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第二十回 倫理委員会 議事録

京都民医連中央病院

日時 2007年2月1日(木) 18:30~21:00
場所 太子道診療所3階多目的室
出席者

外部委員 小原委員長、原副委員長、勝村委員、立岩委員、広瀬委員
内部委員 内田委員、東委員
事務局 岸本、内田、丸山
オブザーバー 清水、橋本

欠席 村井委員、吉中委員、出島委員、高木委員、坂田委員

議事

小原 開始が遅くなりましたが、ただ今から第20回の倫理委員会を開催したいと思います。今日はかなり多くの方がご欠席だと聞いています。議事(1)は吉中院長からの説明があるはずでしたが、院長もまだ来られていませんので、今回は割愛させていただきたいと思います。

内田 間に合いましたら後ほどお願いしますが、来られなかったら割愛して進めてください。

小原 そうですね。はい、分かりました。(2)は前回からの継続審議ですが、今日は非常にたくさんの資料を付けていただきました。まず、これについてご説明いただき、それから前回の議論の続きとして、立岩先生から、またご提案をいただきたいと思っています。まず資料の説明からお願いします。

内田 今日は3種類の資料をお出ししています。本日付けの倫理委員会資料には、行政関係の動向のメディファックスと医事新報を載せています。それぞれのタイトルはP1に載っていますので、ご覧ください。

その内容はまず、終末期医療でのMSW評価。日本救急医学会の特別委員会で議論している「呼吸器外し」選択可の指針原案。救命救急センターの全国調査で「終末期での呼吸器外しを14%が経験している」といったこと。それからこれは結構大きな提案ですが、岐阜県の多治見病院の倫理委員会が「呼吸器の使い方について容認した」という記事。後の2つは厚労省の関係で、今現在のガイドライン作成への議論の状況。それからA3の分が、日本医事新報の1月20日付の「延命医療の中止の手続きなどのルール化」についての記事で、検討会のメンバーもご覧のような方々になっています。

もう1つの冊子は、法整備ともとれるのですが、厚労省の「終末期医療の決定プロセスのあり方に関しての検討会」の1月11日の議事で、P12に「終末期医療に関するガイドライン」の叩き台が載っていますが、これに関するコメントをいただいています。また、P16以降は、平成16年7月に出された検討委員会の報告書です。

参考3という少し小さめの資料は、先に出されたガイドラインの叩き台に提出された意見の整理で、結構、ご覧になると参考になるかなと思います。これは分類別に整理され、終末期医療およびケアのあり方、患者様との意志決定プロセス、共通する事項というように分かれています。具体的な意見はP3以降ですが、いただいた意見がそのまま載せられていますので、資料として出させていただきました。以上です。

小原 ありがとうございました。待っている間に、これにざっと目を通したのですが、なかなかおもしろい意見をたくさん発見しました。膨大な資料ですが、いくつかは多分、参考になると思います。

今から立岩先生に説明をいただきますが、ウェブで読んだ文章には、患者向けの提案も入ってました。ただ、この「意見の整理」の中にもあるのですが、患者に対してどう語るかということだけではなく、例えば、意見書のP6の下の方に「患者本人の意志が確認できない場合に終末期医療を中止した場合、医療従事者と家族との法的責任が問われないという、免責項目が欲しい」と書かれていますが、やはり、患者さん自身だけでなく、中止した医療従事者および家族等の免責について、どのようなことを語れるのかということは、おそらく我々にとっても課題だとは思います。ですから、これも併せて、今後に考えていきたいと思っています。

では、時間の関係もありますので、早速、立岩先生の方から説明をお願いしたいのですが、ウェブから印刷した資料もあります。

立岩 今日はどこまでやるのですか。ディスカッションの続きみたいなイメージなんでしょうか。

小原 今日に結論を出すことには多分いかないと思いますが、できる限りのことはしたいと思います。

立岩 私が前回、話の流れで「考えてみます」と申し上げて、そういうことになってしまったので、本日に出させていただいたのが、「おわりのはじめに」という、なんか変なタイトルのやつです。

事情だけ説明しますと、筑摩書房という出版社で「終末期の尊厳死とかいうことについて、何かを書く」という約束みたいなものがあったのですが、放っておくと何も書かないので、1年半ぐらい前から筑摩書房のウェブサイトで、月1回ぐらい追加更新するという形で、連載を始めました。最初はせいぜい1年の予定でしたが、だらだら書いていたら終わらなくて、ようやく最終回を迎えた第18回がこれです。毎回、400字詰め原稿用紙で20枚ぐらいの文章ですが、今回は最後なので、ちょっと長めの30枚ぐらいになっています。今日の話に直接関係するのは、後半部分のP4以降になります。今日は結論というわけでなく、ディスカッションの続きということなので、ちょっとゆっくり目に紹介させていただきます。

直接関係のない前半の部分は、ここ10年20年の間に風向きや雰囲気のようなものがだんだん変わってきたと私も感じていまして、私は社会学ですから、哲学者・倫理学者が言っているのとはまたちょっと違うわけですが、「どういう要因でこんなふうになってきているのか」と気になっていたことを書いてあります。

先ほど紹介いただいたのは2000年以降の調査結果ですが、17回目では、1980年代から90年代にかけてのそういう話をちょっと書いています。例えば90年代に、北欧などの状況が医療関係者の某かには知られていたということがあります。このへんからだんだん関係してくるのですが、97年頃に福祉のターミナルケアについてのある種の報告書が出た時には、私と同年代で昔からの知人である千葉大学の広井良典が中に入って、欧米の調査や国内の調査を踏まえ、結論的には「終末期というものが、医療、病院の中で迎えられてきたのだが、それに対して、医療というよりは福祉の領域に、病院より在宅に、終末期というものを移していくのが望ましいのではないか」という話になりました。しかもその中に、効果というより費用の問題で「経済的に言えば、そっちの方が安いよ」というニュアンスというか、直接に書いてあった気がしますが、そういった話があったので、医療界のかなりの部分が、それに対して批判的な論陣を張り、論争みたいなものが起こったりもしたわけです。

それからまだ10年ぐらいですけれども、このような伏線も今日の話に関係なくはないので、それらを念頭に、今年、去年ぐらいの動向を考えてみました。今年中に何かの本にしたいと思いますので、興味があったらどうぞ。

前置きが長過ぎましたが、今回の議題に関係する部分に戻ります。患者さんへの説明文の本体は、P6の終わりからP7にかけてですが、P4の下から後には、これまでの議論で出た中身を、思い出しながら書いています。

あらかじめ言っておくと、僕は今の終末期医療と俗に言われているものに関して、不開始・停止も含めて許容していくという流れに対しては、「それは良くないのではないか」と考えている立場の者です。言ってみれば、「終わらせたりするのが早過ぎる方に向かってしまっている」、あるいは「するべきことをされていないことが、許容されつつある」というような今の状況に、危惧や懸念というような現状認識を持っている人間です。今となっては少数派になりつつあるのかも知れませんが、基本的な立場はそういうことです。

ただ、今回の議題は「ありとあらゆる場合に、そのあらゆることを」という話ではなく、心肺蘇生という「非常に限定された」と言っても良いと思うような話ですから、この間、皆さんから「いったいどういう状況で、それについてどういう感覚を持って、どういう現実が行われてきたのか」というお話をお伺いしていく中で、一つには「もっとも」と納得できる点もありましたが、一方では、お金のことも含め、「もうちょっとやった方が良いのではないか」という流れできている面が、正直に言えばあると思います。

それは別としても、「本来、ここまでやらなくても良いではないか」というタイプの心肺蘇生もありますが、長い間、常にそこまでやってきたことにより、かえって「もう良いのではないか」というような懸念が医療界全体に広くゆきわたり、それと同時に、それ以外の「もう良いのではないか」という許容範囲みたいなものも曖昧なままに広がって、正当化しているというか、許容しているというか、そういう状況になっているのではないかという気がしてきたわけです。しかし、何をしてもせいぜい数時間で命が終わってしまうという時に、本当に痛いかどうかは微妙ですが、「医療者の側が『心肺蘇生をしても無益で無駄で、益よりも害を与える』と確信した時には、基本的にしない」ということは、むしろ大切かも知れませんけれども、「それ以外の時は、すべきことはする」というスタイルの言い方をしても良いのではないかというのが、基本的なラインです。

患者向け説明文の今時のトレンドは、最初に「皆さん、どっちが良いですか」と聞くことで、なかなか良いアイデアなんですが、全く健常な状態の時に何故、今とは全然違う末期の状態のことを決められるのかというと、自分のことは自分がよく知っているということが、少なくとも理由の一つになっていると思います。しかし、そういう状態が想像もできない手前のところで聞かれても、なってみないと分からないので、全然リアリティがなく、その時の返事だけを根拠にするやり方が良いかどうかというのは、少なくとも終末期に関する決定については疑問を感じます。それでは、実際にその状態になった時に決めてもらえば良いかと言えば、その時には、既に人間はしゃべれもしないし、意思疎通のできない状態になっているのが普通です。ですから、本人に聞いて決めてもらいましょうという、たいていの場合は良い解決方法も、少なくとも終末期に関しては、そんなに有効ではないのではないかという気がします。そういうことを書いてあるのがP5の真ん中ぐらいまでです。

そのP5の真ん中ぐらいからは、私自身も非常に迷いのあるところなんですが、少なくともここの病院では基本的に、どういう形で患者さんたちに接するのかということをきちんと言った上で、「でも、云々」という話のつなげ方をした方が良いのではないかと思ったのです。ただ、何を書いたのか、よく覚えてないところがあるので、ちょっと今日は長くなりますが、ざっと読ませていただききます。

【むしろ、この病院はこのように皆に対すると言った方が良いのではないか。もちろん、そのどちらの選択もある、どちらを選ぶかはあなたが決めることだというメッセージがその人をないがしろにするということではない。むしろ多くの場合にはその反対である】。つまり、あなたにもうお任せしますというのは、あなたを尊重するから、あなたにお任せしますということです。【しかし、ことが生き死にに関わる場面で、生きるのも死ぬのもあなたの選択だ…】というのは、あなた自身を尊重していることなのかといったら、普通、人は「生きるの死ぬの」なんてことを聞くことはなく、生きることを前提、あるいは目的にして生きているので、普通の選択とは違うだろうということです。【むしろ病院は、病が治るか治らないか、それは様々であるとしても、基本的には命を救うところであり、命を長らえさせるところであると、そのことを私たちは行うと、まずそのことを、言うまでもないことかも知れないが、その言うまでもないことを、言うことではないのか。そのためのことを私たちはきちんと行う。身体の機能がひどく衰えていようと、認知症が進行していようと、それで差をつけることはしない。行うべきことは行うと、そのように言う】ということは、結局、今、非常にずるずると広がっている状況は、最後から2行目の身体の状態や精神・知的な状態に合わせて加減をするということですが、「そこのところをそのままに、という話ではないだろう」と思うということです。

【その方が人は安心するだろうと思う。今回の私たちの作業のように(というのは今のこの作業のことを言っている)、一つの病院での決まりごとを決める場合は、少なくともこの病院はそうすると、その方が安心するだろうと思い、ここではそうすると言い、どうしてもそのように思えない人は…】、つまり「我々が提示するプランや方針に同意しない人は、別の病院にしてください」ということが実際にできるという意味では、国全体で決めるよりも、ある意味では楽に、「ここではこうするのだよ」と決められるということですね。

【その上で、いかなる場合にでも、技術的に可能な全てを行うべきだとは私は考えない。一つには、寿命が短くなる可能性のある選択肢だが、寿命が長くなる可能性がある別の選択肢よりも、その人にとってよい、楽な状態が保てるという場合に、前者をとるということはあり得るだろう】。その次は今回とはあまり関係のない話なので省略します。そしてもう一つの状態が、P6冒頭の【全身の状態が悪化していって、心臓の機能と呼吸の機能、特に心臓の機能が弱くなっていって、その推移からやがて、ごく近い内にそれは停止の時を確実に迎える。その時に、電気による刺激を与える、あるいは心臓マッサージを行うか続けるか、そういう場面である】ということで、今回はこれを議論しているのだろうと思います。

【幾度か述べたように、その時にその人がどんなであるのか、そう簡単に分かるとは思わないようにしよう】。まぁ、本当は分からないと、僕は思いますけどね。【ただ、意識の水準は低下している。全く何も感じなくなっていれば、やはり(この連載の中で)幾度か述べたように、その人にとっての害もないのだが、しかしやはり同時に、益もない】。これはプラスマイナスゼロですね。【害がなく、そして益がある可能性があるのであれば、(イコールではないですが)事態の改善の可能性があるのであれば、その処置を行えばよいではないかと…】。僕は基本的に、本人の意識がなく治療停止という状態がプラスマイナスゼロなら、続けても良くはないかも知れないが、少なくとも悪くはなく、低くても事態の改善の可能性があるということはプラスだから、本人にとっては、総合すればプラスのはずなので、そういう場合にはやれば良いのではないかと、原則的には思っています。

【ここではその可能性が全くないとしましょう。すると、処置を行う積極的な理由がない】。【他方…】というのは、おそらく、完全な真っ白の状態ではなく、意識は殆どハッキリしていなくても、痛みや息苦しさ、苦痛といったことは感じられるような身体の状態も、末期にはあるのだろうと思う。そういう時を過ごす間に、胸を圧迫されるたり、刺激を受けることは、端から思うと、「痛い」とか「つらい」ということはあるのかも知れない。そのように考えていくと、【その人の状態というのは、「低空飛行なんだけれども、生体の機能が保たれていて、まだそこそこには生きている」のではなく、また「突発的に一時的な事態として、心肺の機能が低下している」のでもなく、多くは長い闘病の末に、もう最後の段階を迎え、機能水準がとにかく段階的に低下している。それは回復可能な一時的な低下ではない】と考えて良いのかなと思いますが、僕は現場を知ってるわけではないので、皆さんにお伺いしたいと思います。

【とすれば、その時には、処置は止める、行わないとした方がよいというふうに私は思ったと。確かにもちなおす可能性は全くのゼロではない。しかし人の世に起こることの殆どは厳密にはゼロではない。数多くの経験からゼロだと思える。ほどなくしてこの人の生は終わると確信できる時には、そしてここでは一人の医療者の判断ではなく、複数の人たちの判断が一致している時には、処置は行わない。それ以外の場合、すべきことは医療者の義務として行う。この病院ではそういう方針で望む】というやり方もあるのかなと思います。

これはむしろ【「絶対にもう無駄だ」という判断を医療者にさせることにおいて、医療者に負荷をかけ、責任を負わせる(ことである)。(本当にそうなのかと)真面目にそのことについて考えろということだ】。本人が「どちらでも良いですよ」と言っても、「言った通りにします」というのではなく、「本当にこの人はこれで終わりなのか」ということを、きちんと複数で判断する必要があると思います。【ただ、それでも述べたように全く可能性がないという判断は難しい。(誰だって)間違えることはあり得る。その判断を信用できない、あるいは信用しているんだけれども、受け入れたくないという人がいる】。これは合理的な判断もあるだろうし、心情としても分かります。「あなたは絶対にそうだと言うけれども、どうやって絶対なんていうことを説明できるのか」と言われれば、その証明はできない。そして「あなたが言う通り、もうこの人の心臓は停まるだろう」と理解できても、それが受け入れられない人もいるだろうし、その心情も分かる。【そして、周囲の人たちにとっても、その人の死がいささかでも先延べになって欲しい、そのように思うことはあるだろう。そのように思うこと自体は当然のことでもある。だから、その場合には、医療者の側から見ると、無駄かも知れず苦痛であるかも知れないのだが、「処置を行って欲しい」「続けて欲しい」と(医療者の方に)言って欲しいと伝え、その希望はかなえるようにすれば良いのではないか。ただ後者の、関係者の意向・願望の場合には、心肺蘇生の術が本人の身体に負荷をかけるものである以上は、本人の希望を他の人の希望に比べて優先したい】。「こういう手順・順番で考えていっても良いのではないだろうか」というのが、皆さんの話を聞いていて思ったことです。

それでは、どのように内規や医療者の裁量で対応するのかというのは、また別の課題ですが、最初のアイデアは、シートみたいなものに記入してもらうというものでしたから、それに代わるものとして「こんなことを言えば良いのかな」と私が思った例文みたいなものが、P6からP7に書いてあります。

まず、「こんな感じでやります」という声明みたいなものですが、【当院では、病気を治すために私たちができることをきちんと行います。また残念ながら病気が治らないとしても、できるだけ気持ちの良い状態で長生きができるためのことをできる限り行います。身体の状態が良くなくとも、知的な活動が上手くいかなくなっても、そのことには変わりはありません。その状態によって行うべきことを行わないことはいたしません】。

【しかし、残念ながら、病が進行し、全身の状態が悪化し、数時間の間に(と言えるかは分かりませんが)確実に死を迎えることが明らかであると、医師を含む複数の医療者が判断した場合には、あえて心肺蘇生を行うことはいたしません。その時にご本人がどんな状態であるのかは推察することしかできず、明らかではありませんが、この状態での蘇生のための処置は、体に相当に強い刺激と負担を与えることになると考えるからです】。基本的にこういうような姿勢です。

【しかし、私たちの診断に100パーセントということはありません。長い時間でないとしても、いくらか状態がもちなおすことが全くないと断言することはできません。また、ご家族ほか関係者の方が、全ての動きが停まってしまう前に御本人に会われ、最期までを見届けたいという思いも尊重すべきだとも思います。そこで、最期の時に臨まれる御本人の負担に配慮しつつも、御本人が望まれるのであれば、あるいは御本人が許容されるのであれば、本当の最期まで、心肺の動を維持すべく処置することもいたします。このことについては、担当の医師に相談していただければと思います。できるだけの説明をし、ご希望に沿うように対処したいと考えております】というような僕の思いつきですが、このような言い方もあると思います。

あとは言い訳のような説明ですが、【このような案でよいのか、私にもよく分からない。これで良いのかという思いはある。しかし、第一に、この病院がというのではないが、なしくずしに様々を「停止」することが行われるようになっている時、何も示さないことによって現状を追認するというのは良くないように私は思った】。つまり、「何も決めないという状態で今は良い」とは思えないということです。むしろ以前よりもそうされている状況なので、歯止めをかけるという意味も含めて、何らかの姿勢を示す必要があると思います。

「だったら」ということで、【ならば「停止」を行わないとだけ言えばよいのではないか。ここが(今でも)迷うところだ。ただ、1回について3時間ほどの会議を3度か4度行ってきて、かなり執拗に根掘り葉掘り医師や看護師に聞いてみたところでは、やめてよいことがあるように思えた。そして、その時の医療者の経験は、なにか死にゆく人に対する、既に亡くなった人たちに対する罪責感のようなものとしてその人たち残っている。そしてそれを、確かに「かわいそうだから」としてなされる、あるいはなされないことに、危ういことはたくさんあるのだが、この場合にはただの錯視(というか、誤認というか、思い込み)と見ることはできないようにも思えた。本人に対して加害的であるように思え、医療者に徒労感だけでなく罪責感をもたらすようなことと、それと区別することができると思われる様々な思惑・理由によって、命を長らえさせる処置を行わないこと、処置を停止することとを分けて、後者について、するべきことをきちんと行うことを明確にし、そのことをハッキリと伝えた方が良いのではないかと思った】。

【それでもなお、原則的にいかなる場合にも処置を行うが、ここでは行わない場合についてだけ、あらかじめどうするかを決めず、本人の選択に委ねるという方針もあるだろうと思う。しかしそれは、このような状態の場合に人に委ねるとはどういうことか、その状態を医療者がどのように把握し、どのようにするのがよいとするのか、基本的にまた個々の場面に即して考えること、また示すことを放棄することであるようにも思った】。この段落がいちばん怪しい気もしますが、生死に関わる場合に「どちらも」ということがあるのかということですね。「命が助かるのなら行うことを義務とし、そうでなければ…」というのは、むしろ基本かなということです。

【そしてもう一つ、いったん何かを認めてしまったら、他も認めるとこになってしまうのではないかという懸念がある】というのは、今の私の試案はある意味「停止」を認めている文章でもあるわけですが、医療倫理・生命倫理には「スリッパにスロープ」という話がありまして、いったん何か一つを認めてしまったら、どんどん拡大していろんなことを認めていって、果ては「積極的安楽死でも何でもありよ」ということになってしまうのではないかという議論があるわけです。だから「水が漏れないように最初の一歩を踏み出さない」という立場もあって、私もそういうふうに思う部分もあるので、了解はできるのです。ただ、【区切りをつけて、それ以外はしないことを明言するという方向にも】、つまり「この場合にはやらないけれども、それ以外はする」とハッキリと言うという、むしろ、基本的には「すべきことはする」ということを前の方に置いておくという方法にも、【滑っていくことを止める効用はあるだろうというふうに思った】。【ここには、全てを認めないということは実際にはできないだろうという判断があり(あるいは、ありとあらゆる場合にすべきではないということなのかも知れませんが)、とすれば、実際には何かを認めることになるのだから、その結果、事実上認められている範囲はかえって広がってしまうのではないかという危惧がある】というのは、実際にはどんどんやられているのに、そこの区切りをつけずに「原則ダメよ」という建前を言っていると、かえってそのルールが現場では守られないというようなことも、あり得るのかなということです。

ゴチャゴチャとそんなことが書いてあって、その後に、さらなる言い訳も書いてありますが、それは後読んでいただくとして、非常に長くなってしまったので、前回までの話はこれまでにします。

ですから結論的に言えば、一番目に「すべきことはする」、二番目に「しかし、しかじかの場合には、基本的にしない」。三番目に「しかし、『絶対にそうなのか』と言われたら、こちらは『そうだ』と断言するが、それに疑念を生じさせる人たちがいても当然なので、そういった場合には、家族というより基本的には本人の、許容や希望に応じる」という方針もあるのかなと思ったという次第です。あまり自信はなく、これが良いアイデアだとは思いませんが、こんな方法も一つにはあるのかなというところです。以上です。

小原 ありがとうございました。問うべき論点やこれまでの議論のポイントをついてまとめてくださいました。しかし再度、全般を議論するとたいへんな時間がかかりますので、前後も参考にしながら、あるいは確認しながら、P6~P7の文案について意図をより明確にしていくような形で議論したいと思います。もちろん、前後の内容に言及していただいても結構です。今のご説明に対してご質問があれば、どうぞ出してください。

原 これは何回も議論をしていますが、どういう議論をしたのか、あやふやになってきたところもありまして、長い病気の場合と救急的な場合では状況が違いますが、どのへんを前提にするかは決めましたかね。

小原 そこは切り分け次第ですが、これまでの雰囲気から言うと、救急というより、主に長い患者さんを対象にしていると思います。

原 救急の場合、DNRをやるかやらないかという迷いはあるのですか。

東 基本的に救急で来られた場合は、心肺蘇生のようなことはやると思います。

原 一回はやることになりますか。

東 最近は、心肺蘇生の手順も世界的にかなり定められてきて、当院でも繰り返し教育されていますから、基本的には、急に心肺停止に陥った方が来られた時は、それに従ったことは必ずやりますね。どこかの時点で「これは無理だな」という判断はされると思いますが、初めから「無理だからやらない」ということはないですね。

原 何回もやるかどうかは別問題ということですね。

東 例えば電気ショックでも、「最初は何とかジュールでやって。それで戻らなかったら、もうちょっと上げるというように、何回ぐらいやりなさい」となっているので、最低でも、二回か三回はやると思います。

原 それに関してはあまり詰める必要はないということですね。

東 そうですね。結果としてどうなるかは別として、殆ど迷わないですね。

原 そうしますと、病気が長く続いた人が病院で亡くなっていく時か、もしくは病気の長く続いた人が救急で運ばれる場合の、どちらかですね。

小原 今回は、救急のことは除外して良いと思いますね。

原 そうなってくると、数時間という程、短くなくても良いのかなという感じがします。

小原 ここは、具体的に「数時間」あるいは「数日」と言及するのは難しいと思うので、「短時間」とか「短期間」と書いた方が問題がないでしょうね。

立岩 例えば私なら、「何日」だとかなり長いなと感じます。

小原 そうですか。ここでは何日ではなく、24時間以内のことを想定していたのですか。

立岩 私的には、2~3日保つのやったら良いかも。「後、数時間」というのは、かなり確実度が高いということが、経験的に分かる気がしますが、「後、2~3日」というのはどういうイメージなんでしょうか。

原 「どれぐらいで亡くなるかという見極めはわりとつく」というご発言はあったように思います。

東 いわゆる長い経緯の中で、血液検査とか、尿の状態であるとか、意識の状態も含めて、様々な症状が徐々に悪くなってきて、ある段階で急激に悪くなる場合はだいたい読めますが、教科書通りになるとは限らないので、もうちょっと手前のところで急激に悪くなった時には、「どうするか」というようなことはありますね。ここでの話は、長期の悪性疾患や特定の原疾患といった、非常に限定された状況の中での判断だということですから、個別に「この場合はどうか」という話もあるかも知れないけど、全体として流れは理解できますね。

小原 ただ、「数時間以内に」とは結構、言いにくいですよね。ですから、例えば「一週間以内に」といったオーダーになるのではないのですか。

東 というよりも、心肺蘇生をするような状況は、後2~3日の命というのではなく、正に死なんとされているというか、いよいよ停まった時にやるわけですから、放っとけばそのまま亡くなる状況です。それにDNRの条件は、仮に一時蘇生したとしても、何かをし続けない限り、1~2日も心臓が動き続けることはないという状況ですから、「後2~3日も保つ」ということはあまりないのではないでしょうか。

原 そうしますと、死期の予測という観点より、回復の可能性という観点で設定した方が良いですね。

東 説得力がありますね。

原 要は、「回復が見込めない」とか、あるいは、どういう時間設定ができるか分かりませんが、「仮に蘇生したとしても、短い間しか望めない」。

東 心臓だけがしばらく動くという感じで、復活させる程の効果は期待できないということだと思います。

小原 ただ、ここで立岩先生が「数時間」とした意図には、「安易に拡大されないように限定すべきだ」という強い意志が表れていると思うのです。

東 そうですね。だだ、いわゆる広い意味で終末期と言われる状況の中で、「もう回復が期待できないというのは、そもそもいつ頃からの状態か」みたいな話は若干あると思いますね。

勝村 「心肺蘇生をするか、しないか」というのは、実際に停まった瞬間の話ですが、必要なのは「DNRの選択の判断を、いつするか」という話ですよね。

小原 そうですね、どういう条件の下で判断するかというのが、文章の後半だと思うのですけれども。

東 元々は「DNRの同意書をもらいましょう」みたいなイージーな話でしたが、この立岩先生の文章はそういう話とはちょっと違い、「どこかの時点でお話しするような中身ではない」というふうに思いました。

勝村 複数の医療者によって判断することを担保にするのは、「死が迫っている」ということの一致でしょうけど、心肺蘇生をすることの意味があるかないかを判断するのですよね。

東 立岩さんの提案の中で、僕らが今までの考え方を少し変えないといけないのは、「終わらせる立場ではない」ことをハッキリさせるということと、「医療者が判断する」というところが、かなり違うと思うのですね。今までは、ご家族へ「何もしないけどよろしいか」みたいな、免罪符的な形を作ろうという発想が基本的にあったのですが、そんな話はなく、「判断は医療者でちゃんと考えろ」ということを突きつけられたと言えます。基本的には、例えば「この状態で何かが起きたら回復しないだろうという、広い意味での終末期の状況に、今はあるかどうか」という判断もありますが、その状況の中で、「物を詰めたといった一時的・突発的なことではなく、大きな流れの中でさらに変化が起きて、いよいよの時がきた」という判断をすることで、「その時には、私たちは無益と思われることはしませんよと、宣言しましょう」という話ですよね。ただその時に、「本人や家族の方で個別の希望があれば、それはそれで聞きますよ」ということだから、DNRの同意書を得るということとは、話はちょっと違う感じがしますね。

小原 そうですね、かなり重点の置き方は変わったと思いますし、「本人が望まれるのであれば」というところは、かなり狭い条件設定になっています。ただ、ちょっとここで確認したいのは、文章の最後の段落ですが、最初の方で「最期まで見届けたい家族の思いに配慮する」ということが書かれていて、その後の「そこで、最期の時に臨まれるご本人の負担に配慮しつつも」というところの「そこで」は、前の文章の「見届けるまでは」とのつながりなんですかね。そして、その後の「ご本人が望まれるのであれば、あるいはご本人が許容されるのであれば」では、望むと許容するという言葉を使い分けているところにも、多分、お考えがあるのだと思うのですが、最後の段落は非常に大事なところだと思うので、もう少し意図をお聞きしたいのですが。

立岩 上手な文章ではなく、人に説明する時には、違う言い方の方が良いと思うのですが、これには二つの思いが書いてあるのです。つまり、一つ目の「長い時間でないにしても、もちなおすことが全くないと断言することはできません」は、「ダメだとお医者さんが言っても、俺は信用せんぞ」「本当の本当は分からんぞ」と本人や周りの人が思うことはあるだろうということを察しているのです。二つ目の「御本人に会われ、最期まで見届けたい」というのは、「それはそうかも知らんけど、死に目には会わせてくれ」「会うまでは心臓が動いていてくれ」という思いもあるだろうという話です。そして、「そこで」というのはこの二つの文を受けていて、「そういう思いはもっともなので、最期になるたけのことをすることもありますよ」という話につながるのです。

ただ、その時の条件が、ここでは完全に詰められてはいないのです。本人や家族にはいろんな意思があって、本人の「こうしてくれ」「こうしないでくれ」と言っていることと、家族の人のそれとを掛け合わせるとかなり多く組み合わせになり、その内のどのケースを認めるかという答えもいっぱいあります。例えば、本人が何も言っておらず、あるいは少なくとも「そういうことはしないでくれ」と積極的に言っていなくて、家族が「そうしてくれ」と言っている場合は、その希望をかなえることがあると思います。また、家族のことを思んばかってかも知れませんが、本人が「やれるところまでやってくれ」と言ったら、それには従うことになるでしょうね。そのへんの書き方が分かりませんし、書き方以前の問題として、いったいどうしたら良いのかということも含めて、確定的な案がないので、考えてもらおうかなと思っていたのです。

小原 ここが結局、大きく変わったところで、これまでのDNRの議論では「心肺蘇生を中止するためには同意書が欲しい」ということでしたが、この案では「心肺蘇生は基本的には必ずする」ということで、基本的に中止はあり得ないのだが、「本人が明確に望んだり、許容する場合には、心肺蘇生をする」ということですから、条件の出し方や同意の中身がだいぶ変わっているわけですね。ですから、「ご本人が明確に心肺蘇生をやって欲しいという意思表示を出さない限りは…」。ちょっと待てよ。あっそうか。複雑やな、ここは。

原 これは、どんどんと部分集合化していく構造になっていますが、複雑でもないでしょう。基本的には「治療努力をいたします」ということで、その中でいったん停まるという時に、「回復が見込めない場合に限って言えば、心肺蘇生はむしろ基本的にはしません。しかし、ご本人が望まれるか、家族が間に合うことを望み、本人がそれで構わないと言うのだったら、やります」ということでしょう。

広瀬 「基本的にしない」というところと、「最期の時に望まれること」というところは、きちっと別に分けて書いた方が良いのではないですかね。

立岩 そうですね、書き方はいろいろありますね。

原 「措置することもいたします」というのが、二つを受けるのではなく、ばらして2回書いても良いとは思うのですが。

勝村 ちょっとすみません。P6の一番下からP7の最初にかけてのところが、難しくて分かりません。「数時間の間に死を迎えることが明らかだと判断したらしない」とありますが、「心肺蘇生で延ばしたとしても数時間だろうという判断をした時にしない」ということではないのですか。

小原 その二つは実際上、多くの場合に殆ど同じだと思うのですよ。

勝村 説明を聞けば分かりますが、「後数時間だと判断したらしません」というのは、表現上はどうですか。

原 それは私が言った点でもありますが、心肺蘇生をするかしないかを最終的に決める場面は、停まった段階ということですから、事前に決めてしまう必要性は別段にないです。

東 元々は、「きっともう、そうなるだろうから、『その時は何もしませんよ』とあらかじめ言っておけば、ごたごたしないのだけど、それを聞いていないと、『とりあえずやりましょうか』ということに、今はなっている」みたいな話の中で、出てきた発想なんです。あるいは、「そういう話もせず、もう何もかも曖昧にして、やらないということも良くない」というような話もあったのです。だから、立岩さんの文章のこの括弧の中で、確かに誤解を招くとしたら、全身の状態が悪いということを、「後数時間で亡くなる状態」というのではなく、「心肺蘇生をしたとしても、数時間程度も動くことは期待できない」というように言った方が分かりやすいですね。ただ、その状況の、もっと大きな大状況がどうだったかということは、やはりどこかに書いておかないとダメで、「ある大きな状況の中で、心肺停止をして、しかも回復したとしても、数時間保つか保たないかというような状況の時には、心肺蘇生はしませんよ」ということですよね。

原 前提状況で「全身の状態が悪化して、回復が見込めず」と、とりあえず入れておいて、「停まった後に、蘇生措置を試みても、わずかな期間しか、その延長でしか生きられない場合」とした方が良いのかな。

立岩 心肺蘇生をしなければ、その時点で亡くなってしまうという状況で、心肺蘇生しても数時間ということですね。

勝村 そう書いてくれたら分かりやすいけど、「もうすぐ死にそうになった時には、もうしません」と言われても、素人的には「もうすぐ死にそうな時がいちばん集中治療して欲しい時ではないか」と思うではないですか。だから、「濃い集中治療をしてもダメだろうと判断した時には、しません」という方が、分かりやすい。

原 現実的には、停まる前に「どうしようか」という話を、ある程度はしないといけないわけですね。

東 そうですね。だんだん心臓が落ちて、血圧が下がってきて、「えらいこっちゃ停まるぞ」となって…。

勝村 その時に「心肺蘇生をしないでおこう」と判断する理由は、「心肺蘇生をしても、もう数時間だろう」ということですね。

東 ある状況の中で「やっても、もう無駄だよ」という判断を、以前にしているということで、普段もそう思っているから、「前もって言っておこう」みたいな話が、最初の発想ですね。

小原 ただ、前もって言われる相手は、だいたいご家族ですよね。ですから、ここに書いている「ご本人が望むか、許容する」ということは、現実には殆ど起こり得ないわけですよね。だから、「本人の希望とか許容というのをどういう形で確認するのか」ということが、ちょっと問題になってくると思うのですよ。

原 ただ、「殆どない」とは言えないんじゃないですか。

勝村 いや、「この紙を渡すタイミングがいつか」という問題ですよね。

東 と言うよりも、「『我々の病院ではこういう考えで医療をやっています』ということを受け入れられた方がここにいます」という状況になるような告知の仕方をすれば、「特別な意思表明がない限りは、皆さんはこういう方針に従っていただいてます」という、暗黙の了解を得た形にしていくしかないですね。

小原 そうですね。これは日常のメッセージだと思いますから、DARの同意書を突きつけられるより、こちらの方がはるかに心理的には良いと思うのですね。

東 こういう考え方でやっていることを読んでもらえば、その状況は分からないはずだけど、とりあえず自分のこととして、いろいろと考えてもらえるし、僕なんかもこれを読むと、そうだなと考えましたね。

勝村 立岩先生はこれをどのタイミングで全員に渡すイメージなんですか。

立岩 これはわりと早目に渡したら良いと思うのですが、特に家族との関係で「間に合うまで」といった話があると思うので、そのへんはそういう可能性が出てきた時点で、本人に聞けるようなシチュエーションであれば、本人に聞くこともあるだろうし、家族とのやりとりの中で話をするということなのかな。

勝村 例えば入院時とか。

立岩 入院時というか、どういう場合なんでしょうね。

広瀬 「自分は死に際をどう決めておくか」と考えておくことも大事なことと思うのです。若い人でも、歳とった人でも、このことだけならいつでも考えられると思うのですけど。

小原 それがいちばん大事だし、正に年齢を問わず、本来そうあるべきだと思うのですが、今は社会の仕組みがなかなかそうはなっていませんよね。

原 命に関わるかも知れないような入院の時という前提で、渡すぐらいで良いようにも思いますし、逆に、広報紙なり、そのへんに貼り出しておいたら、渡されることの抵抗感が少ないかなとも思いますね。

東 ウチの病院はそうなってませんけど、入院案内のしおりの一つとして入院時に渡しても良いのではないですか。アメリカの病院なんかでは、分厚い保険の契約書みたいなものを渡されるそうですが、それに似た形で、「私どもの病院はこのような考え方で進めており、あなたが万が一そういう状況になられた時には、こういうふうにいたします」と、あらかじめ宣言するような形で、一つの一般的なメッセージとして出したら良いのです。ただ、個別にはもう一度、「読んでいただけましたか」みたいな確認の作業は要るだろうとは思いますけどね。

勝村 ただ、ある程度は重症でないと。若い子がちょっと切って整形に掛かった時に、これが入ってても…。

東 いや、考えられる状況がそうですから。

勝村 それはそれで良いのかな。

立岩 通院だと、「なんや」というのがあると思う。まぁ、入院の時に「パジャマとか何やらを用意してください」とかいうのがあるじゃない。アメリカみたいに、あらゆる免責条項が書いてある厚いのは、うっとうしいと思うのだけど、数ページの冊子の半ページか1ページに載せれば良いと思う。

内田 これだけが突出すると、唐突な感じもしますが、他のものも含めた病院の基本姿勢の冊子のようにすれば、抵抗感がないですね。

勝村 「全部が載ってる中で、これは俺には関係ないけど」と判断できますね。これぐらいの量やったら読みやすいし、そういうところに書く文章としたら、最高の文章やね。

東 そういうことを読んで、自分で考えていただければ、素晴らしいと思いますね。ただ、我々も変に拡大解釈をしないように、その趣旨を常に読まないといけないですね。「やらなくて良い」という話なので、現場は「面倒くさいことはやめておこう」みたいになりかねませんが、「もっとやるのだよ」とこういうふうに書かれていたら、「病院とはそういう所だった」と、僕らにも思い出させるようなところがあります。

小原 これによって患者の意識も変わってくると思うのですよ。今までは、本人がどう考えるかということは端に置かれ、本人をスキップして、家族に同意の確認を取ることが多かったと思うのですけど、これを事前に見ていると、患者さんによってはかなり明確な意識がある段階で、「自分の場合にはこうしてくれ」と言い出しやすくなりますから、医療現場の流れが少しは変わるのではないかという期待もあります。

東 立岩先生に質問したいのは、P5の「基本的には命を救うところである」という文章の中に「生死に関わることは自分で決められないんだよ」という話がありまして、生と死に関わることは、「私はもういいよ」と言われたからといって、軽々しく「はいそうですか」とは言えないということですが、僕らはいわゆる自己決定権という呪縛の中にいまして、普段よく言っていますから、そういう逆のことを言われると詰まってしまうところがあり、どのように上手く調和させれば良いのか悩みそうです。

立岩 ここでは、「生死に関してはその人が決められないこと」とまでは言ってなくて、むしろ、「『決めることですよ』とこちらが言うことの意味というのは、どういうことなのか」という言い方になっていると思います。

小原 普通、安楽死への滑り坂を下っていくための潤滑油としての自己決定権というのは、「自分の命だから、最期も勝手にさせてくれ」という形で、死期も含めて自分で決めるようなことですよね。ところがここでの自己決定権の適用の仕方というのは、自分で自分の死を限定するのではなく、「できる限り自分は生きていたいという場合には、言ってくれれば最期まできちんとやりますよ」という意味での、自己決定権の使い方なので、前段階で心配されている、滑り坂を下っていくというところでの自己決定権とは、ちょっと違うと思います。

東 その趣旨を僕自身は理解できますが、一般論として、患者さんの方から「それは自分の勝手やないか」とか「医療者が決めるのはおかしい」とか言われた時に、どのような答えを返したら良いのかが難しいのです。

小原 どうですか、立岩先生。言わば「自分の命を長引かせるにしろ、短くするにしろ、自己決定権というものが前提となっている中で、どう医療者側が対応できるか」ということですが。

立岩 結構、いろんな対応がありますよね。本当の末期の人の不安感は分からないので、お伺いしたわけですが、やはり「早く死にたい」という人もいるわけです。そういう場合、「どうしてそう思うのですか」と聞いて、よくよく理由を詰めていくと、一つか二つしかなく、特に身体系が全然動かなくなる人の場合、「自分が生きていたらどないや」と、お金と人手の話に収斂します。それで、「結局、あなたは死にたいわけではなく、人に迷惑をかけるのが嫌なのね」という話になると、100パーセントの人が「そうだ」と言うのですよ。積極的に「死にたい」と思ってるわけではなく、「生きることによって周囲にマイナスを与える」ということですから、「周囲に迷惑をかけないようにできれば、あなたは生きたいのね」という話になるわけです。実際にはそれを一つの病院や一人の医師ができることではありませんが、「それなりにしよう」という努力をすることで、「これやったらいけますから、私はなんでも生きますよ」という話に落ち着いたケースを知っています。解決にはそういうケースもあるので、だいたい、究極の難問まではいかないという感じですね。

勝村 先っきの「救急の場合は除く」という文面は、「慢性的で、癌の末期で、長い闘病をしてきて、それでどうしようもない場合に」というのが一つの条件ですよね。

原 ええ。でも「癌の末期」などと言うと、かなり限定的な話ですが、単に歳がいっていて肺炎を引き起こすというように、パターンはいっぱいありますね。

勝村 そういう全身の状態が一つと、もう一つは、第一段落で「やることは全部やりますよ」と言っていて、第二段落は「ただし、心肺蘇生という行為に関しては」ということですから、「心肺蘇生以外の全ては精一杯やりますよ」というのが、第一段落ですね。

東 普通に読めばそうですよね。

原 ただ、「気持ちの良い状態で長生きができるため」というあたりに、まだ詰められていない部分が残っているのですが。

立岩 予後が少し長くはなるが、ハードな療法できついというのと、きつくはないけれども、予後が短い可能性が高い療法がある場合、「必ず、長くなる可能性が高い方を取るべき」とは言い切れないと思うのですよ。だから、「常に、最も物理的に寿命が長い選択肢を、有無を言わせないでやります」という話にはなっていないとは思うのです。それが「気持ちがいい云々」という言い方なんです。

勝村 「滑り坂を云々」の話がありましたけど。これは本当に、そういう状況の患者の心肺蘇生に関することだけを書くようにしないと、この文章とかこの前後の拡大解釈で、逆に「滑り坂」になっちゃうかも知れない。

小原 ええ、そうですね。広い意味での延命措置ではないですから。

東 心肺蘇生措置についての考え方ですね。

勝村 だから「ここから読み取れる自己決定権の考えはどうなのか」といった深読みはしない方が良いですね。

小原 そうですね。限定すれば、あまり拡大解釈もされないと思うので。

原 タイトルをもう少し「心肺蘇生について」ということにすれば良い。

勝村 「心肺蘇生に対する本院の考え方」ぐらいにすると、より分かりやすくなると思う。

東 それがいちばんですね。

立岩 本人が別に何も言っておらず、家族が「お父ちゃんがまだ来ないので、ちょっと待ってて」という場合を、この文章はきちんと書いていないのですが、その場合はどうしましょうか。

勝村 「家族がそう言うこともあるから、あらかじめお医者さんと相談しなさい」と書いてあるわけですね。このタイトルが中途半端だったら、終末期医療全般に関する考え方を書いているかのように思われて、例えば「人工呼吸器なんかも同じようなんや」とか、分かりにくくならないためにも、シンプルに…、

東 …きちんと、「心肺蘇生とはどういうことであるか」と説明しないといけませんね。

原 とりあえずその範囲の話ですね。

立岩 本人の意思は分からず、家族は「やってくれ」と言っているケースについての考え方というのが、ここにはきちんと書いていないのですよ。それはどういう姿勢で臨むことにしますか。

勝村 それはあり得ますからね。入院時も既に意識ないとかね。

東 ただ、僕が思うのは、「ただ心臓を押しているだけで、『医者がご臨終ですと言うまでは死んでいないのだ』というのは形式的なことですよ」ぐらいまで言い切って良いのかな。例えば「後1時間、待ってくれ」と言われた時には、もう生きてる状態ではないのですね。息を吹き返す方も中にはあるけど、こういう前提の状況では、実際には、もういくらやっても戻らないことの方がむしろ多いと思いますね。

勝村 それは、心肺蘇生の後に書いている「要説明」の中に、「心肺蘇生というのは、そういうもんなんだ」ということも含むことで…。

小原 いやいや、そういう「儀礼的なものだ」というのは書けないでしょう。

東 そこに、そういうことはやっぱり書いてはいけないのですね。

小原 ちょっと書きにくいと思うのですね。やっている以上は、やはり「蘇生の可能性を信じてやっている」ということを貫かないと、最初のものとずれてくる可能性がありますから。

東 逆に言うと、我々が「この方は実は死んでいるだろう」と思っていたとしても、ご家族が「その方が死ぬまでに間に合った」「死に目に会えた」と思えるかどうかだけの問題ですね。日本の通例で言えば、「医者が手を離すまでは生きてる」ということで、それはそれで良いわけですね。

小原 そういうことですね。

立岩 本人の意志は分からず、家族は「いまわの際まで」と言っているケースの場合に、どういう対応をするのかということですよ。

勝村 それは、倫理委員会として一定の法則を出すのは難しい。

小原 これは多くあるケースですから、結構、大事だと思う。「とにかく他の家族も死に目に会わせたいので、がんばってやって欲しい」と言う人もいますが、「こういう状態なので、無駄な延命はしない方が良いですね」というふうに医師から言われたら、「あっ、そういうふうに長引かせんでください」と言う方が、件数としては多分、多いと思うのですよ。ですから、やはり医師の側から投げかける最初の一言で、次に移す行動がかなり影響を受ける可能性はあると思います。

内田 このケースは、そういうことを医師の方から言った段階で、多分、家族の方が受け入れるのではないかと思います。受け入れられない状態というのは、急変が起きたりとか、年齢がかなり若いといった違う状況の場面で、「現実的にはもう亡くなっていることは分かるのだけど、そのことを否定したい」というか、諦めきれない状況がある時ですね。

原 言葉遣いで言えば、この「ご本人が許容されるのであれば」というのは、「拒んでいなければ」みたいな受け取り方もできます。「許容」と言うのなら、やはり意志確認をしないといけないですね。

小原 論理的に言うと、二通りのパターンを考える必要かあります。一つは本人の意志確認ができて、なおかつ望むか許容している場合と、もう一つは本人の意志確認ができてない場合はどうするかということを、ここに入れておく必要があると思います。だから、「本人の意志確認はできないけれども家族が望んだ場合は、全面的に受け入れるのか」ということですね。

立岩 「拒んでいなければ」という条件に変えるというのもあるように思いますね。本人がどう思っているか分からず、家族が心肺蘇生を望んでいる場合、「言ってきてくだされば、それには対応します」という話になると思うんですよ。とは言っても、言われた通りにするというストレートな話ではなく、「やることはできるけれども、事実上、機械がパルスを処理させている状態になるだけです。それでもやりますか」ということですね。「それでも」という場合は、僕はあり得ると思います。非科学的かも知れないけど、本人が嫌だと明言していなければ、本当に最期の数十分なり1時間ということなら、あるのかなと思うのですね。

勝村 「処置します」ではなく、「処置することもいたします」と書いていますね。

原 今のは、具体的には本人の意向が必ずしもハッキリしなくて、家族が望むか、その方がよかろうと判断できるような場合ですね。

勝村 下から4行目の「尊重すべき」というのは、どれほどの強さなんですかね。

小原 ここは素直に「尊重します」でも良いわけですよね。どうなんですかね。

原 本人があまり望まなくて、家族が望んだら、これは本人を優先するのかな。

勝村 これは、本人が最優先という文面ですね。

立岩 「本人がやめてくれ」というのであれば、本人が強いということですね。

原 だから、この場合はやっぱり、二つに分けた方が良いですね。

勝村 「最期を見届けたいという家族の思いを尊重する」の「尊重」という言葉は、ちょっと強く感じますが、どのへんのイメージにすれば良いのか難しい。

原 「尊重すべき」と言うと、「そちらの意志に判断を任せる」という感じなので、例えば「貴重だと思います」とかね。

小原 言葉はいくつか考えられると思いますが、結局、「言われたらしますよ」ということかどうかということなんですね。「家族が来るから、ちょっと待ってくれ」と言われたら、従うのかどうかということですね。

勝村 本人が「やめてくれ」と言っていたら、従わないでしょう。「本人の気持ちの方が優先ですよ」ということは、ちゃんと読めば分かるのだけど。

立岩 分かりやすいかどうかですね。原則さえハッキリすれば良いのですが。「拒んでいなくて、家族がしてくれと言う場合、どうするか」ということですね。

勝村 「拒んでない場合に、意志確認が取れない場合も含むということで揃えようか」という話です。

原 本人の意志がハッキリしなくて、家族が「やってくれるな」と言った場合は当然、やらないですね。

小原 文章の細かい手直しは次回までにお任せするとしても、その文章を作る上で、絶対に押さえておかないといけない事実関係や判断のポイントなどがあれば、今日にお聞きしたいのですけれども。

勝村 府立医大の臨床研究はいつまでに決めなければいけないのですか。

小原 議事(1)ですか、誰も聞いていないので、よく分からないのですが、もし近々のものであれば、今回を逃すと、意味がないかも知れないですね。

原 多分、大丈夫のような感じはしますけど。

立岩 やるとしたら誰がやる。

東 前立腺癌ですから泌尿器科になると思います。泌尿器科の先生が多分、大学の関連の病院に「これをやりましょう」という呼びかけがくるので、「それに応じた方が良いか」ということがあると思いますね。悪性新生物単独治療対、酢酸クロルマジノンという薬を使った比較治療ですね。

原 予想というのもなしですから、やっぱり聞かないと、よく分からないですね。これ自体は純然たる臨床研究でしょう。

東 どっちが良いかみたいなことですね。

小原 これの扱いはちょっと分からないですね。

勝村 府立医科大学の倫理委員会で承認された実験ですね。

原 されたのかな。

勝村 P4の10番に「患者用の説明文書が承認された」と書いてある。

小原 いや、そうやないでしょう。これで倫理委員会にかけているのではないですか。

勝村 あっ、そうなんですか。

原 どうなのかな。「倫理委員会を通している」という意味なのかな。「通す」という報告なのかな。

小原 これを読んでも、なかなか議論のポイントが見えてきませんので、これを今回は扱わず、もし間に合うのであれば、次回に回しましょう。

原 それほどの緊急性のある話ではなかろうと思いますね。

小原 そうでもないとは思うのですけどね。

原 本題の表現問題に戻ります。後は「医師を含む複数の医療者」というところが骨格部分に関わるとは思うのですが、患者への説明をこれぐらいにしておくのかということですね。しかし、これぐらいにしておいたとしても、ガイドラインには、内部の進め方の話とかが、もう少し要るだろうなということですよね。

小原 どう判断するかという、判断の手順ですね。

東 「自分たちの考え方をどのように運用するか」という部分は要りますよね。

立岩 載っていましたっけ、載っていませんでしたっけ。

原 議論はしていたけど、前回は知りませんけど、詰められてはいないと思います。

東 同意書のようなものは出ていたと思います。ただ、具体的にどうするかという話にはならなかった。

立岩 正直言って、どのぐらいやったら良いか難しいですね。限られた短い時間に集まって判断しなくてはいけない話ですから、現実的な可能性みたいなこともあるでしょうし。

小原 ここでせいぜい言えることは、少なくとも「一人で勝手に判断しないでくださいよ」ということですね。ただ、「複数」と言った場合、3人や4人といった人数で判断するというのは、以外と難しいのではないですか。現実に可能な範囲で考えないとダメなんでしょうが、ここではそのことには触れずに、これぐらいの表現で良いと思うのですけどね。

立岩 だから、患者さん向けの文書ではそういうことで良いのですが、内部でのやり方の話は、どんなイメージで良いのかということですよね。

原 それは状況の緊急性と言いますか、時間がどの程度あるのかによって手順も変わり、時間のある場合とない場合を、それぞれ考えないといけないと思います。思いっ切りあるのなら、倫理委員会でやれば良いのですが、おそらくはそんな話は現実的でない場合が多くて。

立岩 この場合、僕は職種の話ですね。医師2名とか3名とかという話なのか、医師1名足す看護師などという話なのか、最適ミックスがどんなパターンかはよく分からないのですが。

広瀬 この間も若い研修医の方が、「しない」となっていたのに行い、「なんでしたんや」って言われたといういう症例がありましたけども。そういうことも起こってくるかも知れませんね。

小原 最悪の場合、「きちんとやってくれていれば、もう少し生きれたのに、『しない』と勝手に判断されたから、死んでしまったのや」という形で、訴訟になることも考えられます。そこで、先っきの意見書にあったように、「決定したとしても、そこは免責される」という医師の免責事項が欲しい人も、やはりいるわけですよ。

広瀬 主治医でないといけないとか、そういうことはないのですか。

小原 もちろん、主治医が関わるのが望ましいとは思います。ただ、その場にいないこともありますから。

立岩 これは24時間、いつでも起こり得ることですよね。

東 だから、心肺蘇生をしないような状況になる大状況というものを、ある程度は認定するべきですね。その時には若干、時間の余裕があるはずですから、複数の医師なり看護師なりという形で、「この方は今までの経過はどうだ」というようなディスカッションを、むしろしないといけない。そういう大状況の中で、「突発的な事故などでなければ、心肺蘇生はしませんよ」という、医師たちの統一した判断になっておれば、いざという時には、基本的に誰が対処しても、「心肺蘇生はしません」という最終的な判断ができます。ただ、「突発的な事故ではない」という判断は、その現場の人がやることになりますね。

立岩 やっぱり1人は、主治医であるにせよないにせよ、病状の進行など、患者さんの全体像を把握している人を含めるのが、一つの条件になるでしょうね。

原 だから、大状況下での判断という前提で、とりあえずは良いのですね。その大状況下で、急変して停まるということは、今晩かも知れないし、明日かも知れないが、あるということですよね。

東 ありますね。お餅を詰めたりといったこともあるかも知れませんが、そういうのは対象外の話で、心肺蘇生をやらなくてはいけないですから、やはり、いざという時のそういう判断は必要ですね。

原 そうですね。要するに病状の悪化によるものなのか、そうじゃないのかという問題もあり、その時の判断も要るわけですから、両方が要るわけですよね。

内田 医師は、治療方針の決定などの判断について、責任を持ちますから、判断という言葉を非常に重く思い込むところがあります。「医師を含む複数の医療者」と言えば、医師と看護師というのがいちばん考えられる場面だろうと思うのですが、その判断の中に、看護師も含めて一緒に入っていたら、「その時に居合わせた看護師さんにとって、その重さはどうなんだろうか」と、これを見て思ってしまったのです。かと言って、最期の内部の手順だとかを判断する時に、現実的に医師が複数もいるのかとか、いろいろあると思うのですが、何らかの形で一人で決めないということにより、歯止めを掛けないといけないし、そのへんはどうなのかな。

橋本 それは医療的に判断をするということですよね。「医療的に確実に死を迎えることが明らかだ」という判断を1人ではなく、複数でするわけですが、看護師に医療判断はどうなんでしょうかね。

東 責任といったことでは、やっぱり最終的な判断は医師がすることになるだろうと思いますね。ただ、その判断の一つのプロセスの中では、「きちっと複数の意見が入っています」という形を取ろうということですね。

原 一般的に想定されるのは、複数の医師か、ドクターとナースで、それ以外はあまり考えにくいですね。

勝村 実際にその患者にあまり接してない人では、形式的になってしまいますからね。実際に接しているのは、医師と看護師でチーム医療をしているということですよね。

原 多分、「ナースが判断に加わることについて抵抗感があるか」というご質問だったと思うのですけどね。

東 「蘇生措置をしないという部分が、自分たちの意見で決まったとなるのは重い」ということですね。

原 それは、重いのですか、重くないのですか。

橋本 この想定は、急変や事故などではないということですよね。例えば夜勤帯には、当直の先生が案外その患者さんのことを知らず、看護師の方がよく分かっているということもありますね。そういう時はやっぱり、看護師さんが「経過はこうなんです」と説明しながら進めていくこともありますから、そう重くはないと思います。

原 多分、だから二段階が要るわけですよ。大状況として、基本的にこの方針の範疇に入る患者さんになったという時と、実際に停まって、「本当にそれで良いですね。他の問題ではないですね」という確認作業と。

東 当直医が呼ばれたりとか、一般的には、確かに事情が分からない医者がいる可能性は高いですね。看護師は分かっていても、呼ばれた人間は「どうしたら良いの」みたいな状況の方が、可能性は高いかも分かりませんね。主治医も当然に呼び寄せられますが、時間的にはすぐ出て来られないないことが多いですからね。

小原 その場合でも、事情を分かっている人が1人・2人いれば、一応、複数で判断はできますよね。

東 一応、経験ある医師は、「これはもうダメだな」といった判断はできますし、その元の状況はこうだったということであれば、「では、そういうことはしないということなんだね」ということは判断できる。

原 そういう意味では、むしろナースは基本的に入っていた方が良いとは思うのですが、ナースが加われないというような状況もあり得ますか。それは考えにくいですか。

東 全然わけの分からない人ばっかりということはないですよね。新人さんや若い人だけということはなく、必ず、状況が分かっている人が最低1名は、どんな時間帯にもいると思いますね。

立岩 内規的には、医師1看護師1が条件で、その内の1名は少なくとも、患者さんの病状や来歴といった全体を知っているという、そのへんが条件なんですかね。よく知っている人というのは、医師である場合もあるし、看護師である場合もあるというイメージですかね。

原 内規的に考えれば良いのかな。

東 そうですね。それは少し内部で検討します。

原 後は、例えば外科と内科というように、複数にドクターのジャンルを変える必要性があるのかどうか。

小原 それはどうかな。

東 例えば僕だったら、内科の先生が言うことには、「あぁそうですか」みたいな話になってしまうので、ただいるだけなんですよね。

原 小児科とかは、あまり現実的ではないのかな。

立岩 密接なのは看護師さんで、明らかに知っていらっしゃいますね。ただ科が違っても、違うとかね。

原 一般論として言えば、一つの診療科のチーム内だけで判断するという形は、外形的に見ると危なっかしい。

勝村 3名以上が良いような気がするなぁ。看護師さんが2名入っても、それほど非現実的ではないですよね。

橋本 そういうことはないですね、だいたい3人はいますからね。

勝村 医師・看護師1名だったら、医師1名とあまり変わらない状況下と見なされますからね。

小原 内規を作る段階では、「数名」ではなく、3名なら「3名」というように、人数を特定した方が良いと思うのですよ。

東 まぁ、3名は要るでしょうね。

勝村 「医師を含む3名以上の医療者」。

原 前段の大状況判断の段階に関しては、3名で可能ですね。後段は2人でも良いように思います。

勝村 後段は、条件を厳密にすればする程、非現実的になっていくからね。

東 自分たちの主観だけで行ったのではなければ、これからは難しい大きな判断をしたことに対しては、客観性を持たせないといけませんから、一つの科だけでやっても良いのかを考える必要はありますよね。整形外科なんかはそういうことはありませんが、外科なんかだと、比較的に内科のことは分かる部分もありますから、そういう見識を持った人間を、お互いに何人か配置することは可能だと思いますね。そして、「その方について、そういう判断をしたけれど、どうだろうか」と、意見を述べてもらうことも有意義なことだと思います。

原 それは具体的には、治療方針のカンファレンスみたいなものが基本的にあるわけですよね。

東 医師とナースとかの拡大カンファレンスは日常的にやっていますが、他の科の者が入ることはないですね。

勝村 最初に大きくやる時は、カンファレンスの場を通じて行っても、非現実的ではないわけですか。

東 そこに全然関係のない科のドクターが加わるということが非現実的で、なかなかそれはありません。

勝村 他の科を含めなければ、内規的には、カンファレンスの場で判断するということで良いわけですか。

東 3人どころではなく、人は多過ぎるぐらいですね。

勝村 だけど、それは現実的にできるのですか。

東 「この方はこういう病状で、こういう経過で」という話で、いろいろな意見を出し合うことは可能です。

原 そこに他の科の人が来るということは?

東 同じ内科でも、あるドクターとあるドクターが一緒にカンファレンスできないぐらい、スケジュールが混んでいて時間が取れないので、他の科の先生が出てくるのは難しい。だから、そこで決められたことが妥当かどうかを、どこかでチェックするみたいな話になると思うのですね。

橋本 そこで決める時は、医師がだいたい1人で、主治医が1人という場合が多いですね。

東 主治医が1人で、後はナースなどの係の人がいるというカンファレンスが、基本的には多いですね。

橋本 医師が1人で良いのかというのは、確かにありますよね。

東 外科系はわりと、手術なんかをやるだけに、全員が出てきてやるということもありますが、内科の方は個人プレーヤなんですね。だから、主治医ごとにカンファレンスをやってます。

広瀬 だから、そういう状況を知っているナースが多い程、私たちは安心ですよね。

東 そうそう。だから、ナースの方が全体をよく知ってますよね。医師の方は同じ内科でも、自分の受け持ち以外の人がどうかということは、同じ病棟にいても全然、知らない可能性があり得る。

広瀬 家族とかそういうことことも、ナースは分かっているし。

東 そうそう、いちばんよく分かっているのですね。

原 そうすると、カンファレンスの場ではないにしても、別の診療科の場合は、基本的にはドクターかな。

東 医療判断が妥当かどうかということでは、そうでしょうね。

原 それを加えて、なるべく関わりのある人が望ましいという意味で、「ナースは何人も関わった方が良い」というぐらいでしょうか。

東 カンファレンスには、別の視点というのが大事なんですね。

小原 そうですね。時間がだいぶ迫って参りましたので。今、議論した部分は、いずれ病院内における内規として整理する必要があると思います。それと独立させて、患者さん向けの文章は、それに先んじて定めることができると思います。「誰が判断するのか」という判断の主体者に関しては、患者向けの文章にはこれぐらいの内容で、そんなに大きな問題はないと思います。ですから、立岩先生に今日の議論を改めて整理していただいて、次回、「こういう形で出したらどうか」ということを、もう一回、ご提示いただけますか。申し訳ないのですが、その時に「心肺蘇生とは何か」ということも一体として説明していただいた方が良いと思うので、それも含めた形で、A4、1枚に収まるぐらいの程度で、患者向けのモデルのようなものを出していただけますか。上手くいけば、それを中心として次回に患者向け文章を確定できるかも知れませんので、一応、次回の完成を目指して、進めていきたいと思います。

原 手順的には、そんなに話は残ってないと思いますけどね。

小原 そうですね。今までのことが前提ですね。

原 内容のことを話していたら、そのあたりと、後は、現場だけに残すのではなく、「そういう判断をしました」というリポートか報告みたいな形で、院長なり副院長なりへと上がっていくような仕組みも、考えた方が良いと思います。また、悩むような問題が生じた時のため、委員会に諮るのとは別に、個別的に相談できる倫理コンサルタントみたいな部分も、もしかしたら要るのかも知れませんが、今のところ、その点ぐらいですね。

小原 院外のコンサルタントということですね。

原 院外の人間ですね。具体的に言ったら、このへんの人間ですね。

小原 はい、分かりました。そのあたりも、次回に時間があれば、内規的な部分も合わせて議論したいと思います。まずは、患者向けの文章を確定し、そして時間の余裕を見て、次の段階にまで踏み込んでいきたいと思っています。では、次回の予定ですが、今日は院長がいないから、決められないのではないですか。

内田 彼は第3木曜日がダメなんですが。

小原 分かりますか。2ヵ月に1回ぐらいのペースで行っていますので、4月で良いと思いますが、事務長さんの方からご提案いただけますか。

内田 それでは4月24日ということで。

小原 都合の悪い人はいませんか。おられないようなので、4月24日火曜日の18時30分から、第21回の倫理委員会を予定しておきたいと思いますので、よろしくお願いします。では、今日も長時間、どうもありがとうございました。

 

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