学校に入って初めての遠足だっただろう。それが、またもや雨で流れてしまった。みよ子はてるてる坊主まで作ってお祈りしていたのに願いがかなわなかった。きっと落ち込むんじゃないかと思って、てるてる坊主が死んだために雨になったと納得させるつもりだったんだ」
「ぼくが推理することも予想して、ですね」
「そういうことになるかな。明日の日曜日に、みよ子たちには全部話して謝ろうと思っている。加茂川くんもうちに来てくれるかな」
「はい、うかがいます」
No.64
2023年11月9日木曜日
K大学の解剖学教室は、医学部キャンパスのプラタナス並木をそれた、少し奥まった場所にある古い建物の三階にあった。一階が法医学教室、二階が病理学教室、そして三階が解剖学教室だった。ぼくは、この建物の古めかしさが好きだ。しかし、建物の老朽化が進み、医学部創設100周年記念事業の一環で、新しく建てかえる計画があるらしい。
みよちゃんのお父さんには、朝一番にうかがうことをあらかじめ伝えていたので、三階まで階段を上がって、直接、准教授室のドアをノックした。この建物にはエレベータがなかった。いや、解剖用のご遺体を、地下の保管室から三階の解剖実習室まで運搬するための業務用エレベータはあったが、これは地下から三階までの直通エレベータだった。
「やあ、加茂川くん、いらっしゃい」
みよちゃんのお父さんは、いつもぼくのことをファーストネームではなくファミリーネームで呼ぶ。
「頭頸部の解剖が知りたいんだって?例のてるてる坊主殺人事件に関してだね」
「はい」
みよちゃんのお父さんは、学生時代から剣道をやっているとのこと。身長は180センチメートルはありそうだが、これで上段の構えを得意としているのだから、試合で上段に構えて、左足を前に進められたら、相手はきっとすくんでしまうだろうな。
先生は、踏み台も使わず、壁の備え付けの本棚の一番上の棚に手を伸ばして、易々と解剖学の図譜を取り出して来た。応接用のテーブルの上に図譜を置くと、頭頸部のページを開いてくれた。(頭頸部のページには、すぐに開くことができるように付箋がはさまれていたから、ぼくが頭頸部の解剖のことを聞きに来ることは、あらかじめご存じだったようだ)
ぼくは、図譜を見ながら質問をした、
「てるてる坊主の首にささっていた竹串は、この図譜でいうと延髄という場所にあたりますね」
「そうだね。延髄には呼吸中枢があるから、ここを針や串で刺されると呼吸が止まるかもしれないね」
「ということは、犯人は延髄を串で突けばてるてる坊主を殺せることを知っていたということになりますね」
「そういうことになるね」
No.63
2023年11月6日月曜日
手にとって観察していたてるてる坊主をフローリングの上に置くと、ぼくはたずねた、
「そのとき、家には他に誰かいましたか?」
「弟のノリヒロがいたけど、私たちがてるてる坊主を作っている間、横でプラレールで遊んでいたわね。お父さんは、いつものようにそんな時間には帰ってなかったわ」
「表の門扉は、夜には鍵をかけますか?」
「いいえ、門扉の隙間から手を入れて、つまみをひねると誰でも開けられるようになっているわ。宅配便の置き配のときは、門扉を開けて玄関のドアの前まで入って来てもらっているの」
「ということは、外の道路から庭まで入ろうと思えば、誰でも入れるわけですね」
「う〜ん、そういうことになるわね。…ほんとだ!考えてみたらぶっそうよね。犬でも飼おうかしら」
みよちゃんのお母さんは、昔からおおらかというか、あまり細かいことには気をつかわない人だった。
「ありがとうございます。だいたいの状況は理解できました。ところで、明日、お父さんの研究室にうかがってもいいでしょうか」
「いいわよ、帰って来たら伝えておくわ。明日は土曜日だから講義はないけど、いつものように朝8時には研究室にいるはずよ。でも、どうしたの急に?」
「ちょっと頭頸部の解剖について教えてもらいたいことがあるんです」
「トウケイブ?」
みよちゃんは、言葉の意味が分からず、首をかしげていた。
みよちゃんのお父さん、河田シンゴは、K大学医学部解剖学教室の准教授だった。
ぼくは、てるてる坊主の首元にささっていた竹串が貫いている頸部、とりわけ脳から脊髄につながる解剖が気になったので、河田先生に教えてもらいに行こうと考えていた。小学校に入ってから、何度か大学の解剖学教室に遊びに行ってたので、ぼくは一人でも迷わずに行けるようになっていた。
解剖学教室に、それこそ何十年も前から保存されている色んな臓器の標本をこっそり見せてもらうことも密かな楽しみにしていたが、明日は、そんな余裕はなさそうだ。
No.62
2023年11月2日木曜日
てるてる坊主は、みよちゃんの部屋の東向きの窓の軒下に吊るされていた。みよちゃんが話していた通り、キラキラ入りサインペンで顔を描かれた面とは反対側のてるてる坊主の首の後ろに竹串が刺さっていた。
窓の軒下には子どもでは手が届かない。
「お母さん、てるてる坊主を外してもらっていいでしょうか」
「いいわよ」
みよちゃんのお母さんは、勉強机のところにあった椅子を持ってきて、それにのっててるてる坊主を金のひもをつけたままはずしてくれた。みよちゃんのお母さんの身長は150センチメートルくらいなので、踏み台がないと軒下までは届かなかった。
「ありがとうございます。ところで、お母さんは夕べはみよちゃんと一緒にてるてる坊主を作ったんですよね」
「そうなの。春の遠足が雨で流れたから、気合を入れて作ったのよ。なのに、こんなことになるなんて…。いったい誰の仕業かしらねぇ」
「てるてる坊主を作ったときのことを詳しく聞かせてもらえませんか」
「ええ、いいわよ。確か、白い絹のハンカチは、私がむかし使っていたのを再利用したの。綿は救急箱から持ってきたわ。ひもはね、最初は縫い糸にしたんだけど、結んだときに切れてしまったの。裁縫箱の中を探したら、少し太めの金色のひもを見つけたので、そっちに替えたのよ」
「てるてる坊主はみよちゃんが一人で全部作ったんですか?」
「ううん、私が綿を丸めて、ハンカチの真ん中に置いたの」と、みよちゃんが割って入った、「てるてる坊主の首にひもを巻くのに最初は縫い糸で私が結ぼうとしたんだけど、うまく結べなくて、糸が切れてしまったの」
「そうそう、だからお裁縫箱からもう少し丈夫そうなひもを探してきて、お母さんがくくったのよね」と、お母さんが言った、「あれは確か、お土産にもらったお菓子の箱を結んでいた金色のひもで、きれいだったから捨てずに取っておいたものなの。丈夫そうだったから…力を入れてひっぱっても切れなかったわね」
「でもね、てるてる坊主さんのお顔を描いたのは私なのよ。にっこり笑った顔にしたの。キラキラが入った青のサインペンでね」
No.61
2023年10月30日月曜日
みよちゃんの家は、バス通りを北に折れて二つ目の北東の角にある。庭をはさんで、二階のみよちゃんの部屋の東向きの窓が、通りからも見える。遠目にも軒下のてるてる坊主の首のあたりに竹串が突き刺さっているのが見てとれた。
「ハルキくんに見てもらうまで現場は触らないで、そのままにしておいたわよ」
幼なじみのみよちゃんは、ぼくが事件の解決をするときにいつも言っている「現場保存」をしっかりと実行してくれていたようだ。
玄関の門扉を開けて、家のドアの手前を左に折れると、細長い庭につながる。庭には、手前からトネリコ、モッコク、モミジ、ロウバイの木が植えられている。どう考えても、まとまりのない木の並び方だ。
昨日の雨で柔らかくなった土の上には大人サイズの足跡があった。みよちゃんの部屋の窓の真下あたり、壁から少し離れた所に、少し深めの四角い穴が二つ並んで掘れていた。穴と穴の距離は50センチメートルくらいだった。
庭は、家の南東の角で右へ折れるが、ここは狭くて大きな木は植えられない。そこにはアルミ製の折りたたみ式の脚立が寝かせてあった。足跡は、この脚立の辺りまで往復しているように残っていた。脚立の足は四角形で、二本の足の幅はおおよそ50センチメートル。先ほど見た地面の穴とほぼ一致するようだった。
犯人は、この脚立を伸ばして家の壁に立てかけたのだろう。脚立は伸ばしても、みよちゃんの部屋の窓には届きそうにはなかった。脚立の上まで昇っていったとしても、ある程度の上背がなければ、軒下のてるてる坊主には届かないだろうな…。
ぼくたちは、家の中に入った。
「ハルキくん、わざわざみよ子のためにごめんなさいね」
みよちゃんのお母さんが出迎えてくれた。みよちゃんのお母さん、河田チハルは専業主婦だった。
「おじゃまします。てるてる坊主を見せてもらっていいでしょうか」
「ええ、ばっちり『現状保存』してありますよ、探偵殿」
ぼくたちは、二階のみよちゃんの部屋に上がっていった。
No.60
2023年10月26日木曜日
みよちゃんは朝6時に目が覚めた。遠足を楽しみにしていたので、いつもより早く目覚めたようだ。台所で、お母さんが朝食と遠足の弁当の準備をしているらしく、包丁がまな板をトントントンと軽快に打つ音が聞こえていた。お父さんは、昨日も仕事が遅くまでかかったせいか、まだ眠っているようだった。いつもは6時半頃に起きてくるので、今日はお父さんより早く目がさめちゃった、とみよちゃんは思った。
「そうだ。お天気はどうかしら?」
ふとんの中で目覚めたものの、まだ起き上がってはいなかった。遠足の日であることが頭をよぎった途端、みよちゃんはふとんを蹴ってはね起きた。そして、てるてる坊主を吊るした窓から外を見た。
雨だった。
みよちゃんはがっくりと肩を落とした。が、それよりショックを受けたのは、てるてる坊主の首元に竹串がささっているのに気づいたときだった。
昨日お母さんといっしょに金のひもをくくりつけた首元、キラキラ入りの青いサインペンで顔を描いたのとちょうど反対側、首の後ろ側に竹串がささっていた。
「もう、てるてる坊主の首にささっている竹串を見たときは、ほんとに心臓が止まりそうだったのよ。誰かが私のてるてる坊主を竹串で殺したから、今日は雨になったんだわ、きっと。ハルキくん、誰がこんなことをしたのか犯人を見つけてほしいの」
みよちゃんが話し終わると、26分余りある「ビッチェズ・ブリュー」の演奏も終わり、店内に静寂が拡がっていった。
「じゃあ、暗くなる前に現場を見せてもらおうかな」
ぼくは席を立って、みよちゃんを促した。
おじさんに「ごちそうさまでした」とお礼を言って、ぼくたちはJACOを出た。
皮肉なことに、外に出ると雨はすでに上がっていた。
No.59
2023年10月23日月曜日
店の名のJACOは、もちろん、ウェザーリポートで活躍していたベーシスト、ジャコ・パストリアスにちなんだ名前だ。おじは学生の頃から喫茶店を経営していたらしい。いわゆるジャズ喫茶だが、ときどきジャズのライブ演奏もやっていた。おじ自身もジャズ・ベースを弾いていたそうだが、ぼくはおじの演奏を一度も聞いたことはなかった。店の壁には四本のエレキベースが飾られ、店の片隅には、深い褐色のウッドベースが置かれていて、いずれも使い込まれた感じの楽器だったから、かつては、おじもバンドでジャズをやっていたのだろう。
ぼくが店に行ったときは、いつも冷たいミルクに、淹れたてのコーヒーを、(親からは子どもはコーヒーなんか飲んじゃいけません、と注意されているので)おじは内緒で少しだけ垂らしてくれる。みよちゃんの前には、しぼりたてのフレッシュオレンジジュースが置かれていたが、手をつけていなかったので、ガラスコップの外側には空気中に拡散した彼女の吐息が水滴になって流れ落ちていた。
おじのこだわりは、ジャズをアナログのLPレコードで聴かせることだった。手間はかかるが、CDにはない柔らかくて温かい音がいいのだ、といつも言っている。
考えごとをするとき、ぼくはいつもマイルス・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』をかけてもらうことにしている。込み入った依頼を受けたときは、アルバムタイトルの「ビッチェズ・ブリュー」が、雑念をはらってくれるような気がして気に入っている。
みよちゃんの話は、こんな話だった。
ぼくたちが小学校に入学して最初の春の遠足は、植物園に行く予定だったが、これが雨で流れてしまった。そして、今回の秋の遠足は、京都駅から近鉄電車に乗って、奈良公園まで行く予定だった。秋の遠足は晴れてほしいと、みな願っていたので、担任の小石先生は、「みんなでてるてる坊主を作って、遠足の日が晴れるようにお祈りしましょう」とホームルームの時間に呼びかけていた。みよちゃんは、遠足の前の日の夕飯が終わってから、お母さんと二人でてるてる坊主を作った。白い絹のハンカチの真ん中に綿を丸めて置き、ハンカチでその綿をくるんで、首元を金色のひもでくくり、二階のみよちゃんの勉強部屋の窓の外の軒下に吊るして、お母さんと二人で「明日は晴れますように」とお祈りをしたのだそうだ。
そして、事件はあくる日の朝に起こった。
No.58
2023年10月19日木曜日
読書の秋ですね。でも研修医の先生方は忙しくて、小説を読む間もないかもしれませんね。ぼく自身も、研修医一年目の初めの2〜3ヶ月は専門の教科書以外の本を読む時間が、ほとんどなかったことを覚えています。そこで、こじつけ的ですが、しばらく「つぼやき」の場を借りて、強引に「読書の秋くらいは息抜きに小説も読もうよ」というキャンペーンを展開します。ぼくが医学生の頃にプロットを考えた「推理小説もどき」のお話をしようと思います。題して『てるてる坊主殺人事件』です。(注:イラストにそえたマンガは、小説の挿絵ではありません。独立した10回連続マンガです。こちらは、推理マンガではなく、ファンタジーです)
てるてる坊主殺人事件1/10
ぼくは、おじが経営するジャズ喫茶JACOで、いつものようにマイルス・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』をかけてもらって、みよちゃんの話に耳を傾けていた。
外は雨。今日は、ぼくたち1年生の遠足の日だったが、雨で流れてしまったのだ。ぼくたちはお母さん(何人かはお父さんだったかもしれないけど)に作ってもらった昼の弁当を、小学校の教室で食べた後、解散して家に帰ることになった。
ぼくが帰り支度をしているところへみよちゃんがやって来た。みよちゃんは幼なじみで、小学校に入って同じクラスになった。小学校に入ってから、みよちゃんは髪を後ろでひとつにまとめる、いわゆるポニーテールにするようになった。すると今まで隠れがちだった耳があらわになって、最初に見たとき、ぼくは少しドキッとした。いっしょに遊んでいたときはおさげにしていたので、みよちゃんの耳は髪の毛に隠されて見えなかったのだが、ポニーテールにしてあらわになった彼女の耳は、申し分なく美しかったのだ。しばらくの間は、会うたびにぼくの目はみよちゃんの耳にひきつけられ、いつもドギマギしていたものだった。
「ハルキくん、今日の雨ね、きっとわたしのてるてる坊主のせいだと思うの」
みよちゃんの話し方はいつも唐突だった。
「朝起きたらね、てるてる坊主が殺されていたのよ」
これで大体、察しがついた。誰がてるてる坊主を殺したのか、犯人を見つけてちょうだいという依頼に違いなかった。そういう話は友だちが大勢いる教室ではできないものだ。そこで、ぼくは帰り途にある、おじが経営するジャズ喫茶JACOに立ち寄ったというわけだ。
(号外)
2023年10月18日水曜日
昨日の新聞で、10月8日に、シンガー・ソングライターの谷村新司さんが亡くなっていたことを知った。実を言うと、ぼくには過去に谷村新司さんと接点があった。
谷村新司さんのご実家は、大阪市東住吉区にあった。ぼくは、谷村さんのご実家の二軒隣に住んでいた。小学校低学年の頃、ぼくは向かいの家のクロミズさんというお兄さんによく遊んでもらっていた。そのクロミズさんは、谷村新司さんの同級生だった。
あるとき、いつものようにクロミズさんの家で遊んでもらっていたとき、谷村新司さんも一緒にいた。ぼくは、二人のお兄さんから、ブーブークッションというイタズラグッズを、これから来るお客さんの座布団の下に入れてこいと命令されたことがあった。クロミズさんは、ご自分で作った木製の軍艦の模型やコリントゲーム(スマートボールのようなもので、釘を打ちつけた、少し傾斜をつけた板の上に、ビー玉をはじいて転がして、穴にビー玉を入れるゲーム)などを、ときどきぼくに譲ってくれていたが、大人しい感じのお兄さんだったと記憶している。だから、ブーブークッションを座布団に仕掛けようと発案したのは、谷村新司さんだったのではないかと疑っている。後に、ちょっとふざけた調子でラジオのDJをされるようになった谷村新司さんなら、やりかねないイタズラではなかったかと思うのだ。
その頃、谷村新司さんは中学生だったが、近所にある小さな児童公園で、毎晩のようにギターを弾いていた。1960年代の初め頃と言えば、ギターを弾いている学生は「不良少年」とみなされていた時代だった。そんな空気感の中で、谷村さんは児童公園で、独り黙々とギターを弾いていた。
ぼくは、谷村さんと同じ中学校で学んだが、年が離れていたので、学校で一緒に過ごしたことはなかった。が、中学時代の担任だったモリタ先生のご自宅に遊びに行ったとき、「この人知ってるか?」と、ロックキャンディーズというフォークグループのドーナツ盤EPレコードを見せられた。そのジャケットに写っていたのは、谷村新司さんだった。モリタ先生は谷村さんが卒業生だったので、レコードを買われたのだろうか。ロックキャンディーズは、谷村さんが大学時代に結成した最初のフォークバンドだった。
1980年前後に、タイのバンコクに旅行したとき、ガイドをしてくれた現地の大学生と話しているうちに、日本の歌手で誰を知っているかという話題になった。そのときに、ちあきなおみと谷村新司の名前が出てきたので驚いた。谷村新司さんは、いつの間にか国際的な歌手となっていたのだった。
享年74歳。ちょっと早い気もしますね。合掌。
No.57
2023年10月16日月曜日
よき臨床医となるためには、医師自身が一度入院を経験してみるとよい、と言われることがある。ぼくは、22歳のときに、「モウチョウ」すなわち急性虫垂炎の手術で入院したことがある。
夕食に、キリマンジャロコーヒーを飲み、焼きそばUFOを食べた。あくる朝、起き抜けに嘔吐した。その時点では腹痛はなかったが、食欲がわかず、夕食時、チャイムという喫茶店のお気に入りのハンバーグ定食をほとんど食べられなかった。その晩、下宿に帰ると激しい腹痛に襲われた。痛みは右下腹部というよりも胃の辺りだったので、てっきり食い合わせか何かだろうと考えていた。当時は、大家さんの家の二階に、ぼく一人だけが下宿していたが、一晩中ベッドの上で悶え苦しんでいた。「下宿屋のおばさんが見に来てくれないかなぁ」と淡い期待を抱きながら、わざと足をドタンバタンさせていたのだった。
次の日、急性虫垂炎と診断されて、街の外科病院で緊急手術を受けることになった。このときの約1週間の入院が、生まれて初めてで、(今のところ)唯一の入院経験である。手術は脊椎麻酔で鎮静もされなかったので、しっかり覚醒した状態で行われたが、麻酔が広がると、それまでの痛みが嘘みたいに消えていった。
術後何日目かに、美人の若い看護師さんが検温に来たとき、体温計をぼくのベッドサイドに忘れていったことがあった。もう一度戻ってくれないかなぁ、と期待して待っていたところ、果たして戻って来てくれた。ずっと待っていたことを悟られないように、ふと思い出したような口調で、ぼくは言った、
「あ、体温計忘れてましたよ」
「あら、ありがとうございます」
……それだけだった。ぼくは心のどこかで、甘美なロマンスが展開することを期待していたのだが、何の進展もなかった。入院して退屈すると、男はかくの如く、くだらぬ空想をめぐらすものだと知った。
独歩で退院したが、市バスで立っているのが辛かった。吊り革につかまっていたが、とにかく真っすぐに立てないのだ。バスがブレーキをかけるたびに腹筋に力が入って、痛みが増した。こんなに辛い思いをしているのに、誰も席を譲ってくれようとしないなんて、何て薄情な人たちなのだろうと、世間を恨んだことを覚えている。
このときの入院体験は、もちろん後の臨床の糧となっている(のかしら?)。
自分自身から「私があなたの主治医です」と言われて安心できる医師になりたいな。
No.56
2023年10月12日木曜日
ぼくが小学生だった頃、ウルトラマンというテレビ番組が日曜日の午後7時から放映されていた。翌月曜日に学校に行くと、前日のウルトラマンについて、男子どもは軽い興奮状態で感想を述べ合っていたものだ。バルタン星人が登場する『科特隊宇宙へ』という放送の翌日、ヤマダくんが「バルタン星人がウルトラマンのリングで二つに切られたとき、中の人は大丈夫やったんやろか?」という疑問を提示した。ぼくたちは、テレビで描かれるウルトラマンの「物語」に夢中ではあったが、怪獣は着ぐるみで、中には人が入っているということを、こざかしくも「知っていた」。そして、まっぷたつに切られるときは人形を使っているのだろうと大半のクラスメイトは「類推」していたわけだが、ヤマダくんは、「すべての怪獣は着ぐるみで、中に人が入っている。バルタン星人は怪獣だ。だからバルタン星人の中には人が入っている」という三段論法で、このバルタン星人がウルトラリングで切断されてしまったら、中の俳優さんが死んでしまうのではないかと心配したのだった。
このような三段論法は演繹法と呼ばれています。病気の診断をするときにもこうした推論が使われることがあります。いくつかの症状からある疾患を疑うまでは、帰納的推論で、仮の診断名がついたら、その疾患に特徴のあるデータを集めるために血液検査や画像検査などを追加し、演繹法的推論を重ねて確定診断に至るわけです。しかし、ヒトの体というのは理屈通りにゆかぬことがままあるので悩ましいのですが、そこがまた興味深いところでもあるのです。
ぼくが担当していた慢性腎炎の中学生が、ステロイドのパルス療法をしていたときに、意識障害を来したことがあった。末期でもないのに…。腎炎の症状に意識障害などあったかしら、と頭を悩ませながら検査を追加して、最終的に、窒素代謝にかかわる酵素が先天的に欠損している稀な疾患が合併していることが分かった。これなどは、腎炎とはまったく関係ない病気がたまたま合併していたわけだけど、何事にも、とらわれないことが大事だなと思い知らされた経験だった。
No.55
2023年10月9日月曜日
前回紹介した「最初に人が習慣を作り、次に習慣が人を作る」という言葉は、ひとつのことをくり返し続けるということの大切さを説いているが、ぼくが座右の銘のようにしているのは、「行雲流水」という言葉だ。
「行雲流水」とは、空を行く雲のごとく、また流れる水のごとく、自然の成り行きにまかせるということから、何事にも深く執着せずに行動することを表す言葉だ。先の「最初に人が習慣を作り、次に習慣が人を作る」という言葉とは一見矛盾しているようにも見えるが、生活のすべての面で習慣化する必要もないし、万が一よくない習慣にはまってしまったときは、抜け出せなくなってしまうこともあるから、のらりくらりと構えていた方がよい場合もあるかもしれない。
この「行雲流水」という言葉が縁で知り合った医師がいる。府立医大の疼痛・緩和医療学教室が主催した地方会の打ち上げの席だったと記憶しているが、そのとき、たまたま隣にA先生が座った。初めて言葉を交わしたが、彼女はあまり楽しそうな表情をしていなかった。話を聞くと、彼女はもともと乳腺外科を専攻していたが、乳がん患者を診ているうちに、緩和ケアに興味をもって、大学の「がんプロフェッショナル養成専門コース博士課程」で緩和医療を学ぼうと思ったとのこと。しかし、府立医大の疼痛・緩和医療学教室は、もともと麻酔科から派生した教室だったので、外科出身の彼女は、碁石にまぎれた将棋の駒みたいに感じていたのかもしれなかった。そのときの話の中で「行雲流水」という言葉を出したのだが、これが彼女にとって救いとなったらしかった。
その後、年賀状をやり取りし、興味をもった本を互いに紹介し合ったりするようになった。大学院を卒業して、彼女は緩和医療専門医の資格をとった。大学の医局人事で、舞鶴の病院の一人部長として、しばらく緩和ケアに従事していたが、赴任先の病院ではいろいろ苦労があったようだ。悩んだ末に、彼女は元の乳腺外科に戻ったが、今は乳腺外科医として活き活きと働いておられる。
雲のような気ままさも好きだけど、気まぐれに現れて人を幸せな気持ちにしてくれる虹のようになれたらいいな、と憧れますね。
No.54
2023年10月5日木曜日
いまだにオリジナルが分からないけど、気に入っている言葉がある。
「最初に人が習慣を作り、次に習慣が人を作る」
という言葉がそれです。
ネットを見ていると、イギリスの詩人ジョン・ドライデンの言葉だとされていることが多い。それで、何の詩に出てくるのかなぁと、ずっと気になっていたのだけれど、オリジナルが見つけられないでいた言葉だった。すると、先日、「これはジョン・ドライデンが言った言葉ではない」と断定する記事を見つけた。CHECKYOURFACTというサイトで、2019年にブラッド・シルヴェスターという人が、この言葉の英文“We first make our habits, and then our habits make us.”という言葉は、かつてFacebookへの投稿で、ジョン・ドライデンの言葉だとされて普及しているが、彼がかつて、そのようなことを言ったという証拠は何もない、と結論づけていた。誰が言ったかは分からないが、拡散されて言葉だけが流布してしまったようだ。
医師になると、そのうち医学論文を書く機会が出てくる。そのとき、過去の研究を参照しながら考察を加えることがある。しかし、過去の論文数は膨大で、過去の報告をすべて網羅するなどということは到底不可能となる。そんな時にやってしまいがちなのが、「孫引き」だ。「孫引き」とは、「直接に原典から引くのではなく、他の本に引用された文章をそのまま用いること」(これもAcaricというサイトからの孫引きです。Acaricにはしっかり「孫引き」の原典が示されていますよ)。
論文を書く場合には、孫引きではなく、できるだけ原典にあたるのがよさそうです。論文に引用されている元の文献にあたってみると、引用の趣旨と違った主張や表現が載っていたりする場合があるからです。
それはそれとして、「最初に人が習慣を作り、次に習慣が人を作る」って、いい言葉だと思いませんか?何かを習慣にするまではけっこう努力がいるかもしれませんが、そのうちそれが自然な習慣として身についてくると、自分が変わっていくということですよね。大げさなことではなく、日常的にかわすあいさつや「ありがとう」という感謝の言葉だけでも習慣にできたらいいなと思う今日この頃です。
最初に人が習慣を作り、次に習慣が人を作る
No.53
2023年10月2日月曜日
小児科研修医の頃、朝一番で検査か何かを出そうと思ったときだった。窓際でカルテ(当時は紙カルテだった)を記録している看護師さんに声をかけたとき、すごく不機嫌な対応をされたことがあった。後で、彼女が深夜明けで、申し送りまでに急いで記録を終えようとしていたのだと分かって申し訳ないことをしたと反省した。
看護師さんの勤務は三交代制で、彼女は前日の深夜11時過ぎから働いていたわけだから、ぼくが声をかけたときは、疲労のピークだったに違いない。しかし、見た目だけでは、深夜明けのスタッフなのか、これから勤務する日勤のスタッフなのかは区別がつかなかった。近ごろは、ホワイトボードに書かれたスタッフの名前で深夜明けの看護師さんをチェックしているので、不用意に声をかけることはなくなっている(はずです)。
甲賀市の甲南病院では夜勤と日勤の看護師をマスクの色で区別しているという。日勤帯の病棟看護師らは水色のマスクを着けている。夜勤帯は、これがオレンジ色に変わる。長時間勤務を減らすことを目的に、今年の1月から実験的に始められたそうだ。他の病院で制服を色分けして取り組んだ事例を知り、コストや手軽さからマスクに目をつけたらしい。その結果、「残業しなくて済む指示を医師や同僚が出したり、ねぎらいの言葉をかけたりする機会も増えた」(広瀬京子看護部長談)とのこと。
医師の場合、当直をすると、24時間以上の勤務となる場合がある。当直の翌日は勤務を免除されることにはなっているが、病棟に気になる患者さんがいるとすぐには帰れない。30時間以上の勤務になることもある。医師の場合は、勤務時間によってマスクの色が変化してくるようにしてはどうだろうか? 8時間までは白、それ以降は黄色、16時間を超えるとオレンジ色、24時間を過ぎると赤色…てな具合に。患者さんもまっ赤なマスクの医師を見たら、怖くて逃げたくなるのではないかしら。
No.52
2023年9月28日木曜日
内科から麻酔科にローテートしてきた研修医のM先生が初めて担当したのは、痔の手術の麻酔だった。腹臥位の体位をとって、低比重の局所麻酔薬を使用するので、麻酔科的には少しテクニックを要するが、手術時間は短く、あっという間に終わってしまう。この手術が終わって、M先生が医員室に戻ってきて、少し興奮気味に「麻酔がうまくいってホッとしました」と報告したのを聞いたとき、ぼくは「たかがヘモ(痔のことです)のオペじゃないか」と思ってしまった。そして、そのすぐ後に、ハッとして、そう思った自分を恥じたことがある。ぼく自身にとっては、ありふれた手術の麻酔であっても、M先生にとっては、それこそ生まれて初めての手術麻酔だということを忘れるところだった。
ぼく自身が麻酔科研修を始めて最初に担当した麻酔症例も脊椎麻酔だったが、部長に指導されながらおそるおそる麻酔をしていた情景を今でも思い浮かべることができる。手術が終わってからも、麻酔が無事に覚めたかどうか、脊椎麻酔後の後遺症の頭痛は出ていないか、など心配で何度も患者の所へ足を運んだのではなかったか。
このとき、世阿弥の「初心忘るべからず」という言葉を思い出した。世阿弥は能役者であったが、いくつもの能楽論書を書き残している。「初心忘るべからず」という言葉は、その中の『花鏡』という書に出てくる。ぼくは『花鏡』を知るまでは、「初心忘るべからず」というのは、「何かを始めた頃の最初の気持ちを忘れてはいけないよ」という意味だと思っていた。ところが、この『花鏡』には、三つの初心を忘れるな、と書かれている。すなわち、①是非の初心を忘れるな ②自分のそれぞれの時期における初心を忘れるな ③老後の初心を忘れるな の三つ。①は青少年期(医師ならば初期研修医の頃)の未熟さを忘れてはいけないということ。②は、壮年から老年期(医師では専攻医から専門医の頃か)へと修行してゆく間に、各時期の年齢にふさわしい曲を習得するとき、それぞれの時期における初心を忘れるなということ。③は、老後になって、その年齢に似つかわしい芸(医療)をきわめるときの初心を忘れるなということ。(世阿弥/小西甚一編訳『風姿花伝・花鏡』(たちばな出版))
とりわけ、未熟な頃の自分を忘れずにいれば、いつまでも謙虚でいられそうな気がします。
心配はいらんよ。わしはいつも初心者のつもりでオペに臨んでおるのだ!
No.51
2023年9月25日月曜日
小児科研修医のころ、小児科医が集う小部屋が病棟にあった。午後、外来を終えた医師や病棟業務が一段落した研修医らが、コーヒーブレイクで集まったり、夕方から海外の雑誌の購読会などを開いたりしていた小部屋だ。そこでは、無駄なおしゃべりもしていたが、この無駄なおしゃべりがけっこう大事だったように思える。
学生のころに読んだ、田村京子という麻酔科医が書いた『北洋船団 女ドクター航海記』(集英社)で、船乗り用語の「肩ふり」という言葉を知った。田村氏は、2ヶ月間船医として漁船に乗っていたが、そのときに船乗り同士の「肩ふり」を経験したという。「肩ふり」とは、船乗り同士の「無駄な」おしゃべりのことだが、ただの気晴らしのおしゃべりではなく、「船乗りとして不可欠な仲間同士の心の絆を生むための必修課目だ」と、彼女は評価している。
小児科病棟の「肩ふり」では、小児神経が専門の上級医が言った、「明日できることは今日するな」という逆説的な迷言や、以前に紹介した、「パンツは前後裏表で4日間はける」という奇説などは、インパクトがあったので今でも覚えているが、「肩ふり」の内容はほとんど記憶に残っていない。でも、大事なのは、「何が話されたかということではなくて、そこでどのような人間関係が培われたか」ということではなかったかと思う。
「肩ふり」ができる条件は何だろうかと考えてみると、「病棟の中の小部屋」というのが案外大事な要件かもしれないと思われた。宴会や外食などでは病院を離れるので、仕事の話はしづらいし、したくもないこともある。病棟のカンファレンスなどでは、冗談は言えないし、あまりズレた話もできない。病院の中にいる(これはちょうど同じ船に乗り合わせているのと同じだ)ので、取り立てて仕事の話題を取り上げるわけではなく、何となく仕事にまつわる話題になるという微妙なバランス感覚が、無駄話に適度な緊張感を与えていたのかもしれない。
こんな船乗りの「肩ふり」はちょっとこわそうだなぁ。
No.50
2023年9月21日木曜日
小石川養生所は、江戸幕府が貧しい人びとに無償で医療を施すために作られた施設だった。ここに、「赤ひげ」と呼ばれるボスがいる。今で言えば院長だろうか。ここへ3年余りの長崎研修でオランダ医学を納めた、保本登という医師が着任してくる。黒澤明監督の映画『赤ひげ』(1965年)の話だ。
物語の冒頭、保本登(加山雄三)は、ことあるごとに「自分はオランダ医学を学んだ」と言う。今で言えば、「私は米国やドイツの最先端の医学を学んできました」といったところだろうか。この保本に向かって、赤ひげ(三船敏郎)は、初対面の場で「長崎での筆記と図録を全部見せろ」と要求する。これに対して保本は、「私はオランダ医学の各科を学びましたが、ずいぶん苦心して自分なりの診断や治療の工夫をしました。これは私のものです。人に取り上げられるいわれはありません」と口答えをする。すると赤ひげは「医学は誰のものでもない。天下のものだ」と諭す。
保本は、小石川養生所から逃げ出したくて仕方がなかったので、禁じられている飲酒をしたり、決められたお仕着せ(スクラブのような医師の着衣)を着るのを拒んだりしていた。赤ひげにたてつけば追い出されるだろうと考えていたのだ。「狂女」を閉じ込めている座敷牢の近くも、近寄ってはならないと言われていたので、わざと近くまで行っていた。「狂女」の世話をするお杉と、座敷牢のそばで話す場面がある。「私は…オランダ医学を本式にやってきたんだ。赤ひげだって知らない診断や治療法を知ってるんだ」と保本が言う。すると、お杉から「じゃあ、どうしてそれをここの他の病人にお使いにならないんですか」と質問され、保本は「誰でも間に合う病気なんかに興味はない」と言い放つ。
ある晩、保本が酒を飲んでいたときに、座敷牢を抜け出した「狂女」に危うく殺されそうになったことがあった。すんでのところで赤ひげに助けられた保本は、赤ひげにこう言われる。「お前は酒をのんでおった。それに男はきれいな女に弱い。恥じることはないが懲りることは懲りろ」と。
コーチングで、サンドイッチフィードバックという手法がある。相手の行為を評価するときに、最初にポジティブな意見を言い、その次にネガティブな意見を言う。そして最後にもう一度ポジティブな言葉で締めくくる、というのがサンドイッチフィードバックだ。赤ひげの言葉は、ポジティブ-ネガティブというオープンサンドフィードバックのようだが、決して相手の人格を否定していない、という点が大切なのだろうと感じる。
「保本がどうなったか知りたければ映画を見るのだな」(赤ひげ)
No.49
2023年9月18日月曜日
ぼくが研修先として小児科を選んだ理由は、多様な疾患を診ることができるということの他に、「成長」という時間軸で患者を診ることができるからだった。かつて患者であった子どもが成長した姿に会える機会が何度かあった。
研修医1年目に、初めて1500gで出生した女児の未熟児を担当したことがあった。幸い、妊娠週数が十分に経っていた(いわゆるSGA(Small for Gestational Age)児だった)ので、大きな合併症もなくやがて彼女は退院していった。外来ではフォローされていたのだろうが、ぼく自身は直接会う機会がなかった。ところが数年後、同じ病院で、ぼくが麻酔科医となっていたとき、偶然病院の廊下で、この子に会った。といっても、ぼくが覚えていたのはご両親の方で、一緒にいた幼稚園児が1500gの女の子だと聞いて驚いたのだった。目元がぱっちりとした可愛い女の子に成長していた姿を見て、その日はとても幸せな気持ちになった。
また、小学生のときに神経性食思不振症(最近は、神経性やせ症と呼ばれているようですね)になった女の子が、それこそ10年後くらいに、自分の赤ちゃんを抱いて、わざわざ手術室まで訪ねてきてくれたことがあった。彼女は、いわゆる真性の食思不振症ではなく、母親のダイエットの真似をして食べなくなったという症例だったので、その後は再発することなく成人できたようだが、小児科時代の担当医のことを忘れないでいてくれたことが嬉しかった。
学校検診で慢性腎炎が見つかった中学生の男の子は、熱心に取り組んでいた剣道をあきらめなくてはならないと言い渡されたとき、石を投げて学校の窓ガラスを全部割ったと話していた。小児科病棟に入院中、ちょうどその頃、同室に喘息で入院していた高校生に扇動されて、他の入院患者ともども総勢4人で病院を抜け出したことがあった。夜中に看護師さんたちが捜索に出かけたところ、彼はポテトチップスを買い食いしていたそうだ。運動制限や塩分制限は、彼にとってはストレスだったに違いない。数年後、そんな彼と京都駅の食堂でばったり出会ったことがあった。彼は客ではなく店員として働いていた。すっかり社会人として自立していた姿を見て、心の中で、ぼくは彼にエールを送った。
何もしなくても衰えはするが、何もしなかったら成長はできないものなのかしら。
No.48
2023年9月14日木曜日
病理学の講義のときだったか、黒板に「はめまら」という言葉が書かれた。Nさんは、とても真面目な女学生だったので、その言葉をノートに書き写した。それから、講師はおもむろに「はめまら」の意味について解説を始めた。これは、老化とともに衰えていく、男性の体の部位を表現したものです。「は」は歯、「め」は目、そして「まら」はペニスです、と板書しながら説明していた。この話をノートに書き取っていたNさんは、最後の言葉の意味を書き留めたとき、思わず顔を赤らめていた。
ぼく自身の経験から言うと、老いを感じたのは、はめまらより、むしろ「頭髪以外の白髪」を見つけたときだった。頭髪に白髪が目立ってくるのはそれほどショックではなかったが、鏡を見ていて、眉毛に白髪(この場合白髪と言っていいのかどうかわからないが、とにかく色素の抜けた真っ白な毛です)を見たときに、あっ老けたなぁ、と感じたものだ。同様に風呂などで、陰毛に白髪(これもあえて白髪と呼んでおきます)を見つけたときも同じように感じました。
老いの速度は動物の種によって異なっている。犬はヒトより寿命が短いので、老ける速度はヒトよりずっと速い。ご近所に、仕事を引退してからマルチーズを三匹飼い始めたご主人がいた。いつも三匹連れ立って散歩に連れて行っておられたが、あるとき、マルチーズが二匹になっていた。どうされたのですかと聞くと、「先日一匹亡くなりました」と寂し気に話された。それから間もなくして、ご主人が一人でウォーキングされているところに出くわした。「みな亡くなりました」と、問いかける前に、マルチーズがみな亡くなったことを教えて下さった。また犬を飼われるのですかとたずねると、「いやぁ、今度は自分の方が先に逝きそうなので、責任もてないから、もう犬は飼いません」とのこと。三匹のマルチーズは、我が家の犬に出会うと、いつもキャンキャンとカン高い声で吠え立てていたので、もっと若い犬だと思っていたのだが…。
先日、ご主人をお見かけしたら、散歩の距離を少し伸ばしておられたご様子だった。ご主人にはもっともっと長生きしてもらいたい。
「はめまら」とノートに書いて顔を赤らめていたNさんは、今は基礎医学教室の教授となっておられます。ところで、鹿児島県の伝統菓子「春駒」は、馬の一物に似ているので、かつて「うまんまら」と呼ばれていたけど、これも女性に配慮して改名されたそうな。
No.47
2023年9月11日月曜日
9.11というと、平成生まれの研修医諸君は2001年の米国多発テロ事件を思い出すだろう。しかし、チリの人々は、9.11と聞くと別の出来事を思い出すに違いない。
今からちょうど50年前の1973年9月11日は、チリのアジェンデ政権が軍のクーデターによって武力で倒された日なのです。アジェンデ政権は、1970年に選挙によって選ばれた世界で初めての社会主義政権だったが、これを好ましく思わなかった米国ニクソン政権は、CIAや米多国籍企業などを利用して妨害をしていたと言われている。そして、1973年9月11日に、ついに軍事クーデターが起きた。
このチリクーデターのとき、何千人もの一般市民が捕えられ、チリ・スタジアムに集められた。その中にチリのフォーク歌手、ビクトル・ハラがいた。彼は、ギターを弾き、捕えられた人々を励まそうと歌い出したが、ギターを壊され、軍の兵士たちによって両手の指を砕かれてしまった。それでも歌い続けようとした彼は、とうとう兵士たちに銃弾を浴びせられて殺されてしまったと伝えられている。彼が祖国チリに遺した歌唱の原盤は、おそらく極右軍事政権の手によって処分されてしまったと思われたが、ラテン・アメリカの他の国々やフランスなどに保存されたテープやレコードを用いて、ビクトル・ハラの追悼アルバムが編集された。それが、『ビクトル・ハラ チリ1973年9月』(東芝EMI IRS-80402)で、クーデターの翌年1974年に発表された。このアルバムには、彼がチリ・スタジアム内で囚人として過ごした数日の間に作られた詩の朗読が収録されている。この詩は、共に捕えられていた数名の人びとによって暗記され、幸い釈放された一人が書きつけ、密かにチリから持ち出されたものだということだ。
クーデター後、ピノチェト将軍による軍事独裁政権がチリを支配していたが、1985年、戒厳令下のチリに潜入して、当時のチリの姿をフィルムに収めたミゲル・リティンという映画監督がいた。この奇跡の6週間の様子を描いた、G.ガルシア・マルケス『戒厳令下チリ潜入記 ある映画監督の冒険』(岩波新書)は傑作です。監督はトレードマークの濃い髭をそり、変装して軍の兵士の目をごまかし、けっこう大胆な行動をしながらも無事に脱出に成功した。このときの文字通りの「冒険」が、この本に記録されている。
ビクトル・ハラの歌声はとても美しい。9.11にはクーデターで命を落としたチリの人びとを偲んで、ビクトル・ハラの追悼アルバムを聴いてみようと思う。
No.46
2023年9月7日木曜日
最近は、学会での一般演題はポスター発表が主流となっているが、かつてはスライドを用いた口演がほとんどだった。パワーポイントなどのプレゼン用のソフトがない時代には、スライドを使って発表していた。ぼくは、東山東一条交差点にある鈴木マイクロフィルム研究所という店に、原稿や写真、図版などを持ちこんでスライドを作ってもらっていた。文章や表を「ブルースライド」にすると、見栄えがよかった。「ブルースライド」とは、青地に白抜きの図や文字のスライドだったが、仕上がりに最低でも2日ほどかかるので、学会に持っていく3日前には原稿を仕上げておかなければならなかった。ところが、準備が間に合わず、急ぎで作ってもらうと、「白黒」のパッとしないスライドになってしまう。ぼくは、たいてい直前にスライドを差し替えていたので、1〜2枚は「白黒スライド」になっていた。
後に、斎藤一人の「78対22の定義」というのを知って、そうなるのは当然なのだと納得した。「78対22の定義」というのは、「人間のやることには限界があって、最高で78パーセントであり、100パーセントになることはない」という定義のこと。だから、どんなにがんばっても100パーセントのスライドは作れなかったわけだ(と自分で自分の至らなさを許すのだが)。
肝心なのは、残りの22パーセントをどうするか、である。斎藤氏曰く、「次にやるときは、この22パーセントを100だと考えて、完璧を目指す。でも、この改良がどんなにうまくいっても、やはり78パーセントが最高。すると、次はまた、残りの22パーセントを改良しようとする。こうして、限りなく改良を続けていっても、いつも22パーセントは残る。でも、少しずつ、完璧へと近づいていくのだ」と。(清水克衛『斎藤一人のツキを呼ぶ言葉』(三笠書房)より)
この「78対22の定義」は、何にでも応用できるそうなので、研修医のみなさんも、まずは「78パーセントの研修医」を目指してみてはいかがかしら。
ブルースライド(左)と白黒スライド(右)。
今となっては遺物ですね。
No.45
2023年9月4日月曜日
先日、『ディスカバービートルズⅡ』というラジオ番組を聞いていたら、「ビートルズはルールを前向きに壊していたグループだ」という表現が、ホストの杉真理さんの口から出てきて、面白いと思った。ゲストは俳優の安田顕さんだったが、二人でビートルズの音楽について語り合っていたときに出てきた言葉だった。
杉真理さんが「伝統をちょっと違う風にしようというときには、伝統に反対するだけではなくて、伝統の良さがわかっていなければ壊せない」と言うと、ゲストの安田顕さんは「ビートルズサウンドは受け入れて違うものを作っている。ビートルズという濾過器は、いろんなサウンドをゴッタゴタに入れて抽出するとビートルズにしかなしえないビートルズという液体ができてくるような気がする。伝統を受け継いだときに伝統を伝えるだけでなく、新しいものを生み出していたような気がする」と受けていた。
この二人の会話を聞いていて、大蔵流狂言師の故二世茂山千之丞さんからいただいた色紙を思い出した。そこには、「伝統 それはそれを超えていくもののためにのみある」とあった。いただいた当時は、この意味がよく飲み込めなかったが、ビートルズの音楽の話を聞いていて、その意味がようやく飲み込めた気がした。
医学では、EBM(Evidence Based Medicine)といって、根拠に基づく医療をするようにと指導される。これがいわば伝統だろう。エビデンスを知らずに治療したり、わざとかっこよく振る舞おうとしてエビデンスを無視するのはいけない。しかし、そこに止まって、エビデンスに従っていれば、たとえ患者がよくならなくても許されるなどという、エビデンスを免罪符的に使っていては、医学の発展もないだろう。エビデンスを重んじつつも、個々の患者にあった対応を考えていってこそ、エビデンスを超えていけるのかもしれないな、とお二人のビートルズ談義を聞いていて考えた。
ぼくが初めて茂山千之丞さんを観たのは、中学生時代。体育館の舞台で『武悪』を演じてくださった時だった。当時は、京都の茂山家狂言師は全国の中学高校を巡回して狂言を演じておられた。大学生になって、毎回のように市民狂言会を観に、観世会館まで足を運んだ。茂山家の中でも千之丞さんは常に新しいことを追求しておられたように思う。
No.44
2023年8月31日木曜日
縁日の焼きそばは、最初に豚肉とざく切りしたキャベツを炒め、そこに麺をのせて、焼きそばソースをかける。大きな鉄板の上で、両手にコテを持って豪快に混ぜていく様子は、見ているだけでよだれが出てくる。個別に盛ってかつおぶしをふりかけ、紅しょうがを添えればでき上がり。
小児科研修医時代に、看護師のニシムラさんと、「焼きそばの麺は、調理する前に洗うか洗わないか」で議論したことがある。ぼくは、「洗わない派」だった。焼きそばの麺の表面には油がついているので洗わなくていいと思っていたのだ。でも、確かに麺を軽く洗ってほぐした方がソースの馴染みがよいので、今は炒める前に軽く洗っている。
五条通り沿い、JR丹波口駅近くにお好み焼き・焼きそばのふくいという店があった。(残念ながら、ふくいは2020年に閉店しました)ふくいでは、麺と具を炒めてから、最後に細く千切りにしたキャベツを鉄板に置き、その上から麺をかぶせるようにしてしばらくキャベツをむらしてから混ぜる、という作り方をしていた。こうすると、キャベツのシャキシャキ感が残っていてなかなかうまい。この作り方を知ってからは、キャベツは最後に投入している。
最近、焼きそばの具と麺を別々に炒め、それぞれに味付けをしてから仕上げに混ぜる、という作り方をテレビの料理番組で知った。確かに具がエビやイカなど海鮮類のときは、具を炒めてから麺を入れると、海鮮類が硬くなり過ぎて、プリプリ感が失われてしまうので、炒めた具を皿にあげて、フライパンで麺が温まったら一気に混ぜる方がよい。(もちろん、キャベツは千切りにして、麺をかぶせてむらしてから混ぜる、ふくい流です)ソースは市販の焼きそばソースでは物足りない(実際、焼きそばソースを切らしていることもある)ので、ウスターソースや焼き肉のたれ、だし醤油などを適当に混ぜて使っています。(毎回味が変わるのも自分で作る醍醐味?ですかね)
それにしても、インスタント焼きそばは焼かずに湯でほぐすだけなのに、なぜ「焼きそば」と呼んでいるのだろう。
No.43
2023年8月28日月曜日
ゴンチチ/GONTITIというギターデュオをご存知だろうか。NHKFMで『世界の快適音楽セレクション』という番組の案内役をしており、毎週お二人の軽妙なトークが聞ける。ゴンチチというのは、ゴンザレス三上さんとチチ松村さんの名前をつなげて作ったものだ。ゴンチチと聞くたびに、ぼくはバンドーさんという一人の人物を思い出す。
ゴンチチのお二人は、当初サラリーマンをしながら演奏活動をしていた。バンドーさんは、チチ松村さんと同じ高校だったか何かで、アルバムデビュー前からゴンチチをご存知だったようで、無名のころからいわゆる「おっかけ」をしていた。バンドーさんとは、Kさんというぼくの友だちを介して知り合いになった。守口市(だったと記憶しています)で開かれたゴンチチのコンサートに二人を誘ってくれたのが、ゴンチチとの最初の出会いだった。当時は、ゴンザレス三上さんは舞台ではほとんどしゃべらず、黙々とギターを弾いており、MCはほぼチチ松村さんがしていた。大阪弁の柔らかい口調の、ユーモアあふれる話ぶりは好感が持てたが、その柔らかな口調にはバンドーさんと共通するものがあったように思う。
バンドーさんは、京大病院の清掃業務に従事していた。いちばん若かったが、清掃メンバーのまとめ役だった。会ったときにはいつも、「おじちゃん、おばちゃんをまとめるのは大変やわ」と嘆いていたのを思い出す。
その後ぼくが医学生となったとき、バンドーさんは食道がんになり手術を受けた。Kさんと一緒に病棟へ見舞いに行ったときは、化学療法の影響だろうか、頭に髪の毛がなかった。それでも、高カロリー輸液のバッグがぶら下がった点滴棒を押しながら、いつものように軽い口調で応対してくれた。その次にKさんから連絡が来たのは、バンドーさんの葬儀のときだった。会葬者は少なかったが、そういえばバンドーさんのご家族のことについて、ぼくは何も知らなかった。フィアンセがいたとは聞いていたが、葬儀場にそれらしき女性の姿はなかった。
バンドーさんが亡くなってから30年以上も経つのに、今でもゴンチチと聞くと、彼のことが自然と思い出されてきます。
ゴンチチのファーストアルバム『Another Mood』を久しぶりに聞きました。
No.42
2023年8月24日木曜日
ぼくが研修医だった頃の小児病棟には、他科の小児患者が入院することもあった。
整形外科の患者で、股関節の疾患(病名は覚えていない)で、歩くときはいつも松葉杖を使っていた、小学校3年生か4年生くらいの女の子がいた。彼女は、小児科の入院患者と一緒に小児病棟の4人部屋に入院していた。整形外科の主治医は、手術と外来と整形外科病棟回診の合間をぬって小児病棟に来なければなかったので、夏の夜空の流れ星くらいにしか彼女の前に姿を見せなかった。
ぼくが担当している患者の様子を診に、その部屋に出入りしている内に、最初は距離を置いていた整形外科の女の子がだんだん近づくようになってきた。当時、ぼくは、入院している子どもたちにマンガを描いて、子どもたちの退屈をまぎらわしていた。整形外科の女の子にも同じように描いてあげていたと思うのだが、覚えているのは、いつの頃からか彼女が、白衣から出たぼくの腕に爪を立てるようになったことだ。細い指だけど、思い切り爪を立ててひっかかれると血が滲んできた。彼女が「痛い?」と聞くので「痛いよ」と答えたが、ぼくは腕を引っ込めることをせず、ひっかかれるままにしていた。女の子は、ぼくの腕をひっかくことで、何かを訴えようとしていたようにも感じられたが、よその科の患者だし、中途半端に首を突っ込まない方がいいのではないかと思って深入りはしなかった。もしも、二人きりで話せていたら、彼女の心の声が聞けたのかもしれない。しかし、ぼくの腕に爪を立てた理由は分からぬまま、彼女は松葉杖をついて退院して行った。
電車の向かいの席で、涙を流している女の人を見かけたとき、その人の苦しみを全部背負う覚悟がなければ声をかけるべきではない、という話をどこかで読んだことがある。整形外科の女の子を前にした当時のぼくには、彼女の苦しみを全部背負うだけの勇気も余裕もなかったのだと思う。今なら全部背負えるのか、ですって?う〜む、今でもやはりできないのではないかと思います。苦痛に寄り添っているような顔をしていながら、どこかで逃げ越しになっている自分は、きっと偽善者なのでしょうね。
人の心すらわからない。いわんやネコの心においてをや。
No.41
2023年8月21日月曜日
オリンピックなどを見ていると、日本の選手が出ている競技を中心に報道されるので、ぼくたちにとっては「おお、日本はがんばっとるな」という感覚になってくる。ノーベル賞の報道にしても同様で、日本人がノーベル賞をとるかとらないかが取り沙汰されている。
しかし、世界の中で見ると、日本は取るに足りない存在なのだなぁと思い知らされることが、しばしばあるようだ。
一時期、NOVAという英会話学校に通っていた。そこでフリーカンバセーションの時間があった。講義をもっていない講師が生徒と適当な話題でおしゃべりをするような場だが、ここでオーストラリア人の講師が相手だったと思うのだが、「日本人でノーベル賞を取った人はいるのか?」という話題になったことがある。「いる」と答えたら、「何人いるのだ?」と聞かれたが、正確な人数を答えられなかった。とにかく、ニュアンスとしては、日本人にノーべル賞を取った者などいないのではないのか的な雰囲気の聞き方だった。湯川秀樹や朝永振一郎の名を挙げたが、講師はいずれの名も知らなかった。
もっとショックだったのは、日本という国を知らないドイツ人がいたことだった。ドレーゲルという麻酔器などを販売する企業に招待されて、デュッセルドルフの機器展示会で二日間スピーチをする機会があった。このドレーゲルという会社の本社が、北ドイツのリューベックという街にあったので、展示会の後、リューベックの本社へ案内された。そこに、20歳代のウェーブのかかった赤毛のロングヘアの女子社員がいたので、彼女に話しかけてみた。そのとき驚いたのは、彼女は日本がどこにあって、どんな国かということをまるで知らなかったという事実だった。
ぼくだって、ブルキナファソ出身の神父さんが京都に来られるまでは、ブルキナファソがどこにある国でどんな国かということは、ほとんど何も知らなかった。だから、海外に行って日本を知らない女の子に出会っても、あまり驚くことではないのかもしれない。
あることを知っているかどうかは、空間の隔たりばかりでなく、時間の隔たりも影響することがあるかもしれない。ハタ坊を知っている研修医の先生は、はたしてどれくらいおられるのだろうか?
No.40
2023年8月17日木曜日
映画の中で、ここだけは見逃してはならないという場面というのがある(こともある)。
ジェームズ・キャメロン監督『タイタニック』(1997年)では、ローズ(ケイト・ウィンスレット)がブルーダイヤのネックレスひとつだけを身につけて、ジャック(レオナルド・ディカプリオ)にスケッチされる場面は、そのひとつかもしれない(もちろん異論はあるでしょうが)。M先生は、この少し前に、トイレに行くために席を立ち、見逃してはならないこの「大事な場面」を見逃したという。映画の舞台が海の上だったので、やたら水のシーンが多く、「水ばかり見てたらもよおしてきた」と言い訳していた。
M先生は、整形外科医で麻酔科研修をしていた頃から懇意にしていた。ニコラス・ケイジをちょっと太めにしたような感じの先生で、個人の整形外科医院の二代目だった。実は、彼は外科当直のときにも「大事な場面」を見逃していた。彼が当直の夜に、事故で腕をケガした人の神経縫合の臨時手術が入った。何本か神経が切れているので、顕微鏡を使う、神経を集中しながらの、根気とかなりの時間を要する手術になった。
このとき、救急隊から「20歳の女性の手のケガを診てもらえますか」との問い合わせが救急室に入った。しかし、当直だったM先生は手術中で救急外来に出向くことができず、外科救急はストップされていたので、他の病院を受診してもらうようにと、お断りをした。
ところが、この女性、誰もが知っている有名な女優さんであったことが翌日判明して、M先生は他の男性医師(複数)から「何でそんなときに神経縫合なんかしてたの?」と非難の嵐にさらされてしまった。
若い頃は、「大事な場面」を見逃していたM先生だったが、今はお父さんの病院を継いで、立派な院長先生となっておられます。もちろん、それ以降、「大事な場面」を見逃したという話は聞いていません。
タイタニック号には、万が一にそなえて乗船客を乗せるための救命ボートが十分に備え付けられていなかったとのこと。本当に見逃してはならなかったのは、ケイト・ウィンスレットの裸身ではなく、「絶対に沈まない船はない」という経験則だったのかもしれませんね。
No.39
2023年8月14日月曜日
藤岡陽子さんの新作『リラの花咲くけものみち』を読んだ。
藤岡陽子さんは、2009年に『いつまでも白い羽根』でデビューして以来、毎年のように小説を発表している。デビュー作では、看護学生が成長していく姿が描かれているが、これは彼女自身の体験に基づいて書かれた小説だった。最新作の『リラの花咲く』では、獣医学部に入学した女性の成長が描かれている。彼女の小説に登場する主人公たちは、困難にはばまれるが、それを何とか克服しようと一所懸命に生きているので、つい「しっかり!がんばって!」と応援したくなってしまうのだ。
『リラの花咲く』の主人公の女性、岸本聡里(さとり)は、幼いころに母親を亡くす。父親が再婚した継母に、家具やインテリア雑貨を売り払われ、タオルや鍋やフライパンなどの調理器具まで買い替えられ、実の母親の思い出を次々に消し去られていく。最後の思い出の愛犬まで捨てられそうになったとき、この愛犬を守るため、聡里は家にこもった。そのため、中学時代は不登校になってしまう。しかし、祖母チドリに引き取られて、彼女は徐々に立ち直っていく。元来動物好きであった聡里は、チドリに励まされて北海道の大学で獣医学を学ぶようになる。ところが、動物に金を使いたくないという人のエゴや、ときに獣医として動物の命を絶たねばならないという厳しい選択を迫られる場面に立ち合い、単に動物が好きというだけでは獣医にはなれないのだということを学んでいく。
医学部で対象としている動物は、幸いヒトという種だけなので、さまざまな種を扱う獣医学部と比較すると単純と言えるかもしれない。ただ、動物の場合は飼い主の同意だけで事足りるだろうが、ヒトの場合は本人への説明や同意を必要とする場面がめっぽう多いので大変だなぁとは思う。
以前、旭川で開催された臨床麻酔学会の特別講演で、獣医麻酔科医の先生の話を聞いたことがある。使っている麻酔薬は、純度が違うだけで、ヒトに使う吸入麻酔薬や静脈麻酔薬と同じ。しかし、対象は、小さな鳥や犬猫の小動物から馬や牛などの大動物までさまざまなので、麻酔薬の量も大いに違う。競争馬の麻酔では、倒れたときに骨折してはいけないので、馬を骨折させずに倒す「倒馬法」まで体系化されているのには驚いた。
No.38
2023年8月10日木曜日
今回は、トイレの話なので、食事中の方は読まないでね。
ぼくが学生のころ、大学の男子大便用トイレの壁には落書きが多かった。それが、近ごろはトイレの落書きがかなり減ったような気がする。なぜだろうと考えていたところ、これはスマートフォンの発達とSNSの普及が影響しているのではないだろうかという仮説を思いついた。
小便と違って大便の用を足すときは、両手がフリーになる(あくまで男性の場合ですけど)。しかも、個室で誰にも邪魔をされることなく、文字通り腰を落ち着けて一定時間を過ごせるので、その間に落書きを完成させることができるわけだ。
落書きの中には、けっこう記憶に残る面白いものがある。「神に見放されたら、自らの手で運をつかめ」これは、神=紙(トイレットペーパー)、運=うん○とかけた言葉だと思われる。「人は排泄の喜びを知っている故に神にはなれない」と、何だか哲学的な落書きもあった。極めつけは、以前、鶴瓶さんがトークで紹介していたトイレの落書きです:目の前の壁に「右を見ろ」とあるので、右の壁を見ると「左を見ろ」と書いてある。左の壁を見ると「後ろを見ろ」。体をひねって後ろの壁を見ると「上を見ろ」とあるので、天井を見上げると、「便所の中でキョロキョロするな」と書かれている。やられた!
こうした落書きは、個人のメモでも独り言でもない。明らかに誰かに読まれることを想定しているようだ。SNSが普及してからは、誰もが発言・発信の場を手に入れたので、わざわざ不特定多数の他人に対して落書きで発信する必要性がなくなったのではないだろうか?あるいは、トイレの中でもスマホの画面を見つめるようになり、落書きに時間を割けなくなったのだろうか?いずれにしても、トイレの落書きの減少とSNS普及の間には、何らかの関係がありそうな気がするのだけど、いかがかしら?
「後ろを見ろ」という落書きより「後ろを見るな」という落書きの方がこわい気がします。
No.37
2023年8月7日月曜日
学会出張に出かけたときや休暇をとって旅行に出かけたときには、病棟や医局に土産を買って帰ることが多い。この土産がなかなかむずかしい。
病棟への土産にしても医局への土産にしても、いちばん大事なのは味や珍しさよりも、やはり「数」であろう。いくらおいしそうなお菓子でも「5個入り」では、お菓子があたらなかったスタッフから恨みを買うことになりかねない。
横浜で学会があったとき、一緒に行った後輩研修医が、横浜の病院で働いている大学時代の同級生から土産を託されたことがあった。その同級生の兄がぼくたちの病院の整形外科で働いていたので、「自分の兄貴へ土産を届けてくれないか」と、その同級生は後輩に土産をあずけたわけだ。菓子ではなく、額に入った絵か何かでけっこうかさばっていたようだった。後輩は、「あいつは学生時代からちょっと変わった奴だったんです」と優しく弁護していたが、これでは、まるで宅配便の肩代わりにされたようではないか。
ぼくは、このように土産を託されたことはなかったが、土産を指定されて困ったことがある。東京で学会があったとき、麻酔科で留守番役をしていた同僚から「舟和の芋ようかんを買ってきて。大丸東京店にあるから」と店と品名を指定されたのだ。同僚は留守番係で気の毒だなと思ったので、ぼくは芋ようかんを買って帰ることにした。しかし、これが大変だった。
ぼくは大丸東京店には行ったことがなく、まず、それがどこにあるかから調べなければならなかった。まだ、スマホもない時代だったので、本屋に立ち寄って東京23区の地図を広げて場所を調べた。何とか大丸東京店にはたどりつけたものの、初めての店舗だったので、今度は食料品売り場で舟和の店舗がなかなか見つけられなかった。帰りの荷物を引きずりながら混雑した百貨店内をうろつきまわり、ようやく芋ようかんを手に入れることができたのだが、学会帰りにヘトヘトになってしまった。安易に人に土産をたのむものではないな、というのがそのときの教訓だった。
東京大丸店フロアガイドマップ
No.36
2023年8月3日木曜日
クックパッドにもクラシルにも載っていないので、コーヒーバスクチーズケーキのレシピを紹介しておきます。
【材料】
クリームチーズ 200g
生クリーム(35%程度のもの) 200mL
コーヒー豆(深煎り) 軽量スプーン1杯(8〜9g程度)
グラニュー糖 70g弱(糖質が気になる人は減らしても可)
生玉子(全卵) 2ケ(中くらい55g/1個程度)
小麦粉またはコーンスターチ 大さじ3/4
【作り方】
オーブンペーパーの敷き方といい、材料をただ混ぜて焼くだけという作り方を見ると、このレシピはバルのオヤジが考えたのではないかと思えてきます。街で、黒くなるまで焼いたバスクチーズケーキを見かけますが、これでは苦くなります。ぼくはこの程度の焼き上がりにしています。
No.35
2023年7月31日月曜日
どちらかと言えば、ぼくは料理が好きな方である。得意というのではない。まったくの我流だが、いろいろ試して作るのがけっこう好きなのだ。外食しておいしい料理に出あうと「これは自分で作れるかしら?」などと考えてしまう。
JR二条駅の近くにカ・デル・ヴィアーレというイタリア料理店(リストランテ)がある。この店の渡辺シェフは気さくな方で、料理について質問するといろいろと教えて下さる。一度、デザートで真っ白なババロアを食べたときにコーヒーの味がしたのに驚いて、「どうして真っ白なのにコーヒーの味がするのですか!?」と、感嘆符と疑問符をつけてたずねたことがあった。すると、「生クリームにコーヒー豆を漬けてひと晩置いたものでババロアを作ると、コーヒーの味(というかフレーバー)がするのですよ」ともったいぶることもなく教えて下さった。
その後、ババロアは作らなかったが、バスクチーズケーキに応用してみた。深煎りのコーヒー豆を豆ごと生クリームに漬けてひと晩置き(漬けすぎると生クリームが固まって豆に付着します)、プレーンのバスクチーズケーキと同じ手順で作ると、見た目(色合い)はまったく同じなのに、コーヒーフレーバーのバスクチーズケーキができ上がる。これまで、家族やご近所さんや病棟の看護師さんたちにも食べてもらいましたが、プレーンのバスクチーズケーキよりも好評でした。
で、こんな話は研修医生活とは何の関係もないじゃないかと言われそうですが、そうなんです、関係ありません。以前、麻酔科で、米国に留学する先生の送別会をカ・デル・ヴィアーレでやったことを思い出していたときに、そう言えば渡辺シェフから「コーヒー豆を漬けた生クリーム」のことを教えてもらったなぁ、と思い出の連鎖があっただけです。ただ、このときの送別会、「上品な店だし、みんなあまり飲まないだろうな」とたかをくくり、飲み放題メニューにしなかった。ところが、研修医も看護師さんたちも飲むわ飲むわ…みな遠慮せずにワインを注文したものだから、大赤字になってしまった。なので、ぼくにとっては思い出したくないエピソードのひとつになっているのです。
カ・デル・ヴィアーレの料理が素晴らしいだけに、飲み放題のワインでいただいたのでは、やはりもったいない気がする。おいしい料理にはそれにふさわしいワインを飲みたいと思うのは、人の心の正常な反応なのかもしれないな。
No.34
2023年7月27日木曜日
Y先生が麻酔科研修にローテートしてきたときは一児の母だった。彼女の最初の妊娠は医学部6年生のとき。ちょうど臨月で医師国家試験を受けることになり、彼女は別室で試験を受けたそうだ。初期研修は出産のために少し遅れてスタートとなり、幼児をかかえながらの麻酔科研修となった。Y先生はほっそりとした、押しつけがましくない美人で、いつもさわやかな笑顔をたたえていた。夜泣きされたり、子どもが病気になることもあったに違いないだろうが、子育てで疲れた姿を、麻酔科研修中にぼくは見たことがなかった。
内科に進んだY先生は、そのまま初期研修を終えた病院にとどまり、いつの間にか「禁煙外来」を一人で立ち上げていた。ナースに聞くと外来の準備や何やかやと、ほとんど一人で働いていたとのことだった。ぼくも、WHOの世界禁煙デー(毎年5月31日です)のパネル展示の準備を、一人でされていたY先生を見かけたことがある。彼女は、診療が終わった夜の病院のロビーで、喫煙で真っ黒になった肺の病理標本の写真パネルを抱え、いつもの笑顔であいさつをしてくれた。
彼女は総合内科の専門医をとるための受験をしたが、このときも子どもをみごもっていた。「何でいつも試験のときなんでしょうね」といつものさわやかな笑顔で話していた。彼女は、今は大学院で糖尿病の研究をしているとのこと。Y先生のチャレンジはまだまだ続きそうだ。
幸福学の研究をしている前野隆司氏は、人が幸せになる四つの要素を挙げている。「やってみよう!」というチャレンジ精神で臨み自己実現していく。「なんとかなる!」という前向きで楽観的な考えで苦労を乗り超える。「あなたらしく、ありのままに!」という独立とマイペース。そして、「ありがとう!」と周りに感謝して紡いでいく人とのつながり。Y先生の行動をみていると、これら四つの要素を、おそらくは無意識のうちに実践されているのだろうな、と思う。だから、いくら子育てや研究や臨床で忙しくても、彼女はきっと幸せに違いない。
小児麻酔科医
『ユーモア麻酔学』というちょっとおバカな(失礼、ユーモアのある)教科書があった。その中に、幼児が麻酔器の前で、右手に喉頭鏡をもっている「小児麻酔科医」と題する写真がある。もちろん、小児麻酔という専門分野と子どもが麻酔科医をやってますよというのをわざと間違えているわけだけど、ぼくはこの写真が大好きです。
No.33
2023年7月24日月曜日
手術室ではときに大量出血症例に遭遇する。麻酔科研修をしていたH先生が担当していた症例で大量出血したことがあった。こんなときには、いずれ輸血が必要となることが多い。血液製剤は冷蔵庫で保存されているが、ゆっくり室温にもどす余裕がないので、オペ室では特別の加温用回路を組んで、加温しながら輸血をする。ゆっくり輸血をしていたのでは大量出血に対応できなくなるので、20ccくらいの注射器を使って、人の手で静脈内投与することもある。(これを「ポンピング」と呼んでいたが、後に急速輸血ポンプというのが導入されて、「ポンピング」は過去の語りぐさとなった)
輸血は血液型と製剤番号をチェックし、適宜血液検査もし、副作用の出現にも目を配り、等々けっこう大変な労力を要する作業だ。この作業のコントロールは通常、麻酔科医が行っている。術者は術野に集中しているので、輸血にまで意識を向けられないのだ。
大量出血のときには、大勢のスタッフが集まってくるが、血液製剤をチェックする者、輸血製剤や点滴ボトルを交換する者、記録をする者、検査室に検体を運ぶ者、等々それぞれの力量に応じて各自が手伝う場を見つけるものだ。そんな中で、初めて大量出血を経験した研修医のH先生は、麻酔記録を書くのも忘れて雑踏の中の消火栓みたいに直立不動で立ち尽くしていた。後で話を聞くと、彼はそのとき「頭が真っ白になっていた」のだそうだ。
H先生は独学でアラビア語を学び、アラビア語の読み書きができた。そして、彼の夢は、将来『国境なき医師団』で働くことだった。『国境なき医師団』のメンバーになると、場合によっては、戦地に赴き劣悪な条件下で医療を展開しなければならないこともあるに違いない。大量出血に出あって消火栓となっていた彼に、果たしてそのような過酷な医療が担えるのだろうか、と当時いささか不安に思ったが、その志には感服していた。
彼は後に整形外科医となったが、残念ながらその後の消息を知らない。『国境なき医師団』に参加できたかどうか、会う機会があったらたずねてみたい。
国境なき医師団(MSF)は、世界約90カ国の国と地域で活動する、民間で非営利の医療・人道団体です。紛争や自然災害、貧困などにより危機に瀕した人びとに、独立・中立・公平な立場で緊急医療援助を届けています。活動実績が認められ、1990年にノーベル平和賞を受賞しました。[国境なき医師団ホームページより]
No.32
2023年7月20日木曜日
どこの病院でも幽霊にまつわるエピソードはあるものだ。
小児科研修医時代に、こんな話を聞いた。深夜勤の看護師さんが仮眠をとる処置室の処置用ベッドで寝ていると、子どもの泣き声がどこからともなく聞こえることがあったそうだ。もちろん、入院患者の泣き声ではない。小児科病棟の処置室は、泣く子を押さえつけて、採血したり髄液穿刺をしたりする部屋だったので、そこで亡くなった子はいないはずだが、病棟で亡くなった子どもの幽霊がこの部屋に留まっていたのだろうか?
緩和ケア病棟では、亡くなる患者さんが多いせいか、いろんな幽霊譚を聞く。死亡退院して誰もいないはずの病室から深夜帯にナースコールが鳴り響いた。緩和ケア病棟が4階にあった頃、深夜に1階からエレベータが上がってきて4階に止まり、扉が開いたが誰も降りて来なかった。同じく4階の病室にいた患者さんが夜中に「ぎゃーっ」と大声をあげたので見に行くと、「窓の外に着物を着た男の人がいた」と言って震えていた。その病室から三つほど離れた病室で、その少し前に患者さんが亡くなっていたが、彼はいつも着物を着ていた。もちろん、大声をあげた患者さんと亡くなった患者さんとは面識はなかった。等々
ぼく自身には、こんな経験がある。夜中に自分自身の携帯電話がブルルブルルとバイブで鳴ったので電話をとった。が、着信はなかった。これが立て続けに二度あった。次の日、病棟に行くと担当していた患者さんが前夜に亡くなっていた。それは、例の着信のないバイブのエピソードのあった少し後の時刻だった。
たいていの幽霊は人の目に見えないらしい。『レキシントンの幽霊』も部屋の中でパーティをするようなにぎやかな音を出していたが、ついぞ扉を開けなかった著者の村上春樹氏は、結局彼らの姿を見ていない。座敷わらしも子どもの気配や声がするだけだ。幽霊は目に見えるほどのエネルギーを持たないのだろうか。とすると、緩和ケア病棟に入院していた患者さんが見た着物を着た男の人は、かなりエネルギッシュな幽霊ということになるのだろうか。
「うらめしや〜」
学生の頃にこんなひとコマ漫画を描いた覚えがある。幽霊が釘にひっかかって逃げられなくなった、というつもりで描いたけど、今思うとこれは日本の足のない幽霊を知っている人しか笑えない絵だな。それにしても、入院患者さんが見た幽霊には足があったのだろうか?
No.31
2023年7月13日木曜日
クランボルツのキャリア論のことを書いていて、自分自身の来し方を思い返した。
大学を出ると、当時は大学の医局に入局するのが通例だったので、ぼくは小児科に入局した。ただその年、小児科の入局者が多かったので、最初から外部病院で研修をする者を2名募ることになり、ぼくとI先生が市中病院に出た。そこで2年の初期研修を終えると大学病院に戻る予定であったが、ぼくは外部研修をした病院にそのまま残り、麻酔科研修を続けることにした。ところが、あくまでぼくは大学病院の小児科に入局していたので、大学側からすれば大学の医局人事で外部研修をしているという立場だった。だから麻酔科に進路を変更するには、大学の医局を離れなければならなかった。
3年目の行先を決める相談が始まる頃、ぼくは小児科の教授室で進路変更したいと切り出した。これにはかなり勇気がいった。そのときに教授が言った言葉で覚えているのは、「将来就職の世話はしないからな」ということだけだった。なるほど、医者は医局に忠誠を尽くすことで、将来の就職先が保証されているのかと納得したが、突き放すような言い方をされたときは、崖から突き落とされたトリケラトプスが頭に浮かんだ。
もうひとつショックだったのは、市中病院の小児科部長に麻酔科に進路変更することを相談したときに、「医者の本道からはずれるのか」と言われたことだった。なるほど、医者の本道は内科・小児科だったのかと納得したが、励まされるのを期待していただけにちょっとさみしく思った。
麻酔科から緩和医療に進路変更するときは、当時の麻酔科部長から、「もともと、お前の居場所はここにはないぜ」的な言い方をされたが、品のない部長だったので、この時はあまり傷つかなかった。
このようにフラフラしながらキャリアを積んできたわけだが、今でも医者として働いている。確固とした目標を持たずに生きてきたが、ぼくとしては求められる場所で精一杯働いてきたつもりだ。もちろん、今でもこうしてブログを書いて若い研修医諸君を励ましている、と信じているけれど…先日まで緩和ケア病棟で研修していた先生に聞くと「読んでませんでした」だって。みんな忙しいから仕方ないか。
崖から落ちたトリケラトプス。ほんとにこんな絵が頭に浮かんでいましたね、あの時は。
No.30
2023年7月10日月曜日
小児科研修医時代、2年目となったときに1年下に新しい研修医がやって来た。彼は、ちょっとずんぐりとした背格好で、髭も濃いし、どちらかというと無骨な感じの研修医だった。その彼が、病棟の看護師さんたちを誘って夏の琵琶湖の花火大会に出かけたので驚いた。彼は学生時代ヨット部に所属しており、琵琶湖にヨットを浮かべて花火を見ませんかと誘ったらしかった。悔しいが、ぼくは剣道部で同僚のI先生はハンドボール部だったので、そのようなロマンチックな誘い方はできなかった。(「一緒に掛かり稽古しない?」とか「みんなでシュート練習しようよ」と誘って、乗ってくる女性はめったにいないだろう)
彼は医学部に入ったときに、将来病院に勤めたアカツキには琵琶湖の湖面にヨットを浮かべて看護師さんと花火を見ようと考えてヨット部に入ったのだろう。(きっと、そうに違いない、と思う)このように将来の目標を明確にしてキャリアを積んでいくという考え方が一般的であろう。たとえば、将来教授になるために、留学して箔をつけたい、留学するため英語力を養うべくTOEFL、TOEICで高得点を目指そう、そのためには学生時代はESS部に入っておいた方が有利かしら云々といった具合に。
これに対して、「キャリアというものは8割が偶然の要素によって左右されるので、偶然に対してポジティブなスタンスでいる方がキャリアアップにつながるのだ」というキャリア形成の考え方がある。これをプランドハプンスタンス(Planned Happenstance)理論という。1999年にスタンフォード大学のクランボルツ先生が提唱した理論だ。
初期研修においても、将来の目標=「夢」をかっちりと決めてしまうと、その「夢」からはずれたトレーニングには力を注がなくなってしまう恐れがある。ぼくが見てきた研修医の中に、麻酔科研修にローテートして来て、わざわざ短い研修期間中に、別に急ぎでもない自分自身の鼠径ヘルニアの手術の予定を入れて2週間近く休暇をとった先生がいたが、彼のキャリア形成にとっては、麻酔科研修などおそらくあまり意味のない時間だったんだろうな。とまれ、「偶然」を味方につける5つの秘訣は、好奇心、持続性、柔軟性、楽観性そして冒険心なのだそうです。
海老原嗣生『クランボルツに学ぶ 夢のあきらめ方』(星海社新書)
クランボルツ理論を、成功したお笑い芸人とそうでない芸人に当てはめて検証してみた本。クランボルツ先生の理論そのものの紹介ではないが、目のつけ所がユニークですね。
No.29
2023年7月6日木曜日
ネットで書籍を注文できるようになり、多くの本が電子媒体で読めるようになったので、街の本屋さんがどんどん減ってきた。かつては、四条通りや河原町通りには、たくさんの本屋さんがあった。四条通りの蛸薬師を西に超えたところには、南海書房、河原町通りを上がってすぐの所に京都書院、そこから北へ上がると、西側にはミレー書房、駸々堂、東側には丸善、三条通りを上がるとふたば書房があった。それぞれの本屋の品揃えに微妙な差があって、本屋をはしごするのが楽しみだった。が、すべて無くなってしまった。(丸善とふたば書房は、場所を替えて存続している)
本屋に行くと、欲しい本が手に入るというだけではなく、もうひとつ「思わぬ本に出遭うという楽しみ」がある。いわゆるセレンディピティを期待しているのだ。先日も麻酔科学会の書籍売り場で、まったくマークしていなかった『SKILL』という本を見つけた。著者のクリストファー・S・アーマッドは、ニューヨーク・ヤンキーズのチームドクター長を務めている現役の整形外科医だ。この本で、彼が実践してきた外科手技(スキル)の磨き上げ方を惜しげもなく公開している。手術をうまく成功させるためには、患者の体位からドレープのかけ方ひとつにまで気を配らなければならないという。付き合う方は大変だろうなという気がしないでもないが、それで合併症がなく結果が良好な手術ができるのであれば許容されるだろう。
もう30〜40年早く出会えていたらよかったなと思った本だったので、若い研修医の先生方にお勧めします。内容は整形外科手術に関するスキルの話だけど、他の分野でもスキルを向上させるためには役に立つのではないかと思われる。
クリストファー・S・アーマッド『SKILL』(メジカルビュー社)
米国では「外科医を目指すなら必ず読んでおきたい」と評されるほどの名著であるらしい。腰巻のうたい文句には、「『抜きんでた何者かになりたい』と願う、すべての外科医のためのバイブルである」とある。
No.28
2023年7月3日月曜日
K君と再会したのは、神戸で開催された臨床研修指導医講習会の時だった。彼はN市の市民病院の脳外科部長になっていた。ぼくは講習会のタスクフォースとして、講習会を運営する側の立場だった。
K君とは高校に入ったときに同じクラスで、最初の時間にたまたま席が前後になった。二人とも中学生時代丸刈りで、まだ伸びきらない中途半端な髪型だった。少し受け口で、にらみつけるような目つきをして、陽に焼けた彼の顔はこわそうに見えた。後に互いに話をするようになると、彼もぼくのことをこわがっていたことが分かった。互いに「鬼みたいな奴や」と思っていたことが後で分かり、笑いあったものだ。彼は、見かけによらずユーモアのセンスがある男だった。
彼はぼくより小柄だったがタフガイで、高校3年間は柔道を続け、卒業してから神戸大の医学部に進み、脳外科医になった。N市民病院は年間400件以上の脳外科手術があり、大学病院よりも多忙なので、研修医からは「虎の穴」と呼ばれて、恐れられていたそうだ。その多忙な業務の中で、臨床研修指導医の資格を取るために、彼はぼくがタスクフォースをしていた講習会に参加したのだった。講習会は二泊三日の合宿で開催されたが、課題が盛りだくさんで彼とゆっくり話をする余裕はなかった。しかし、ワークショップで、ユーモアを交えた発表をして会場を湧かせていた彼の姿が印象に残っている。
後日、彼はN市民病院の副院長となり、脳外科をしながら研修医の指導に当たっていたようだ。高校同窓会の連絡網で、K君が亡くなったと知らされたのは、臨床研修指導医講習会で再会してから数年後だった。朝、通勤途中で交通事故に遭ったらしい。にわかには信じがたい知らせだった。…K君がこの世からいなくなってしまったなんて、まるで、さそり座からアンタレスがなくなってしまったようだった。
ぼくがK君と出会ったころ、ブリティッシュハードロックバンド、ディープパープルが『ハイウェイスター』をリリースした。彼とは音楽の話をした記憶は一切ないが、彼の生き様は、まさにあの曲のような勢いを感じさせる。『ハイウェイスター』の歌詞にこんな箇所があった。「あぁ、俺はまた天国にいる。俺はすべてを手に入れた。目の前に開けた道と一切合切を」天国でもK君は走り続けているような気がする。
No.27
2023年6月29日木曜日
当院副院長のT先生はビートルズファンである。先日、T先生は赤穂にある「ビートルズ文化博物館」を訪れた。ぼくは、ビートルズ日本公演の入場券のレプリカをT先生から土産にいただいた。ビートルズが初来日したのは1966年6月29日だったが、これを記念して6月29日は「ビートルズ記念日」となっている。
若い研修医の先生方には想像がつかないかもしれないが、ビートルズが来日した1966年当時の日本では、「男が髪の毛を伸ばし、エレキギターを弾くのは不良だ」と言われ、NHKの歌番組に長髪のミュージシャンが出演できない時期があったのだ。
ぼく自身はビートルズに関してはオクテだった。中三のとき、音楽の作曲の宿題で、友だちのフクダくんが「ビートルズのサムシングをパクってん」と言っていたが、ぼくは原曲を知らなかった。ビートルズを聴き始めたのは、彼らが解散してから発売された、今でいうベストアルバム、通称『赤盤』『青盤』からだった。それからは、ぼくは『赤盤』『青盤』のレコードを来る日も来る日も聴いていた。
『アビーロード』のアルバムジャケットは、レコードを出し入れし過ぎて、今では「底」が抜けてしまったが、高三のとき、このアルバムを買ってまもなく、友だちから「貸してくれ」と言われたことがあった。(ふつう買いたてのレコードを貸してくれなんて言わへんやろ)と思いながらも、ぼくは『アビーロード』を彼に貸した。手元に返ってくるまでの二週間くらい、キズがつかへんやろかとドキドキしていたことを覚えている。その友だちは、大学入学後、理学部で数学を研究し、今から十数年前に「イグノーベル賞」を受賞している。買ったばかりのレコードでも何のためらいもなく借してくれと言える彼は、やはり凡人ではなかったようだ。
『WITH THE BEATLES』のジャケットデザインを模写してみました。ビートルズは黒人音楽の影響を受けたと公言しているが、今振り返ると、顔の左半分が影で黒くなっているのは、そのことを主張していたのだろうか。
No.26
2023年6月26日月曜日
麻酔科研修でローテートしてきたI先生は、麻酔科研修の最終日に体調を壊してしまった。最後に当たった麻酔症例を、どうしても自分で担当したいと言って、点滴をしながら麻酔をかけていた姿が記憶に残っている。彼は趣味でバイオリンを弾いていたが、その年の手術室の忘年会では、「流しのバイオリン弾き」で登場し、エンターテイナーとして場を盛り上げてくれた。彼は後に血液内科を専攻し、最終的に血液内科の部長となった。バイオリンの練習も欠かさず続け、やがて市民管弦楽団のコンサートマスターを務めるまでになった。
それだけの実力者となっても、彼は院内コンサートや、血液内科病棟の隣にあった緩和ケア病棟などで、楽団の仲間と一緒にボランティアの演奏会を開いていた。
当院の緩和ケア病棟でも、コロナ禍になる以前には、病棟のデイルームでボランティアの合唱やピアノの演奏会などが催され、入院中の患者さんたちのこころを和ませていた。
ふだんはドイツで活動されている、京都出身のフルート奏者、廣岡マルリサ由樹子さんが訪れてくださったことがあった。たまたまご実家に戻られていたときに、院内の伝手を頼ってフルート演奏をお願いしたところ、ボランティアとして快くお引き受けいただいた。珍しい古楽器のトラヴェルソ・フルートの演奏も披露された。しかも、ふだんはクラシックばかり演奏されているが、緩和ケア病棟の入院患者さんのために、美空ひばりの曲まで演奏してくださった。
音楽は、時代も地域も超えて人を感動させることができるので、楽器を演奏できることは本当に素晴らしいことだと思う。悲しいことに、ぼくなどはせいぜいホラを吹くのが精一杯だ。
緩和ケア病棟でのフルートコンサート
古楽器のトラヴェルソ・フルートを演奏する廣岡さん
No.25
2023年6月22日木曜日
その店は、病院から北へ5分ほど歩いたところにあった。店の名前は忘れてしまったが、そこにしぐれ弁当というメニューがあった。700円か750円だったと思う。ぼくは、一緒に研修をしていたI先生と、夕食に、このしぐれ弁当をたまに食べに来ていた。しぐれ弁当というのは、四角い弁当箱に入った洋風幕内のようなもので、ご飯に牛肉のしぐれ煮がかかっていた。このしぐれ煮がなかなかうまかったのだ。
あるとき、店に入ると、腎炎で入退院を繰り返す女の子のお母さんが食事をしていた。他のご家族がいたのかどうかをどうしてか思い出せない。患者の女の子が一緒だと覚えていただろうが、ご友人と一緒だったのかご夫婦一緒だったのかを思い出せない。しかし、やや化粧の濃いお母さんの顔はよく覚えている。ぼくたちは、患者のお母さんに会釈をして、奥の席につくと、いつものようにしぐれ弁当を注文した。
食べ終わってレジで支払いをしようとすると、「先ほどの女性の方が、お二人の分も払って行かれました」と言われた。どうやら、先に帰った患者のお母さんが、ぼくたちのしぐれ弁当の代金を払ってくださったらしい。
店を出て、ぼくたちは複雑な気持ちになった。これはおごられたのだろうか?患者は現在入院していないので、お礼も言えないし、困ったな。それにしても、ぼくたち二人は研修医だけど、これが部長クラスだったり、上級医と一緒だったりしても、彼女は同じことをしたのかしら?目上の者が目下の者におごるのが普通だから、彼女にとってぼくたちは目下なのだろう。では、どのレベルの医者からが目上になるのだろう?などと考えながら病院へ戻っていった。
店の名前を忘れても、このエピソードだけは忘れられない。
聖書の中に「五つのパンと二匹の魚を五千人の人に分け与えなさい」と、イエスが弟子に言うエピソードが出てくる。物理的には不可能なことなのにこれができてしまう。多分、「おごる」場合にはこんなことはできないのだろうな。
No.24
2023年6月19日月曜日
小児科外来でやってはいけないが、ついやってしまう間違いが三つあると言われている。①子どもの母親を祖母と間違う ②女の子を男の子と間違う ③お腹の大きなお母さんを妊婦さんと間違う、の三つ。実は、ぼくは研修医時代に、小児科外来でこの三つの間違いをすべて経験している。しかも、外来をする前に、「その三つはよくやる間違いだから気をつけて」と注意されていたにもかかわらず、やってしまったのだ。
この間違いはいずれも「思い込み」によるものだ。
「おれ(わたし)は、そんなアホな間違いせぇへんわ」と思っている研修医の皆さまには、次の問題を解いてもらいましょう。
「自転車に乗っていて、進行方向に向かって左に曲がろうとするとき、ハンドルはAとBのどちらにきればよいでしょうか?」
左へ曲がるのだから当然「A」だろう、と答えた研修医の先生は、小児科外来で2歳と4歳の男の子を連れたお腹の大きなお母さんに対して、きっと「今何ヶ月ですか?」なんて不用意に聞いてしまうことでしょう。正解は「B」です。自転車に乗っている方は試してみてください。
自転車で曲がる問題が正解した研修医の先生への二問目です。
左は一辺が8cmの正方形。面積は、8×8=64(cm2)。この正方形を、図のように三角形二つと台形二つに切り離し、並びかえて右のような長方形を作ります。すると、この長方形の面積は、5×13=65(cm2)ですね。したがって、64=65。QED?
No.23
2023年6月15日木曜日
ぼくが研修医になったころは、まだ紙カルテだった。しばらくして電子カルテが導入されたが、電子カルテの機能のひとつに院内メール機能があった。「一斉メール送信」を選択すると、病院中の全職員にメッセージが届く仕組みもあった。
以前にいた病院で、電子カルテが導入されて間もなく、副院長から「一斉メール送信」(確か医療安全に関する内容だったと思う)で届いたメールにこんな言葉が引用されていた。
To ero is human, to forgive divine
なぬ?「エロは人の常、許すは神の業(わざ)」だと?確かにエロは人の常かもしれないけれど、そんなことを副院長が全職員に一斉メールで送るだろうか?これはひょっとして、“to err is human, to forgive divine”「過つは人の常、許すは神の業」という表現を言い間違えたのではないだろうか?
副院長は、エロ覚え、もとい、ウロ覚えで“err”という動詞を“ero”と綴ってしまったのではないだろうか、それとも本当に「エロは人の常」という人間の本質を突いた表現を敢えて用いて、医療安全への注意を喚起したのだろうか…どちらが真相だったのか、当時のぼくには副院長に問いただすだけの勇気はございませんでした。
1752年6月15日は、ベンジャミン・フランクリンが、凧をあげて雷が電気であることを証明した日、とされています。
No.22
2023年6月12日月曜日
小児科にいたころ、内科から異動になったSさんという看護師さんがいた。彼女は、中堅の看護師であったが、小児科病棟での勤務は初めてだった。あるとき、5、6歳くらいの男の子に、「お通じはありましたか?」とたずねているのを耳にしたことがあった。学童前の子どもには、「お通じ」という言葉の意味そのものが理解できているかどうかも怪しいのではないだろうか。
Sさんは、趣味で油絵を描いていた。入院していた水頭症の患児の頭を見てインスピレーションが湧いたといって、その子の頭をモチーフにした抽象画を描いたことがあった。写真を見せてもらったが、渦巻くような緑っぽい宇宙空間のような背景のやや左下方にオレンジ色のひずんだ球状の物体が描かれていたように記憶している。独特の感性の持ち主だった。
彼女が小さな子どもに向かって「お通じはありましたか?」とたずねたのは、単に小児との会話に慣れていなかったせいばかりではなかったのかもしれない。それでも、小児科病棟で聞く「お通じはありましたか?」という言葉には、どことなく違和感を覚えたものだ。『HIGH & LOW』の伝説のチームMUGEN(ムゲン)が乗り回しているハーレーが、BMVかドゥカティになったようで落ち着かない。
患者さんに対して「タメ口」をきくのが良いか悪いかが話題にのぼることがあるけれど、5、6歳の子には「ウンチ出た?」でよいのではないか、とぼくは思う。
『HIGH & LOW』のストーリーは…う〜むひと言では語れない。映像は、暴力を「かっこよく」見せるように仕かけられている。(でもよい子と研修医はまねしないでね)彼らは「ワル」で日ごろからケンカばかりして対立しているが、何だかんだ言いながら巨悪に対抗するので応援したくなるのである。ハーレーは無条件にかっこいいのだ。
以前、嵐山で見かけたハーレー。バッグに子犬を入れているのも様になっていた。
No.21
2023年6月8日木曜日
めばちこ、めいぼ、ものもらい、めっぱ、のめ、めぼう、おひめさん…すべて麦粒腫の方言だそうな。麦粒腫をどう呼んでいたかで出身地が分かるかもしれない。
医学用語にも方言がある。研修医のころ、白血球を「ロイコ」と呼ぶ上級医がいた。白血球のドイツ語の「ロイコツィート」に由来するようだ。髪の毛をオールバックにした金縁眼鏡をかけた大学の講師クラスの医者が言うと、ちょっとキザっぽく聞こえるかもしれない。同じドイツ語でも、「ワイセ」と呼ぶ医者もいた。「白い」という形容詞に由来する。(「ワイセ」の正しい発音は「ヴァイセ」だけれど、その辺はいい加減だ)日本語の「わいせつ」に似ているので、品のない男性医師が使うと誤解されそうだ。白血球をわざわざ日本語で「白」という中年医師もいた。ちょっと俗物根性的な響きに聞こえたのは偏見かしら。
研修医のころに、松本修の『全国アホバカ分布考 はるかなる言葉の旅路』という本を読んだ。これは、『探偵!ナイトスクープ』というテレビ番組への質問がきっかけとなり、全国の「アホ・バカ」を表現する言葉の分布を調査して書かれたレッキとした研究書だ。その中で、「アホ・バカ」方言が京都を中心に同心円上に分布しており、都の言葉が地方に持ち帰られて定着したのかもしれないという考察を読んだときは、思わず膝を打って「そうだったのか!」と感心したものだ。
松本修『全国アホバカ分布考 はるかなる言葉の旅路』(太田出版1993年)
面白い本だったので、人に貸してあげたら返って来なかった。手元に置いておきたかったので、後にもう一度古本で手に入れた。この本が生まれるきっかけとなった『探偵!ナイトスクープ』の初代局長は、上岡龍太郎氏だったが、先日のニュースで5/19に亡くなっていたことが報道された。享年81歳。肺がんだったとのこと。ご冥福をお祈りいたします。
No.20
2023年6月5日月曜日
医局には、昼どき、おやつどきに食パンを使ったスナックが並ぶ。ベーコンピザトースト、チーズはちみつトースト、明太子マヨチーズトースト、ツナマヨチーズトースト(ズズッ…おっと、よだれが出てきた)。これらは当直明け医師の朝食用食パンを再利用した料理。手をつけずに残された食パンは、以前は廃棄処分されていた。これを医局事務さんが工夫して、スナックにアレンジしてくれるようになったのだ。そのきっかけを聞くと、「フードロスをなくすため」とのこと。
医局事務の仕事は秘書業務(医師のスケジュール管理など)にとどまらず、臨床研究・医報編集の補佐やパートの日当直医への電子カルテ操作のオリエンテーションや医学雑誌の管理から医局メダカの世話まで実にさまざま、これらを5人の医局事務さんたちが分担してこなされている。
最近はフードロスを削減して医師を飢餓から救うSDGsプロジェクトまで展開している。まったく、当院の医局事務の皆さまの活躍には頭が下がります。感謝です!(スナックトーストは作っている最中から飢えた医師に食べられてしまうこともあるそうです。ベーコンピザは特に人気があって、出来立ての写真を撮ろうとしたら、既に下のような状態でした)
食パンを再利用したトーストは、まさに4Rの実践ですね。えっ?3Rじゃないのかって?食品ロスを減らすReduceでしょ、食パンの再使用のReuseと新しい価値を創造するRecycle、それに、みんなが喜ぶRejoice、これで4Rですね。
俵万智さんの『サラダ記念日』のパロディで、一首。
「この味がいいね」と君が言ったから 六月五日はRe-パン記念日
No.19
2023年6月1日木曜日
先日(5/27)、『診断バトル 人工知能vs専攻医』と題するオンライン勉強会が、当院の総合内科主催で開催された。プログラムの第一部では実際の症例について、人工知能(AI)チームと専攻医チームとの間で診断合戦が行われた。
このところAIの進歩は著しく、チャットGPTといって、対話をしながら作文や論文が書けてしまうAIまで登場した。ところで、GPTってそもそも何の略なのか?よく分からないままにぼくは新聞や雑誌の記事を読んでいた。そんな折、京都新聞の『天眼』で、同志社大学名誉教授の浜矩子氏が、「Gは何でPは何でTは何?」と題する記事を書いていた。
チャットGPTのGPTのフルネームは“Generative Pre-trained Transformer” 日本語では、「生成可能な事前学習済み変換器」なのだそうだ。「フルネーム抜きで、頭文字がひたすら独り歩き」するのは「一世を風靡する度合いが強い言葉であればあるほど」その傾向が強いと浜氏は指摘している。こわいのは、略号が意味する中身を理解せぬまま、その言葉の意味する実態を見据える視点を失うことで浮き足立ってしまうことなのだそうだ。
ガス・バン・サント監督『グッドウィルハンティング』(1997年)
天才的な頭脳をもつウィル(マット・デイモン)は、心に傷をもち非行に走っている。このカウンセリングを引き受けたのがショーン(ロビン・ウィリアムズ)。かたくなに心を開こうとしないウィルに向かって、ショーンが言う、「美術の話をすると君は美術本の知識を話すだろう。ミケランジェロのことも詳しいだろう。彼の作品、野心、法王との確執なども。だが、システィーナ礼拝堂の匂いを嗅いだことはあるかい?あの美しい天井画を見上げたことが?…ないだろう」ウィルはある意味、書物の知識を文字通り丸ごと頭に詰め込んだAIのようだ。でも自分の目で“本物”に接していない限り、彼がミケランジェロを語っても意味がない、とショーンはウィルを切って捨てたのだ。
No.18
2023年5月29日月曜日
先日、NHKの『クラシックTV』という番組に坂東玉三郎がゲストで出ていた。坂東玉三郎は2012年に人間国宝に認定された、日本を代表する歌舞伎女方の役者さんだが、クラシックファンとのこと。番組のタイトルは「坂東玉三郎の愛するクラシック」。彼が愛する作曲家は、ドビュッシーとラヴェル。番組ホストの清塚信也はラヴェルの音楽の革新性に触れ、「ラヴェルはそれまでのクラシックの“古い型”を破った作曲家」と紹介していた。それを受けての坂東玉三郎の言葉が身にしみた。「とにかく何が“型”かって決めちゃダメなのね。何が“型”って決めて、その“型”にはまったらオッケーってなったら終わりなの。祖父とか父が言ってたんです、『お前“型破り”っていうのは、大したものなんだよ。 “型”ができた者が破るから“型破り”って言うんであって、“型”がないのをやってるのは“型無し”だよ』って」
研修医の頃に、当時の外科部長で後に病院長になった先生から“守破離”という言葉を教えてもらった。茶道などで、まず師匠の教えに従い(守)、それから他の流派の作法を取り入れ(破)、やがて自分の流派を作る(離)という教えなのだそうだ。外科部長は外科的手技について話していたのだと思う。この言葉も、やはり、破る前にまず教え通りにやりなさいということを強調している。
臨床における手技にも“型”がある。まずは“型”を身につけることが初期研修時代の課題と言えるかもしれませんね。
“型破り”というと、水戸岡鋭治の鉄道デザインだろう。従来の鉄道デザインの制約にとらわれず、木をふんだんに使った内装は、ひと目見て水戸岡氏のデザインだなと分かるくらいに斬新かつ個性的。写真はJR九州のクルーズトレイン「ななつ星in九州」。右の内装は、車内とは思えず、まるでリッツカールトンのラウンジのようですね。
(写真:左は由布院で見かけたななつ星。右は水戸岡鋭治『鉄道デザインの心 世にないものをつくる闘い』(日経BP 2015年)より)
No.17
2023年5月25日木曜日
麻酔科研修医のころ、病棟の看護師さん(当時はまだ看護婦さんと呼んでいた)から米米CLUBのコンサートのチケットをいただいたことがある。
病棟にIさんという看護師さんがいた。彼女はメタルフレームの眼鏡をかけた、おっとりとした雰囲気の女性だったが、ナナハン(750cc)のオートバイに乗って通勤していた。そして、彼女は熱烈な米米CLUBのファンの一人だった。彼女はファンクラブに入っていたので、何枚かチケットを手に入れたのだが、どうしても交代してもらえなかった準夜勤の夜のチケットをぼくにゆずってくれたのだった。
仕事を早めに切り上げ、京阪電車に乗って、ぼくはコンサート会場の大阪城ホールまで出かけていった。席はアリーナ席の左側、前から7列目か8列目だった。コンサートが始まると、周りの観客(ほとんどが女性)がやおら椅子から立ち上がり、音楽に合わせて歌い、体を揺らし、両手を挙げて踊り出した。ぼくはその展開にいささか動揺したが、何食わぬ顔をして立ち上がり一緒に踊った。(というか立たないことには舞台が見えなかった)
座れたのは、唯一、石井竜也さんが生ギターをかかえて、前方に迫り出した舞台の先に用意された椅子に腰かけて、「みんな、ちょっと座りましょうか」と声をかけて、スローテンポの『愛してる』を弾き語りしたときだけだった。
ぼくの席からだと、石井竜也さんの右側の額から頬にかけて流れる汗が、照明で照らされるのをしっかりと見ることができた。おそらく特等席なのだろうけれど、ゴディバのチョコレートケーキにはさまれた王将の餃子みたいな気分のまま夜が過ぎていった。
後日、病棟でIさんから「どうでしたか?」と感想を聞かれた。ぼくは米米ファンのはしくれとして「最高でした!ありがとう」とこたえましたよ、モチロンじゃないですか。
米米CLUBのアルバム『KOMEGUNY』の歌詞カードの裏の写真(部分)。メンバーのほかに、コンサート会場の写真がのっていますが、まさに、女の子ばかりの総立ち舞踏歌唱集団ですね。
No.16
2023年5月22日月曜日
患者さんと結婚した同級生の記事を書いていたときに、『グッド・ドクター 禁断のカルテ』(2012年)という映画を思い出した。とある病院に赴任してきたレジデント(オーランド・ブルーム)が、美しい女性患者(ライリー・キーオ)に出会い、ひかれていく。彼は彼女の腎盂腎炎を、いったんは治すのだが、彼女を自分のそばに置きたいと思うようになり、抗菌薬を感受性のないものにすり替え、病を故意に再燃させる。そして、入院を長引かせるために、点滴に細工をする。そして、これが思わぬ展開に…というコワいお話。
このレジデントは、医師は病気を「治す」ものだと考えているようだ。でも実際に臨床をやっていると、病気というものは、いつも治せるとは限らないということを思い知らされる。他院から紹介されて緩和ケア病棟に入院してくるがん患者さんから、「前の病院では『治療の手立てがないから、うちにはもう来なくていいよ』と言われました」という話をしばしば聞かされる。患者さんにそのように言う医師は、「治らない病気」には興味がないのかしら。
医療の世界にこんな格言がある。「治すこと時々、和らげることしばしば、慰めることいつも」16世紀に活躍したフランスの外科医パレの言葉とされることもあるが、実際には誰が言った言葉か定かではない。自分が治療してきた患者を見放してしまうのは、和らげ、慰めることを知らない、あるいは関心がない医師だろう。治すことができない患者と向き合ったときに、患者にどのような言葉をかければよいか。研修医のみならず、これは医師の永遠の宿題かもしれない。
ランス・デイリー監督『グッド・ドクター 禁断のカルテ』(2012年)
実はぼくにもこんな経験がある。緩和ケア病棟に入院してきた女性の患者さんの病室へあいさつに行くと、「先生ハグさせて」と言って抱きつかれたのだ。その後、抱きつかれることはなかったが、病室に入る前はドキドキしていた。しかし、残念なことに彼女は2か月足らずで亡くなってしまった。享年80歳でした。
No.15
2023年5月18日木曜日
重症の再生不良性貧血の女性と結婚した同級生がいた。当時は、治療抵抗性の再生不良性貧血の長期生存率は低く、彼の奥さんもまもなく亡くなった。
彼は、彼女の主治医をしていたのだが、あるとき二人が結婚すると言い出して周りを驚かせた。結婚式に出たのはほとんどが医師であったので、彼らの結婚生活が長くは続かないだろうということを、誰もが「解って」いた。それゆえに、みな複雑な思いで、幸せそうな二人を見ていた。そんなぼくたちの不安をよそに、彼は敢えて彼女との結婚に踏み切ったのだった。ぼくは、結婚式の間、漱石の『三四郎』に出てきた「Pity’s akin to love.(可哀想だとは惚れたという事よ)」という言葉を想い出していた。
アーサー・ヘイリーの『最後の診断』という小説がある。この中では、レジデントのフィアンセが骨肉腫と診断される。そして、股関節近くから片方の下肢を切断しなければならないという治療方針を告げられて、悩んだ末にレジデントは婚約を解消してしまう。
どちらが正しくて、どちらが間違っているという問題ではない。恋愛と結婚では、考慮すべき状況や条件も当然違うだろうから、当事者以外は容易に口を出せないだろう。
ただ、ひとつ思い出す言葉がある。京都府立医大疼痛・緩和医療学教室の前教授細川豊史先生から聞いた言葉だ。「言おうか言うまいか迷ったときは言わない方がよい、やろうかやるまいか迷ったときはやった方がよい」
とすると、ぼくの同級生の判断は正しかったのかしら。
花嫁の絵がないかしらとネットで探していたら、『五等分の花嫁』という漫画が出てきた。最近のウェディングドレスは、この絵のようなビスチェタイプがはやっているようですが、カトリック教会では、タンクトップやノースリーブのような肩を露出するような衣類はご法度です。結婚式ではビスチェタイプを着ることができないので、カトリック教会での結婚式を考えておられる女性の方はご注意を。
No.14
2023年5月15日月曜日
ワキ方能楽師の有松遼一の『舞台のかすみが晴れるころ』(ちいさいミシマ社2022年)は、コロナ禍の期間に書かれたのだそうだ。舞台を活躍の場としている能楽師にとって、「本番」の舞台がなくなるということは致命的なことだ。有松氏は、コロナ禍で能の公演がなくなったときに普段行っている稽古を考え直したそうだ。
語義からみると、「稽」という漢字には、引きくらべる、かんがえるという意があり、「稽古」とは昔のことを吟味しつつ、現代・いまと引き合わせて考える行為を言うそうだ。とかく「稽古」というと、練習をくり返すように思われているけれど、有松氏は「練習のつもりの練習によいことはなく、稽古でも本番のつもりで、いや本番として集中して打ちこむ」べきだと言う。本番で間違うことは玄人であってもあるが、ここでいちばん大事なのは、「そこで間違ってしまったということよりも、そこにいたるまでにどういう稽古をしてきたか、ということだ」。地道にじゅうぶんに稽古を積み、たまたま舞台でミスをしてしまうのは仕方がないが、本番へ間に合わせたような稽古をしてくるほうが、たとえミスがなかったとしても、タチが悪い。
臨床には気管挿管、動脈穿刺、静脈確保、CVカテ挿入等々さまざまな手技がある。臨床における手技は、シミュレーターを使用しない限り、患者さん本人が相手となるから、考えてみるまでもなく、毎回が「本番」なわけだ。有松氏は本番として稽古に打ち込めと言っていたが、臨床の手技においては、それこそ初回から本番に臨むのだから気が引き締まるのも当然だろう。
医局には、各研修医が経験した臨床手技の到達表が掲げられている。これらの手技は、すべて患者さんを相手にしているので、練習でも稽古でもない。指導医に指導されながらとはいえ、すべてが本番なのだと思うと、患者さんには感謝するしかない。
No.13
2023年5月11日木曜日
研修医2年目の春、新潟で開催される日本小児科学会で、予期せずポスター発表をする羽目になってしまった。本来発表するはずだった上級医が家庭の事情か何かで新潟に行けなくなってしまったので、ぼくが代打発表することになったのだ。学校検尿で見つかった腎炎の子どもの追跡調査のような内容だったと思う。まとめたのはもちろん上級医で、ぼくはほとんど原稿を読むだけの役目だった。指導していた副部長が付いてきて下さったのだが、大きな学会(それまでは小規模な地方会で一度発表しただけだった)で発表するのが初めてだったので、ぼくはいささか緊張していた。
学会中は、副部長と行動を共にした。宿も一緒、移動のタクシーも一緒、飯も風呂も一緒だった。代打の発表が終わると、副部長から「佐渡島へ行きましょうか」と誘われた。え?学会中にそんなことをしていいの?とぼくは戸惑ったが、副部長が行こうというのだからいいのだろうと思い、船で佐渡島へ渡り佐渡金山を訪ねた。
それ以降、学会でいろいろな土地に行くと、名所や美術館などを回るのが楽しみのひとつになっていた。ここ数年は、コロナ禍で学会の現地開催がなくなったのが残念だ。
横浜で学会があったとき、足を運んだジャズ喫茶ちぐさのマッチ。ちぐさは昭和8年(1933年)創業の、現存する最古のジャズ喫茶だった。ちぐさには、若き日の秋吉敏子や渡辺貞夫らが、当時高価(給料の3〜4割)だったジャズのレコードを聴きに通っていたという。ちぐさは、2007年に一度幕を閉じたが、その後再建されたらしい。
ぼくが行ったのは、閉店前のちぐさ。店に入ると、10cm以上も厚さがあるリクエスト帳を手渡された。ぼくはウェイン・ショーターの『スーパーノヴァ』のB面をリクエストした。リクエスト帳に比べると飲み物のメニューは貧弱で、B5大のボードが一枚。コーヒーも紅茶もミルクもどれもすべて400円だった。そのときもらった店のマッチは、ぼくの宝物となっている。
No.12
2023年5月8日月曜日
連休中に、タルコフスキーの『サクリファイス』をDVDで観た。難解な映画だった。
柳田邦男氏の次男、洋次郎さんが脳死になり、二つの腎臓を摘出されて、遺体を自宅に連れて帰ったときのこと。長男の賢一郎さんがテレビのスイッチを入れると、偶然にもNHKの衛星放送で、この映画が放映されており、ラストシーンの『マタイ受難曲』のアリア「憐れみ給え、わが神よ」のむせびなくような旋律が部屋いっぱいに流れたのだという。(柳田邦男『犠牲 サクリファイス』より)この記述を読んでから、タルコフスキーの『サクリファイス』を観たいとずっと思っていた。
柳田邦男氏が、人の死に人称を与えたのは、恐らくこの『犠牲 サクリファイス』という本が最初ではなかったかと思う。
「一人称(私)の死」では、自分はどのような死を望むかということが重要になる。
「二人称(あなた)の死」は、連れ合い、親子、兄弟姉妹、恋人の死である。
「三人称(彼・彼女、ヒト一般)の死」は、第三者の立場から冷静に見ることのできる死である。
この本を表した時点で、柳田氏は、医療者にとって、担当した患者の死は「三人称の死」であると言っている。ところが、後に氏は、講演の中などで、患者に接するときは乾いた「3人称の視点」ではなく潤いのある「2.5人称の視点」をもつことが必要だと述べるようになった。医療者にとっての患者の死というのは「3人称の死」ではなく、かといって「2人称の死」でもない。それは「2.5人称の死」であるといってもよいのかもしれない。医療者も、患者が亡くなったときには、涙を流すことだってあるのだから。
⇦本体の装丁
柳田邦男『犠牲 サクリファイス わが息子・脳死の11日』(文藝春秋 1995年)
最初、文庫本で読んだが、単行本の本体の装丁に洋次郎さんの手記などがコラージュ風にデザインされていると知り、後に単行本も手に入れた。
No.11
2023年5月2日火曜日
高校の同級生にS君という秀才がいた。模擬試験では当然のように全国でも上位をキープし、3年生になると「日本で一番難しい大学を受験するぞ」と言い、彼は東大理Ⅲと慶應大医学部を受験した。両方とも現役合格した彼は、東大理Ⅲに入学した。大学の数学はさすがにしんどかったのか、同級生で理Ⅰに入った、これまた秀才のK君に家庭教師をしてもらっているという噂が京都にまで流れてきた。その後、S君は卒業して泌尿器科医となったが、数年で医師を辞めてしまった。風の便りでは寿司職人になったとのことである。
日本では、医師になるには、高校を出て大学医学部に入学しなければならない。現役で合格した場合、18歳で将来の職業が決まってしまうわけだ。聖路加国際病院院長の福井次矢先生は、知り合いのアメリカ人医師から「18歳で医者になると決めてしまうのは、誰にとっても不幸なことだ」と言われたそうだ。「誰にとっても」とは、本人だけでなく患者さんにとっても不幸という意味とのこと。(福井次矢『なぜ聖路加に人が集まるのか』)
秀才のS君の場合は、どうやら医師になりたくて医学部に入学したのではなく、学業成績が優秀であったという理由から東大理Ⅲを選んだのかもしれない。東大に限らず、医学部はどこの大学でも偏差値が高く、入学するのはむずかしい。しかも受験科目をみると、数学・物理・化学に重点を置いた「理系学部」だ。しかし、実際に臨床の現場に出てみると、三角関数や運動方程式はほとんど使わないでよいことに気づく。むしろ、コミュニケーション能力や、「人のために尽くしたい」というモチベーションの方が大事であるように思われる。
とにもかくにも、東大医学部卒が握った寿司を一度食べてみたいものだ。
福井次矢『なぜ聖路加に人が集まるのか 医療の質、医者の資質』(光文社2008年)
No.10
2023年5月1日月曜日
医局事務のMさんから「いつつぼやきブログを書いてるんですか?」と質問された。実は秘訣があります。今日は特別につぼやきのレシピを公開しましょう。
【材料】
過去の経験…180g
想い出…大さじ1
A(読んだ本…70g・観た映画…50g・聴いた音楽…30g)
しりょ(思慮)・こちょう(誇張)…少々
写真または絵…100g
レモン…小さじ2/3
【作り方】
4の熟成の過程で、散歩を手伝ってくれているピオ(オス:3〜4歳)。動物愛護センターで譲り受けた保護犬。ときどき思わぬアイデアをささやいてくれますが、たいていは気になる他犬の糞尿やゴミのにおいを嗅ぎ回っています。
No.9
2023年4月28日金曜日
ぼくが研修医になって初めて出逢った死は、患者さんではなく同僚の死だった。麻酔科研修で3か月間手術室に出入りした。そのときに一緒に仕事をした手術場の新人ナースが急性白血病で亡くなった。
彼女は、日本海に面した丹後地方の出身で、小柄で素朴な印象の女性だった。お好み焼きが苦手だと言っていた。中まで火が通っていないときの、トロッとした小麦粉がダメだったらしい。その彼女が、あるとき「歯茎が腫れて出血する」ので歯科を受診したところ、内科で詳しく診てもらいなさいと言われた。
急性白血病と診断され、血液内科でさっそく治療が始まった。そのとき担当医になったのは、麻酔科をぼくと同時期に回っていた研修医だった。治療が始まると、脱毛し、唇が荒れてきたためか面会は断られ、ぼくは病室へ見舞いに行けなくなった。そこで、画用紙にトトロの絵を描いて、担当医に届けてもらった。月夜にトトロが蝙蝠傘をさし、コマに乗って空を飛んでいる絵だった。励ましのつもりで描いたが、少し寂しげな絵だったかもしれないと少し後悔した。
年を越して二月頃だったか、担当医から彼女が亡くなったことを告げられた。
その夜、亡くなった彼女がいた病棟へ向かう廊下を歩いているとき、前方から少し暖かい風が吹いてきて、ぼくの頬をなでていった。その廊下でそのような風に吹かれたことはなかったので、妙だなと思っていたが、しばらくしてから、「あぁ、彼女がさよならを言いに来たのか」と気づいた。もう一度風が吹かないかなと期待したが、その後二度と風は吹かなかった。
彼女に描いてあげたのは、こんな感じの絵だったと思う。
着色は、色鉛筆ではなく、水彩絵具だった。
No.8
2023年4月26日水曜日
現在の初期研修システムは、同期生が科ごとに別れて研修しないので、同じ病院で研修をする研修医諸君は「一体感意識」が強くなるようだ。以前ぼくが働いていた病院の研修医で、同期のメンバーの誕生日に、メンバーそれぞれのイメージに合わせてケーキを作っていた研修医がいた。彼女は、今はケーキ屋さんではなく立派な循環器内科医になっている。
ケーキだけでなく料理を作るというのは、きわめて利他的な行為だろう。料理研究家の土井善晴は「料理するという行為に、人を思いやるということがすでにあるように思うんです。自分が食べるんなら、これでいいということでも、それが他の人、家族が食べるとなると、これではよくなくなる。手を使う仕事は心を使う仕事で、手は心とつながっていると思うのです」(『料理と利他』)と言っている。
医療にも料理と同じように手を使う仕事がたくさんある。「手術」「包交」「点滴・採血」「聴診・触診・打診」「剃毛」「清拭」「食介」「体交」等々。すべて自分の体ではなく、他の人の体に触れる行為だ。土井善晴は語る、「つくり手の心の状態と料理というものとは深い関係がありますよ。…怒って料理をしているとなにか味が傷ついてくると思うんですけど、穏やかにつくったものは非常になめらかなものにできあがる」
ぼくも喜ばれる料理をつくるように穏やかな心で患者に接したいと思う。
土井善晴/中島岳志『利他と料理』(ミシマ社2020年)
コロナ禍の中で行われたオンライン対談『一汁一菜と利他』を書籍化したもの。
No.7
2023年4月24日月曜日
村上春樹の『アフターダーク』を今年の正月に読んだ。その中で、バンドでトロンボーンを吹いている主人公が「カーティス・フラーの『ブルースエット』というLPレコードのA面1曲目『ファイブスポット・アフターダーク』を初めて聴いたとき、これが僕の楽器だって思った」と女の子に話すくだりがあった。カーティス・フラーの『ブルースエット』はジャズの名盤で、もちろん、ぼくもそのジャケットを知っていた。しかし、学生時代、あの少女趣味的なジャケットに抵抗感を抱いていたぼくは、LPを聴くことを避けていた。今年の正月に『アフターダーク』を読み、『ブルースエット』を聴いてみようかしらと思い立った。
アマゾンでCDを注文して、聴いてみた。……う〜む、これは死ぬまでに是非とも聴いておかねばならないアルバムだったな…と深く深く反省しました。それ以来、ぼくはジャズのスタンダードいわゆる名盤と言われているアルバムを(いい年をしてその名盤も聴いてなかったの、と言われるのが恥ずかしいので)こっそりと聴いている。
何が言いたいかというと、何ごとにもスタンダードがあり、そこは飛ばしてはならないということだ。小児科研修医のころ、ネルソンの小児科学(それも原書)を買ったが、「な〜に、これから一生小児科やるのだから今読まなくてもいいか」と思って、ぼくはネルソンを本棚に飾ったままほとんど読まなかった。その後、小児科から麻酔科に転向したため、ぼくはついにネルソンを読む機会を逸してしまったのだった。
カーティス・フラー(tb)の『ブルースエット』
1曲目の『ファイブスポット・アフターダーク』はベニー・ゴルソン(ts)の作曲。
録音は1959年5月21日。
No.6
2023年4月21日金曜日
小児科研修医時代、重症川崎病の男児の担当医となったことがあった。なかなか熱が下がらず、最終的に冠動脈瘤ができてしまった症例だ。当時は、ステロイドが冠動脈瘤形成のリスクファクターかもしれないという議論があり、毎日のように治療方針(ステロイドを使うべきか否か等)についてカンファレンスをもっていた。ぼくは初めて出あった川崎病の経過が不安で病院を離れることができず、5日間病院に泊まり込んだ。
ここで問題だったのが、衣服だった。上着はスクラブなど病院に替えがあるが、下着は替えがなかったのだ。結局、5日間同じパンツをはく羽目になった。(中学生時代、内風呂の修理のため20日間風呂に入らなかったことはあったが、パンツははき替えていた。パンツを5日間もはき替えなかったのは後にも先にもこのときだけだった)
当時、この話をしていると、大学時代スキー部だった上級医から「オレは1つのパンツを4日間はいたことがあるぜ」という体験談を聞かされた。曰く、前・後ろで2日、裏返して前・後ろでもう2日、都合4日間は1枚のパンツをはけるのだそうだ。
しかし、ぼくの場合は5日間だ。残る1日はどうしようもないではないか!
さまざまな職業、年齢の女性約100人に個別インタビューを行い、持っているパンティの中から3枚を選んでもらい、イラストにし、エッセイとともに書かれた本です。(今日のつぼやきとは何の関係もありませんが)
No.5
2023年4月19日水曜日
当院の医局ではメダカを飼っている。
水槽に白石を敷き、藻を浮かべ、エアポンプをつけ、毎日餌をやり、水を替えて世話をしてくださっているのは、医局秘書さんたちです。いつもありがとうございます。
今日、立ち泳ぎしているメダカを見つけた。ときに、こうして立ち泳ぎをするメダカがいるが、その原因についてはあまり解明されていないそうだ。
以前、佐々敦行が何かの本で「フグの立ち泳ぎ」という表現を使っていた。(官僚的な)組織の中で、上(上司など)ばかり見て立ち回る人物をからかって言っていたと記憶している。「上を見る」というのは「先輩の背中を見て学ぶ」というのとはちょっと違う。「上の目つまり評価」を気にして立ち回る態度を言うようだ。
初期研修では、「立ち泳ぎ」する必要はまったくない。病院で「上の目」よりこわいのは、実は看護師さんや患者さんの目なのです。
それにしても、立ち泳ぎをしているメダカ自身は 困っているのだろうか?と考えた。
立ち泳ぎをしているメダカは「正しくない」と、 ぼくたちが決めつけているだけなのかもしれないな。
彼(あるいは彼女)が少数派で目立つからといって、他のみんなと同じにしないさいと言うことなど、大きなお世話なのかもしれない。
No.4
2023年4月18日火曜日
もうひとつ昔話を。中京区の京都市立病院で小児科初期研修を始めたとき、入職時の面接で、小児科部長から「夜中に呼び出しがあったときはどうしますか」と質問された。当時、ぼくは八幡市から京阪電車と市バスを乗り継いで病院に通っていた。「そうか、京阪電車が動いていないと身動きできないな」と気づき、研修前に四条大宮に安アパートを借り、よしこれで夜中に呼ばれても大丈夫だろうと安心して研修に臨んだのだった。
ところが、働きはじめてみると、病院にはどの医師でも泊まれる宿直室があった。実家に帰れるときはもちろん帰宅したし、重症患者がいるときは病院の宿直室に泊りこんだ。結局四条大宮のアパートは、月に2〜3度しか利用しなかったので、3か月で契約を解消した。
当院の研修医の先生方も外の病院で研修する機会がある。今はレオパレスなどの短期契約住宅があるので住問題で悩むことはあまりなくなっているようで、うらやましい限りではある。ドラえもんの「どこでもドア」があれば、もっと便利になるだろうけど、自宅の寝室のすぐ横に病院があるというのも何だか落ちつかないな。
ドクター、急患です!!
No.3
2023年4月10日月曜日
今の卒後研修の形が始まったのは、2004年(平成16年)。医学部を卒業して医師国家試験に合格した後、2年以上の臨床研修を終えなければ、将来医業を行えないシステムとなった。ローテートする科も多く、達成すべき手技や経験すべき症例も多彩で、まとめなければならないレポート数も半端な数ではない。今の研修医の方がぼくたちの頃より能力的に優れているのは確かだろう。
能力もさることながら、ぼくが近ごろの研修医の先生方を見ていて感じるのは、みな小綺麗でおしゃれになったこと。ぼくが学生の頃は、髪の毛を肩まで伸ばしてブリーチのベルボトムジーンズに無地のTシャツを着て、素足に草履を履いて、河原町を歩いていたものだ。あの頃は、「これぞバンカラだ」と気炎を吐いていたのだが、ぼくの奥さんに言わせると「ただの薄汚い学生みたいに思えるんだけど」とのこと。
当時、「河原町のジュリー」と呼ばれるホームレスの男性がいた。三条大橋から河原町界隈、四条大橋あたりでよくお見かけしたものだが、別に彼と身なりを競っていたわけではない。巧言令色すくなし仁とは言うものの、身なりを構わなければ思いやりが育つというものでもなかろう。(もちろん、わたくしも研修医の頃には、さすがに「薄汚い」格好は卒業しておりました、とつけ加えておきます。念のため)
増山実『ジュリーの世界』(2021年)
1970年代後半から1980年代前半を京都で過ごした著者が、当時「河原町のジュリー」と呼ばれたホームレスの男性から得たイマジネーションで書いた小説
No.2
2023年4月3日月曜日
ぼくたちの頃は、医学部の卒後研修は単科研修が原則だった。ほとんどの研修医は大学の医局に所属して、大学附属病院や医局の関連病院で研修をしていた。ぼくは小児科を選択し、途中で麻酔科と放射線科をローテートした。薄給だが、研修先の病院から給料も出ていた。
もう少し前の世代では、医学部を出ても国家試験を受ける前に1年間は「実地修練」をしなければならない「インターン制度」というのがあった。この間はほぼ無報酬。この「インターン」の生活がいかに惨めであったかは、たとえば、黒澤明監督の『天国と地獄』(1963年)を見るとよい。インターンの竹内(山崎努)は、「冬は寒くて夏は暑くて眠れないアパート」に住んでおり、丘の上の豪邸に住む権藤(三船敏郎)を妬み、やがて恨みを抱くようになる。そして、権藤の子どもの誘拐を企てたのだが…。
実際のインターン生活はさすがにここまでひどくはなかっただろうけれど、ある程度の現実は反映されていたのかもしれない。
黒澤明監督『天国と地獄』(1963年)
左手前が、二つの鞄に身代金を入れて、特急こだまに乗っている権藤(三船敏郎)。
No.1
2023年3月30日木曜日
サザエのつぼ焼きではない。 「つぼやき」 とは 「つぶやき」 と 「ぼやき」 をかけた造語である。 ぼくは臨床研修指導者研修を受講して、臨床研修指導医と認定されてはいるが、今は日常的に研修医の先生方を指導する立場にはない。だから、臨床研修についても 「つぶやき」 か 「ぼやき」 程度しかできないのである。
ぼくは緩和ケア病棟で働いている。選択で緩和ケア病棟での研修を希望された研修医を相手にすることはあっても、それは一年間で1〜2ヵ月程度、人数にして2名程度といったところだ。 いつも研修の初めに「獲得目標」のような希望を聞くが、みな自主的に研修をしてくださるので指導する側は助かっている。
令和4年度は、研修終了間際に2名の初期研修医が緩和ケア病棟で研修された。 3月23日は研修修了式だったが、 緩和ケア病棟で研修された先生方には、毎年この日にブーケをはなむけとしてプレゼントしている。
ボンボヤージュ!