ホーム > 当院について > 病院報 > 病院報 2013年特集号 > まちづくりからの発信
古武博司(「西陣の町家・古武」主宰)
私たちの暮らしと、街の風景、社会のありよう は、条例や国の法律で大きく規定されます。そう いう条例や法律を決めるのは、選挙によって選ば れる議員さん方によりますが、最近、その選挙の 投票率が低迷をきたし、時系列で見ますと少しず つ下がってきています。私は上京区の選挙管理委 員会の委員長を務めていますが、選挙管理委員会 としては啓発活動がいたらないのかなと思ってい るところです。
街の風景は、私たちのなりわいと暮らしが反映 されます。二十数年前、壬生寺の周りに行きます と、町家の大屋根には物干し台がずらっとしつら えられ、総絞りがたくさん干してありました。そ ういう光景は、今はありません。祇園祭の山鉾が 建てられる四条室町・新町界隈には、大店・呉服 店の町家がずらっと並び、夕方の5時、6時、7 時にもなりますと、集配のトラック便が並んで自 転車も通れない、そういう賑わいを呈しておりま した。私が活動しております西陣の地域も、町家 の大屋根には天窓がいくつもありまして、その天 窓の下には必ず機が置かれていまして、街を歩き ますと、機音がいたるところから聞こえてきまし た。今、そういう光景はありません。もちろん室 町通も、今はマンション・ホテル、居酒屋や学習 塾、駐車場へと変わってきています。京都の街が そっくり地場産業の街ではなくなったと思います。 堀川通・今出川通も共同住宅の大通りになりまし た。町家が並んでいるという光景は全くありませ ん。私の風景の原体験は、そういう町家が建ち並 ぶ京都の街でしたから、急速に減っていくのは寂 しいと思い、町家の保存活動を行っているところ です。
町家は職住一体型の市街地 に存在する住居です。「西陣 の町家・古武」を訪れた方々 には、なぜ町家ができたのか ということをお話しています。 市街地の変化の中で町家が誕 生して発展し、元禄期に完成 する経緯を話しますが、一昨年の3.11以降、市街 地の変化について、さかのぼって付け加えていま す。794年からの話だけではダメだという状況に 変わりました。
例えば、今、私たちが歩いている地表面の下に は数十メートルの沖積層があり、その下に岩盤の 古生層があります。沖積層を押しのけて古生層が ピョッと出てきたのが船岡山です。ふもとが海抜 80メートル、船岡山が110メートルですから、高 さ30メートルの丘として上に出ているのです。こ れが平安京の基軸となっております。その古生層 の下には、211億の水量を蓄えている地底湖が あります。211億は、琵琶湖の8割にあたりま す。京都はこうした地下構造から出来ているとい う話をし、「大地は動いています。動いていると ころに原子力発電所はダメですよ。今すぐ止めな さいよ」という話を付け加えているのが、この3.11 以降の町家の活動の一つの変化です。
794年、都が京都に移ってきますが、平安京と はどんな都だったのでしょうか。『源氏物語』を 見れば分かりますが、王朝雅です。そういう光景 は、内裏から一条北城の地帯、立派な離宮が建ち 並ぶ館を舞台とした描写です。では庶民がどうい う描写をなされているかと言いますと、土佐光長 の餓鬼草紙を見てください。累々たる死体が路上 に並び、糞便している人々が描かれています。そ れから、もう一つの絵巻物を見てもらいますと、 累々たる死体に野鳥と野犬が群がり、食い荒らし ている様子が描写されています。衛生がものすご く悪いですね。そういう光景も、平安時代の庶民 の暮らす街の光景です。
それから『方丈記』を見ると、1177年に大火が 起きます。ちょうど五条寺町の北西あたりから火 が出て、内裏を全部、一夜のうちに焼き尽くして います。それから1180年には、旋風(つむじかぜ) です。今年は大河ドラマで「八重の桜」をやってい ますけれども、その新島襄の館が建っているあた りから旋風がおこり、六条まで吹きすさび、木の 葉のごとく家が舞い上がったという描写がありま す。たくさん死んでいるはずです。次の1181年、 養和の大飢饉では、4万2300人が死んだと記録さ れています。4万2300人がどこで死んだか。一条 から九条まで、寺町である東京極大路から朱雀大 路まで、その間で4万2300人が亡くなっている。 当時の人口は10万人前後ですから、5割近い人が 死んでいるのです。そういう悲惨な光景が起こっ ています。さらに1185年には、大地震です。「地 面が溶けて、水が湧き出て、家々が壊れる音、雷 鳴のごとし」という記述があります。
これだけ続くと、社会にものすごく不安が蔓延 します。救いを何に求めるかと言えば、宗教です。 それまでの宗教は、天台・真言宗で、大きな仏像 と大伽藍を建てたら、それで救われるということ を説いていました。庶民はそういったものを建て られません。そこで登場してくるのが、法然、親 鸞、日蓮、栄西など、鎌倉仏教の祖師が誕生しま す。「『南無阿弥陀仏』『南無妙法蓮華経』と唱え たらそれで良いのですよ。救われます。」と、説 きました。今で言う心のケア、カウンセリングで すね。それから、死体が累々としていますから、 全部を集めて火葬にします。そして救済する人の 救護施設を作るのですね。そういう事業をやるか ら、鎌倉仏教がものすごく影響力を持って、信者 がいっぱい集まるのは当たり前です。こうした活 動は今も続いていますね。会場であるこの花園大 学も、仏教系ですね。そういうふうにして、庶民 信仰寺院が増えてゆきます。
図表1 ご町内(両側町)
1467年にはじまる応仁・文明の乱が終わってか ら、戦国時代に入ります。以後、110年間、戦国 時代が続きます。殺し合いばかりをしていると、 権力者も「こんな殺し合いはやめよう」と感じて いきます。平和な街、平和な地域が作られるルー ルを作りました。何を作るかというと、武家は武 家のルール、武家諸法度。お公家さんや朝廷は、 禁中並公家諸法度。それで、朝廷と武士階級の間 を行ったり来たり、ウロウロしている層、「僧侶」 の「僧」です。案外、これがいっぱいいるのです。 今の政党状況と一緒ですね。そこで諸宗寺院法度 というルールを作ります。こうして270年間、ル ールを作って平和が維持されます。
それから京都の場合は、天皇が御所にお住まい ですから、武士階級が大手を振って市中に君臨し ません。生産力が向上し、商業が発達してきたら、 それを誰がコントロールするのかと言えば、町衆 です。
町衆はどういう単位で住んでいるかと言います と、図表1「ご町内(両側町)」をご覧ください。 条・坊・保・町の単位で道路割りができます。町 は一辺120メートルです。120メートルおきの道路 で、平安・鎌倉・室町は全部、築地塀で囲まれて います。築地塀の中にそれぞれ、住んでいました が、応仁の乱でなくなってしまいます。道路に沿 って店を持つ町家がずらっと並びます。道路の両 側を一つの単位とする両側町、ご町内になります。 そこで、町式目というルールが作られます。簡単 に言えば、行政・司法・立法・裁判権をこの町衆 が持ってコントロールする、そういう自治がとら れた時代が続きます。
このようにして、京都は戦国以降、平和安定し た治世が続いて、街づくりがされてきました。京 都は1200年の街と言われるかもしれませんが、自 然と暮らしの有り様は大きく違うのです。1100年 の間は、ライフラインが自然の中にあったのです。 しかし、今も含めてのこの100年間は、自然のラ イフラインを潰し、便利だったらそれで良いとい うことだけで、人工のライフラインを作ってきた のです。もし想定されている大災害が起こったら、 この100年間で人間が作り上げたライフラインは、 ことごとく木っ端微塵になります。これからの街 づくりは、1100年の自然のライフラインに寄り添 った街づくりをしないと、100年、200年後の人た ちの生活の保証はできないと思います。
図表2 平安京の街路に応仁・文明の乱後の
町組領域イメージ図
図表2「平安京の街路に応仁・文明の乱後の町 組領域イメージ図」(次ページ)で「上の町」と 書いてあるところが、現在の上京区にあたります。 上京区役所では、「京・上京探訪」事業として、 1200余年の歴史と文化を踏まえて、街を歩いて未 来社会を見ていこうという地図をいっぱい作って おられます。これは西陣地域で、私が案内してい る地域の地図です。絵は専門の方が描きましたが、 私が作りました。こうした地図は上京区全域にあ り、上京区役所のホームページに掲載されていま す。1100年間、ライフラインが自然環境の中にあ り、ここで暮らしてきた権力者・権威者・庶民・ 文化人といった人たちの暮らしの現場が描かれて いますので、ぜひ、まち歩きマップを見て散策し ていただいたら、ありがたいと思います(京都市 上京区役所「京・上京探訪」ページhttp://www.city. kyoto.lg.jp/kamigyo/page/0000110810.html)。
最近は、中高年者の街歩き観光がすごく多いの です。まるでデモ行進のように、250人、300人と 歩いているのです。観光というよりも、ウォーキ ングをしている感じですね。そういう人たちは、 歴史と文化を訪ねて歩くということに主眼をおい て街を歩くので、広域的に歩きます。
今、光が当たっているのは東山です。いっぱい 観光客が訪れます。しかし東山は坂が多く、道も 細いですから、災害が起こったら大変です。そう いう点では、上京にも、東山にも、中京区、下京 区にも行くといった人の動きがありますので、防 災といっても、ピンポイントではダメですね。や はり面として見ないといけない、そういうふうに 思います。それで、地域医療ということと併せて、 面としての医療をどうするかということが大事だ と思います。
先ほどの図表2で「かつて農地だった」と記し た地域は、今はこの全部に家が建っています。そ れに「洛陽」と書いたところには、今出川・堀川 から、鴨川・西洞院川・小川・大宮川・夷川・東 洞院川と、たくさんの川筋がありました。今、堀 川は溝の中に川筋があるだけです。しかし、災害 が起こって水道が止まっても「あそこに水がある な」と、目に見えて分かるようなセーフティーネ ットの街づくり、これが大事だと思います。観光 客はなおさら情報が伝わらないので、観光客にも 分かってもらえるようなセーフティーネット作り をやれば、これは絶対に効果があります。それに は行政の力と皆さん方の地域の力と、この京都の 全てが合わさった力が大事かなと思います。
前へ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 次へ