ホーム > 当院について > 病院報 > 病院報 2013年特集号 > 記念講演「がんの体験から」
鳥越俊太郎(ジャーナリスト)
私の大腸がんは、Ⅰ~Ⅳまであるステージのう ち、ステージⅡでした。がんが腸管を少し飛び出 し、腹膜播種と言って、がん細胞が腹膜の中にば らまかれると、もうお手上げになるというような 状況だったので、Ⅱbと言われたのです。それを 聞いて、娘たちはそこまで深刻なのかとショック を受けて、やっぱり泣いたようですね。私は全然 そんな深刻な感じはなく、「あぁステージⅡか」 ということで、「取りあえず取って良かったなぁ」 ということだったのです。
それからは3ヵ月に1度ぐらい検査をしていま した。CT 検査やいろいろな検査をするのですが、 そのうちにどうも肺に影がちょっと見えると言わ れました。「ここはおかしいかな。でもまだ小さ いし、大丈夫だろう」と言われながら、1年が経 ちました。そして、2007年の1月4日、正月気分 がまだ冷めやらぬときです。夜、消化器外科部長 から電話がかかってきて、「鳥越さん、明日の朝 に病院に来られますか」「えっ、どうしたのです か」「今日、手術室で呼吸器外科部長と鳥越さん の胸の画像を一緒に見ていたら、呼吸器外科部長 は『ちょっと影が怪しいので、病院に来てもらっ てください』と言うのです。だから、明日に来て ください」ということでした。1月5日でまだ正 月なのにと思いながら、体のことですから仕方が ないから行きました。病院に行くと、呼吸器外科 の部屋に通され、もう画像が置いてありました。 そして画像を指さされ、「これは大腸がんの肺へ の転移で間違いない。手術しましょう」「えーっ、 そんな、まさか」。本当に予想もしていなかった ので、びっくりしました。そこで1月12日に入院、 1月15日に手術というのが、その場で決まりまし た。あっという間に肺の手術をすることになりま した。
肺の手術も胸腔鏡という、胸に3ヵ所の穴を開 けて、そこからカメラを入れて、カメラをモニタ ーに映しながら手術をする方法でした。そういう 内視鏡の手術は非常に日本では進んでいます。肺 の場合は、昔は背中から肩甲骨に沿って切って、 肋骨を2~3本落とし、そして手術と、肺の手術 はたいへんなだったのです。今は胸腔鏡という肋 骨の間からカメラとそれから手術器具を入れて肺 の一部を切り取るという手術なんです。手術その ものは1時間ぐらいです。麻酔などがありますか ら、前後合わせて1時間半とかかかりますけれど も、私の場合は月曜日に手術をして、金曜日に退 院して、翌週の月曜日にはもうテレビに出ていま した。月曜日に手術して、翌週の月曜日にもうテ レビに出演できる。今の肺の手術は、それほどに 技術が進んでいるのです。
手術で2ヵ所に転移していたのがわかりました。 これは大腸がんの転移です。そのときに呼吸器外 科部長が、私は麻酔で寝ていましたけれども、私 の奥さんに「鳥越さんの大腸がんはⅡ期と言いま したけれども、肺に転移がありましたので、あの 大腸がんはステージⅣです」と言ったそうで、ス テージが一気にⅣになりました。小学校なら学年 が上がるのはいいのだけれど、がんだけは、ステ ージが上がるのはちょっと困りものです。ウチの 奥さんは何も分からないものですから、「先生、 Ⅳの後は何ですか」と聞いてみた。すると先生が 「いや、Ⅳの後は何もありません。終わりです」 と言われたというのです。
半年後の8月16日、忘れもしません、大文字の 送り火の日です。私は毎年、送り火の日には京都 に来ているのですが、2007年8月だけは手術の跡 が痛いのをずっと我慢しながら、病室で、五山の 送り火の実況中継を見ておりました。ところが実 は、右の肺は取ってみたら良性だったのです。炎 症跡、つまり悪性腫瘍ではない。呼吸器外科部長 は私に向かって「鳥越さん、良性で良かったね」 と言いました。私は心の中で「良性なら取らない でも良かったのに」と思いましたけれども、そう したらその声が聞こえたかのように、先生が「い やぁ、肺は取ってみないと分からんからねぇ」と 言われまして、そんなことを言われてもと思いま した。肺に転移したけれど、右の肺には転移をし ていないということが分かっただけでも良いかな と前向きに考えて、私はそのように手術を受け止 めました。
さらに1年3ヵ月後、今度は「肝臓にPET−CT で1.5センチほど、どうも転移の影がある。手術 しましょう」と言われました。肝臓は、腹腔鏡も 胸腔鏡も使えない。切らなければいけないのです。 みぞおちから背中まで38センチ、ズバッと切って、 そして肝臓をちょっと前に出して、そして直接、 エコーを当てます。それでがんのあるところを特 定し、えぐり取るというやり方で、肝臓を70グラ ム取りました。肝臓は再生しますので、70グラム を取ってもまた元に戻ります。今は戻っています。 ただ、38センチも切っていますから、これがなか なか、今でもちょっと痛いぐらいです。
ただ、非常に感謝しているのは、私の手術をし てくれたのは5~6人の先生のチームですが、そ のチームのなかで縫ってくれた先生が、糸目を残 さない縫い方をしてくれたのです。皆さんもよく 覚えておいてください。埋没法と言います。埋没 法という技術で縫うと、内側から縫うので糸目が 残らない。これは美容整形などの手術のときに使 うやり方だそうです。皮膚と皮膚とを内側から縫 っていくから、糸目が上へ出てこない。皮膚がつ ながる。そして、自然に糸は取れていくという、 そういう患者にとっては非常に負担のないやり方 で縫っていただきましたので、私の縫い跡はわり ときれいです。筋がちょっと少し残っていますけ れども、だんだんと、年々歳々、消えていきます。 以上が、私のこれまでのがんの4回の手術の経緯 です。
それでも私は、がんになって良かったと思って いるのです。がんになったお陰で、私は桜の花を 見たときに、それまでは「あぁ桜が咲いている」 で済んだのが、やはり残り時間ということを考え ますから、ものを感じる力がちょっと深くなりま した。桜の花を見ると「あぁ来年も見られるのか な」などと、やっぱり思いが深くなる。がんのお 陰で、私はより濃密な人生を送ることができてい るかのように思います。
それから、健康にも気を付けるようになりまし た。今までは体のことはあまり考えていなかった のです。適当に食べて、適当に寝れば良いと思っ ていたのですけれども、「やっぱり食事と睡眠と 運動、この三つは大事だ」ということを教えられ ました。今の私の食事を申しあげますと、朝はじ ゃこ豆腐、ヨーグルト、トーストに紅茶、これだ け。昼は一切、食べません。そして夜は、お魚が 中心です。まぁ、鶏のササミとキャベツのサラダ などは食べますけれども、基本的にはお肉は食べ ません。というふうに気を配り、それから、高カ ロリーなものはあまり食べません。低カロリーで、 腹一杯は食べない。これは寿命を延ばす効果が期 待できる遺伝子、サーチュイン遺伝子というのが あるのですが、この遺伝子はお腹が減っている飢 餓状態のときに活性化するということがアメリカ の大学で証明されているのです。だから適当に自 分を飢餓状態におきながら、カロリーを控えめで いると、その方が長生きをして若々しく生きられ るそうです。本当にそうなのかどうかは、ちょっ と私も自信がないですけども、そういうことが今、 言われています。だから、もし若々しく長生きし たいという人は、あんまり腹一杯、何千キロカロ リーも摂らずにいる方がいい。私はだいたい1日 1400~1500キロカロリーぐらいしか摂っていませ ん。がんのお陰で、そういうことも考えるように なりました。
がんになる前と今では、仕事の量は3倍に増え ました。これはがんのお陰ですね。それはもう、 体に気を付けますから、当然、元気になります。 そして今はジムに週に3回行って体を鍛えていま すから、がんになる前より遥かに元気です。だか ら去年の12月9日、ホノルルマラソンに出たので す。自分の体力を試してみようと思い、ひょっと したらリタイアするかもしれないけれども、完走 できるかもしれないと思い、やりました。完走し ました。今年の3月で73歳になりましたので、走 ったときは72歳ですけれども、がんを4回手術し た72歳は、ホノルルマラソンでもそう走ってはい ません。
驚いたのは、走っている最中に、何人もの人に 声をかけられたことです。みんな、がんの患者さ んです。がんの患者さんがホノルルマラソンを走 っていて、私にいろんなことを話しかけてきて、 走りながら相談されるのです。走るがん相談室で した。びっくりしました。
だから、がんは昔とは違います。昔は、がんは 「死の宣告」のようなところがありましたけれど も、今は、早く見つけて早く処置すれば、がんは 死ぬ病気ではありません。むしろ自分の人生を豊 かにする、自分の人生をもう一回見つめ直すこと をさせてくれる、一つのきっかけになる良い経験 だと私は前向きに考えます。
災害というものも、東日本大震災もたいへんな 災害で、多くの人命が失われ、街が失われ、港が 失われ、田畑が失われ、いろいろなものが津波と ともに、地震とともに失われていったわけですけ れども、考え方を変えれば、これを機会に、災害 に強い街、災害に強い商店や病院など、そういう ものを新しく作り直していけばよいのだと思うの です。そういうことが今、東北の街では行われて います。
ただ、やはり、津波にも侵されないような高台 に街を作るということは、たいへんなことです。 みなさんの賛同も得なければいけないし、みんな が賛成して、全員一致してそこに行こうという気 にならないといけない。しかし、中には「海の見 えるところに住みたい」という人もいます。私は 奥尻島にも行きましたが、奥尻島でも、やはり「俺 は漁師だから、海が見えるところに住みたい」と いう人と、「津波の被害のない高台に住みたい」 という人の二つに分かれたそうです。東日本大震 災でもそうでしょう。なかなか、みんなが一致し て「山の高台に街を作ろう」というように、サッ と話は進まないですね。
いろいろな問題はありますけれども、しかし、 これから100年、200年、何百年という未来を考え て、新しい街づくり、災害に強い、自然災害に耐 えられる街づくりをしていけば、それはそれで、 前向きに考えれば一つのきっかけになるだろうと 思います。それから、都市化するとどうしてもお 互いの人と人とのつながりが疎遠になって、「隣 は何をする人ぞ」と、全く誰が住んでいるのか分 からないというのが、都会のマンションでは当た り前です。しかし、そういうことでは災害になっ たときに、お互いに助け合うということがなかな か難しい。やはり大事なのは絆だ、人と人との間 を結ぶもの、それは絆という綱であるということ を、改めて見いだして、そういう街づくりをして いただきたい。そうすればきっと、単なる後ろ向 きの、失っただけの、何かを喪失しただけの災害 ではなくて、これからに生かしていくことができ るたいへん貴重な経験になると、私は自分のがん の経験からして、そういうふうに思います。私の 話はこれぐらいで終わらせていただきます。どう もご静聴、ありがとうございました。
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