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第十五回 倫理委員会 議事録

京都民医連中央病院

日時 2006年4月20日(木)18:40~21:00
場所 太子道診療所 3階 多目的室
出席者

外部委員 小原委員長、原副委員長、勝村委員、立岩委員、広瀬委員

内部委員 吉中委員、東委員、内田委員、出島委員

事務局 岸本、丸山

オブザーバー 山中、橋本

欠席 外部委員 村井委員
内部委員 高木委員、田中委員

終末期の苦痛緩和を目的としたセデーションに関するガイドライン

 

議事

小原 定刻を過ぎましたが、ただ今より第15回の倫理委員会を開始したいと思います。原さん・勝村さんからは「少し遅れる」という連絡が入っておりますが、もう来られるそうです。村井先生は「今日は裁判のご都合でお越しになれない」というご連絡が入っております。 

それでは、もう今日もですね、いろんなご資料が盛りだくさんなんですけれども、前回はですね、エホバの証人の輸血問題等々を話したのですが、それは特に急を要する事態でもないということもありますので、継続ではなしに、少し寝かしましてですね、次回以降に扱うことにいたします。そして今回、また新たに必要度の高い案件がありますので、今回は扱っていきたいというふうに思います。

それではまず議事の(1)番目ですけれども、「委員の変更についての提案」というのがございますので、これについてまずご説明をお願いします。

岸本 それではすみません、森元先生は、前回から北村先生と交代で着任していただいたのですけど、秋から研修に出るために続けられないので、小児科の出島医師と交替する変更提案がございます。事務の方も人事異動の関係で、病院事務長は岸本から、今日、来ていただいていますの内田へと交替する提案とします。ただし、北村医師が抜けたり、委員もいろいろこの間交替がありましたので、委員会の継続性を担保するため、事務局の方は岸本が継続するということで提案させていただきます。

小原 ということで、認めていただきたいというふうに思います。

それではこの(2)番目、今回のメインですけども、「『終末期医療についての指針・手順』および『心肺蘇生術中止の手順』を検討するにあたって」ということで、これもいろいろ資料がありますけれども、どなたからご説明いただけるのですか。

岸本 最初は、医療安全委員会の方で院内的に、射水市民病院の事件が報道された直後に、少し実態を掴んでおいた方が良いということで、アンケートを実施しましたので、東委員からアンケート結果についての説明をお願いします。

東 はい。事前の資料にあります。これは射水市民病院の例の事件が大きく報道されて、比較的早い…。質問のその内容は1ページ目、2ページ目になりますけども、いわゆる「横浜地裁の基準というのがどういうものか」ということで、「それを知っているか」、また、関連して「治療の中止」ということに関したこととか、あるいは、「具体的な今回の事件について何か意見あれば」というようなことを聞いています。

対象は、医師と、それから部署のリスクマネージャーに任命されているもの、主に看護師です。総数50人の回答を得ました。内訳は医師が24となっています。 

回答の特徴は、横浜地裁の内容については比較的知っている、2番目はちょっと少し「エッと」言うような答えですけども、「医師が安楽死または類似行為をしたことがあるか」ということに、医師以外の方で「ある」と答えている方が1人あります。ちょっとどういう内容かということは分からないですけども、そういうことだそうです。それから、「どういう手続きを取ったのか」というようなことがそこに書いてあります。それから、いわゆる「尊厳死ということの要件を知っているか」とか、それから、「それに類似した行為をした経験があるか」ということについては、もちろん定義は人によって違うと思いますが、「そのようなことに関わった」あるいは「した」という方が、医師で6人を含み、全体で10人ぐらいあるというようなことです。

次のページには具体的なものが比較的にあります。特徴的なのは、具体的意見を書いてもらったのですが、ここにはいろんな意見がありました。って、いろいろな意見がありますので、なかなか一つにまとめきれないのですけれども、6ページのところは少しそれをまとめてみたような形で、基本的には、我々は尊厳死そのもののお話を、いわゆる安楽死とかそういうものを、認めるか認めないかみたいな議論を、ここでは全然求めているわけでなく、事件が大きいですから、むしろ事件の中身で質問していますので、「そのことがどうか」という意見はあまり判断せずに、むしろ「それはどういうことであるか分からない」というようなことを書いておられている方が多いです。 

そういうこともありますが、「仮にそういうものが許されるとして、どういうふうにそれを判断していくのか」みたいなことで、少しまとめてみました。で、「初めから治療しないという場合にはどうなのか」、「治療を中止する場合は、どういうことが実際に治療を中止するという行為にあたるのか」というようなことも、人によっていろいろありますが、まぁ「分からない」ということですね。 

それから意思決定の問題については、やはり「患者さんが本当にそういうふうに決められるのか」、「患者さん自身が決められるか」、「患者さん自身が決められない場合も比較的あるが、そういう場合はどうする」、それから「家族の意見に対してどうするのか」、ここは非常にいろんな意見があります。みんなが常に思っているようなことです。それから「全然、そういう予想外のことが起きた場合はどうするのか」とかですね。そういうようなことで、皆、分からないことだらけです。

それから、手続きと言いますか手段と言いますか、そういう場合にもいろいろで、やはり「一人で決める」というようなことについては、よくないとなっています。それから、いわゆる死が避けられない場合に対しての、一つの意見として「もう延命治療なんて意味がないし、医療費の無駄だ」って割り切った、そういう意見もかねてからあるし、「本人・家族が望むのだったら、さっさと延命治療を止めた方が良い」という意見も、まぁチラホラ見えるというか、実際にそういうように頼まれる場合もあるということですね。それから、記録ということに関しては、キチッと何らかの形で、カルテに残す、書類に残すということが必要だろうということです。

わりと具体的な話でいろいろな回答・意見をもらって、まだまとまり切れていないのですけど、そのような現場の声が書かれているなと思いました。なかなか難しいのですが、以上です。

小原 とりあえず全部説明していただいてから質問、論議に移ります。

岸本 二つ目の方は私の方からします。資料⑦で、新聞報道の中で問題になっているところがどのへんなのかということを少し整理しました。資料⑦と、それから資料⑦の補足資料です。 

この資料⑦の方は、医療界の業界新聞ですが、ほとんど新聞報道された内容を焼き直したみたいな形で報道されているもので、これをちょっと一個一個見ていくと、細かくなりすぎるので、こちらの表に少し落としてみました。 

病院の取り組みは、「終末期医療委員会というのが4月に設置されて、1回目の委員会が開催された」という報道がされています。それで、尊厳死の宣言書を持参する患者さんへの対応をどうするかということや、DNRのこと、それから苦痛緩和など、報道されているのは、8項目ぐらいを挙げてそこで検討していくということで、とりあえず1回目は、「呼吸器の装着をする場合も末期患者さんについては、装着の段階で家族の方との同意を取りいれる」とか、「心肺停止までは、装着した患者さんからは外さない」ということを確認されています。 

行政の動きはかなり早く、報道になっているのが、「終末期医療というガイドライン、もしくは、法を整備する必要がある」という論調がずっとありまして、県や市の方もそうですけども、厚生労働省の方も、公表後の3日目ぐらいにすでに、大臣記者会見において「延命治療の中止の基準作りを早急に進めるように指示した」とあるように、かなりスピードが早いなぁということです。4月の段階では、10日には参議院の方の決算委員会というところで、消極的安楽死に絞って「法制化も含めて検討する」というような発言があって、「ガイドラインにするか法にするか」という、他の法のことも含めて発言されています。それは12日の厚生労働委員会でも同じようなことのようです。

17日には、細かい資料があるのですけど、富山県が県内の115病院からアンケートを取ったということで、今日、1ページ開けていただいたところに、結果の一部が新聞に掲載されています。この内容を踏まえてその知事さんが、厚労省の厚生労働大臣と懇談をしているのですけども、特徴はやっぱり、62.7パーセントの病院が「厚生労働大臣が定める指針を決めて欲しい」みたいなことを言っているということで、やっぱり流れとしては行政のサイドとしても、かなりこういう具体的な法整備を目指してきているということ、それから医療側の方も実際のアンケートで言うと、未整備というものを反映しながらだと思いますが、「早く国の方でそういう基準を持って欲しい」と、かなり強く思っているようです。ここらへんが現実みたいなものかなということを踏まえて、少し資料を整理して出してみました。

それから、立岩先生の方の資料を出させていただきまして、資料⑥と資料⑥追加というのを出させていただいていますので、これは立岩先生の方からちょっと説明をお願いします。

小原 そうですね…。ただ、これはなかなか長文なので、読むわけにはいかないので、ご本人に何か、「ポイントは何なのか」ということだけでも、かいつまんでご説明いただければ。

立岩 出典というか、その経緯だけを言うと、資料⑥~①というのは26日ですから、25日にちょうど東京で集会があって、この話がその日の夕方ぐらいに明らかになったということがあって、ちょうどその時に京都新聞の記者の方が居られていて、それで、その夜に「コメントをくれ」ということで、簡単に文章を記者の方が書いてくれたのが、次の日の朝に載ったというのが京都新聞のものです。 

それから、②は、これは筑摩書房という出版社がありますけれども、そこで連載みたいな形で文章を書いて、掲載されているのですけれども、それの9回目ということで、25日・26日ぐらいに書いたものです。それで、25日は研究集会という形だったのですけれども、ちょうどそういうテーマで集会があったりしたので、そのへんのところと、とりあえず「こんな事を思いますよ」というようなことを書いたという、そういうものです。 

それから⑦というのは、これは清水昭美さんという方でして、以前は大阪大学の医療技術短期大学部とか、そういうところで教えられていたこともあるのですけれども、看護職の資格を持っていらっしゃる方で、ご存じな方がいらっしゃるかどうか分かりませんけど、今は日本尊厳死協会というふうになっていますけれども、以前は日本安楽死協会という組織だったのですね。それが、今ちょっとおっしゃっているように話題になっていますけれども、2005年の1月に、短く縮めれば尊厳死法と言うかそういう法律の法案を出すという動きがあったのですが、実はそれの20年もさかのぼった1970年代の終わりから80年代の初めにかけて、その団体の前身と言いますか、それがやはりその法案を出して、その時は廃案になって通らなかったのですけれども、その時から、その法案に対する反対の運動の事務局というか、そういうことをやってこられた方です。わりあい京都にも縁があって、その時には例えば町田道夫さん、彼はその立場を変えるのですけれども、そういった人たちの間に入って、いろいろ回って活動された方で、僕も入っているのですけれども、今回も阻止する会というのを一生懸命にやっておられていて、この間、ずいぶんテレビにも出させられていたみたいです。その清水さんが作られたメモを、報道といった時に説明するための資料というような形で作られたものだというふうに思います。そういう3種類のものがあります。

それから1枚もので、倫理委員会資料⑥の追加というヤツですけれども、これは実は今日の午後に出したものなんですが、朝日新聞が特に報道という形ではなくて、何人かの人に意見を聞いて回って、それをまとめて3人で1面ぐらいを使うのでしょうか、そういう企画があって、それで1週間か10日ぐらい前に朝日新聞の方がいらして、インタビューを受けて、向こうが原案みたいなものを出して、それをこちらがちょっと手直しをして、今日に出稿しましたから、多分あと数日で出るのだと思うのですけれども、多分、このとおりではなくって、少し変えられて出るんじゃないかと思うのです。そういう形で非常に短いものではあるのですけれども、とりあえず「こういうことを言っておかなければいけないのかな」と思って書いたものです。

それを昨日だったかな、「途中だけど載せてよいですか」という話で、資料⑥-①と、それから②から続くものを出させていただいて、それから今日、新聞の方に送った時には、「そういえばこういうものもあったよ」と思って、「これもよろしかったらどうぞ」という形で含めて出させていただいたということで、資料の性格と言えばそういったものです。

小原 はい、ありがとうございました。

吉中 残りの分を私の方から。

小原 そうですね、よろしくお願いします。

吉中 それでですね、今日に審議していただきたいと思った経緯も含めて、少しお話をします。

最初にですね、資料の②というのがあります。これは、川崎協同病院で事件があって、そのことを受けて川崎協同病院の方と、それから倫理委員会とで検討して、「終末期医療に関する指針」というものにまとめられたものが、この1枚ものなんです。で、地域でも集会をされて、いろんなご意見をいただいて、手直しをして、最後に「これ」ということで、相当、原案とは変わったものになっているのです。これはタイトルがやはり重要で、「終末期医療に関する指針」ということになっています。

ここでの前提は、医療生協の患者の権利章典ということを基本におくということで、これの裏にそれがあるのですけれども、通常の医療を受ける時の患者さんの権利と責任ということで、責任は参加と協同というようなところにあるのですけれども、こういったようなことで、自己決定権をベースにして宣言しているものがあります。で、それを基本にしながら、終末期医療についての定義を設けて、それに基づいて2番以降に具体的な指針を書いています。

当然、その2番目にありますような…、あっ、まず1番目ですね、この指針の中で特徴的なことは、「人工呼吸器の使用中止については禁止する」というふうに明言をしているということです。そのうえで「患者さんの意思が確認できれば」、その下にあります「酸素投与」から4番の「水分補給等々について、差し控えることができる」というような中身になっています。で、それを「一人で決めない、一度で決めないというのを原則として、手続きとしてはやっていく」ということになっているということです。そして、終末期医療ということが、報道と同じようにかなり広い概念で、位置づけられているということが特徴かと思っています。

で、資料の③ですけども、民医連の倫理委員会で当院も報告したりしているのですけども、青森の病院の安田という医師が、「終末期医療におけるDNRの指示を巡る問題点」という論文を出しています。これが優れていると思いますのは、「終末期医療」というふうに全体を広げるのではなくて、上から5行目ですかね、「DNRというのは、終末期医療において心肺蘇生を行わない指示、これについて整理をしたい」というような意思表示を明確にしていることです。で、「DNRの指示というのはどういう概念か」という歴史も振り返っていますけれども、「心肺蘇生法の限界もかなりあるので、医学的な適用を考えて、患者さんや家族の意向を汲みながら行うべきものだ」と、「絶対的なものではないな」ということを指摘しています。

で、次の段落の「DNRの指示の定義を巡る問題」というところは興味深いのですけれども、実際には、臨床の現場ではですね、癌の患者さんもそうですけれども、快復が見込めなく、非常に重篤な状態になって、「あまり長く持たないな」と、「数日かな」という場合にですね、このDNRという指示はやはり使われているわけですね。しかし、このアンケート調査の結果で、医師は11名全員が「心肺蘇生法を行わない」と言っているけれども、看護師41名からは「積極的な治療をしない」とか、「看取り」とか、そんなような形で、いわゆる終末期医療に全部広げて、一応、概念として捉えられているというようなことがあって、そこらへんの問題性を少し指摘しているということです。それに基づいて、「DNRについても倫理的な問題に則って、ちゃんとした手続きでやっていくことが必要だ」というようなことが触れられています。 

で、最後の裏のページの方に、「ガイドラインづくり」ということで、「DNR指示を是認する要件としては4つある」ということで、「患者さんの状態が不可逆で、死が避けられない状態」、「心肺停止時に心肺蘇生を行っても、呼吸・心拍の再開が望めないか、呼吸・循環の補助を必要としない元の状態に復帰することが困難」、「人工呼吸器装着・昇圧剤投与をずっと続けないといけないと推定される場合」、それから「患者さん、ないしは、患者の意向を十分に尊重した形で意思決定ができる家族ないしは代理人が同意していること」、「それを複数の医師や看護師の合意の下で決定する」というようなことに、一応、集約をしています。

で、このあたりが一つの出口ということで、参考されているということになっていますけれども、当院の実態としては、「ご家族に説明して希望されなかったのでDNRとする」というような記載で対応していることも、現実にはございますので、やはり、手順としてもたいへん不十分でありますし、「DNRと終末期医療の区別というあたりも、かなり曖昧であるな」というようなことで、今日の倫理委員会に先立つ医療安全委員会でも、少しそんな議論をいたしました。 

そういったようなことが資料にあるのですけれども、それで資料の⑤が、この前までやっていただいた「終末期の苦痛緩和を目的としたセデーションに関するガイドライン」で、ターミナルセデーションのガイドラインですけども、この中で手順2ということで、「患者の希望の確認」という項目があります。そこで「1と2の手順でやっていく必要がある」ということで、その方が、この2の「セデーションに関する説明をして、受診の同意を得る」と、Aが「患者さんの意思決定能力が保たれている場合」で、Bが「保たれていない場合」ですけども、この1の「保たれている場合」の4ですね、 「患者の希望を確認できた時点で、セデーションの指針の同意を得てそれを記録する」と、「同時に心肺蘇生術の施行に関する意向を確認する」というふうになっていて、この「心肺蘇生術の施行に関する意向」というのが、「DNRに関する確認」という意味ですね。で、議論の過程では、ここのところは当院に手順がないので、一応、そのままにしたままおいているのですけれども。それから、「意思決定能力が保たれていない場合」のBの方も同様に、いちばん下ですね、この項の3のいちばん最後ですけども、「この際にも心肺蘇生術の実施に関する意向を確認する」というようになっています。これも「心肺蘇生をするかしないか」「DNR」というように一応なっていて、この議論の過程では、やはりこの「DNR」ということについては選択の余地があるということで、そこにしているというところなんです。

そんなわけで、改めていろんなご意見もお伺いしながら、少し見聞きしながらしてきたのですけれども、ちょっと協議していただいて、今日の要項にありますような「終末期医療についての指針・手順」というようなことが良いのか、「心肺蘇生術中止の手順」という形に集約させるのが良いのか、両方が要るのか、そんなことも含めてちょっと協議いただいて、「最低、DNRについては整備したい」というのが、私の意向なんですけども、そういうことでお願いしたいと思いました。

小原 はい。これでですね、一応、配付された資料がほぼ全般的に説明されたと思うのですけれども、今日の一つのゴールと言うか、議論の目的はつまり、「DNRについてのある程度のコンセンサスを得ていきたい」というのが一点ですね。そして、最後に説明していただいた資料⑥の「セデーションに関するガイドライン」というのは、これは昨年にフィックスされたものですね、これを補完するような形にした方が良いとお考えなのか、何か別立てで考えた方が良いのか、そのあたりはどうなんでしょう。

吉中 それは一応、別立てで。ターミナルセデーションだけでDNRが問題になるのではなくて、むしろ日常臨床的にはこれ以外の局面の方が圧倒的に多く、癌の患者さんもいらっしゃいますし、高齢者の方もいらっしゃいますし、いろいろあります。ただまぁ、先っきも申しあげましたように、世の中一般は「終末期医療のガイドライン」という話になっていますから、そのへんの関連性も少しご協議いただいた方がよいかと思うのですけど。

小原 そうですね、ですからまずは、概念の枠を決めていった方が良いと思うのです。先ほどの資料③でも、「終末期医療におけるDNR」ということで、終末期医療という言葉が使われてはいるのですけども、他方ですね、今までに紹介された資料の中では、消極的安楽死という言葉も出てきましたので、どういう言葉に議論を収斂させていったら良いのかというのが、やはり一つの問題になると思うのですね。ですから、最初からDNRだけに限定して話を進めていくということも、これは可能だと思うのです。

それから、立岩先生の書かれたものなどから考えなければいけないのは、やはり「尊厳死・安楽死ということに対して、我々はどういう基本的な態度を持ったら良いのか」ということが、今、特に行政のレベルでは、実際にどんどんプロセスが早まっていますので、やはり一定の理解を得た方が良いと思っています。

私が「おやっ」と思ったのはですね、岸本事務長が話を整理してくださった横A3の資料がありますね、資料⑦の補足というので、4月15日に尊厳死協会が見解を提出している中で、「患者本人の意志が明確でない場合には、家族らが意思決定を代行できるよう、法律で規定するのが望ましい」という見解が出てて、これなんかは「ちょっとすごいなぁ」と思ったのですけども、やはりこれは一つの大きな変化だと思うのですね。ですから、一種、変わりつつある社会的な状況に対して、この病院がどういうスタンスを持つのかというですね、そこを踏まえたうえで、おそらくDNRの細部についての議論というのもできていくのではないかなと思いますので、そのへんをですね、少し自由にご議論いただいて、最終的には、「DNRをどう考えていくか」というところに落ち着けることができればどうかなというふうに思っています。ですから、これまで資料に出てきたもの、つまり尊厳死の問題・消極的安楽死の問題であるとか、法制化のレベルでの議論であるとか、「最終的にこの病院がどういうDNRについての基本方針を持つべきか」ということなど、まずはどこからでも結構ですので、少しご意見を出していただきたいというふうに思います。

立岩先生、まず、ご自身の主張も含めて「この病院が目指すべき方向性はどうあるべきか」ということを、今の状況の中でご意見があればおっしゃっていただきたいのですけれども。

立岩 えーっと、どうしましょうか。僕も一定、感じているのですけれども、一つは先ほどとちょっと重複しますけれども、去年の1月、その前の年の12月とか、そのあたりから尊厳死協会という組織を中心に法制化という話は出てたことは出ていたのですね。それで、「まぁどうなんだろう」というようなことも含めて始まってはいたのですけれども、それで、議員さんにそういう案を持っていってということです。ただ、去年とか今年の今までの話の流れで言うと、与党の議員の方たちも含めて、「どうも問題の所在と言うか、どう考えたら良いかということがまだちょっと掴めない、分からない」という中で、「これはかなり慎重に時間をかけてやらざるを得ないだろう」という感じではあったと思うのですね。あとは行政府と言うか、法務局の中でも、「持ってこられた法案というのが、法構成上ではそんなに良くできているものではない」ということも含めて、「そう早くに、法とかのレベルで物事を決めていくというふうにはならないんじゃないか」というふうに、僕もなんとなく思っていたのです。

それが、今回の3月に明らかになった事件をきっかけに、先ほど紹介があったように、「ずいぶん動きが急になったな」という感じは持っています。分かる話でもあるのだけれども、ただ「今回の事件があったことによって、法なりガイドラインというものを急がなければいけない」という、なんかそういう流れになっているのだけれども、それもよくよく考えてみると、「エッ、そうなの」という感じを一定、僕はしていて、「新しく何か決まりを作らなければいけないのか」ということも含めて、ここは「ちょっと頭を冷まして」というか、「基のところから考えないとマズイだろうな」というふうに思います。まぁこんなところです。 

それから、今回の報道は、先ほどファックスの情報をまとめてくださいましたけれども、山のようにたくさんの報道が出ているのですよね。しかし多分、情報が出にくい部分もたくさんあって、依然としてよく分からない部分もずいぶんあります。例えば僕の文章にもちょっと書いてありますけれども、今回は、癌の人が多数いたということが報道されているわけだけれども、尊厳死とか安楽死とかと言うと普通は、「末期の苦痛に耐えかねて」というみたいな話があるのですけれども、まず、そのような末期で、この間にやったセデーションの話も絡んでくるのですけれども、そういったタイプ、そういった場合がありますので、「その時にどうしたら良いのか」という話はあります。

それともう一つは、まぁ言ってみれば遷延性意識障害と言うか、そういう状態になっている人で、本当は良く分からないのですけれども、この人は定義の上では意識がないことになっているわけですから、そういう意味では「末期の苦痛に耐えかねて」という状態とはかなり違います。 

で、今回に持ち上がった法案の第1条では、最初にその「末期の苦痛」って話があって、次に、遷延性意識障害に該当するような話が並列されるような形になっているのですけれども、とりあえず、この二つはかなり異質なものということもありますし、きちんと分けて考えなければいけないのだと思いますけれども、今回はそこらへんがわりあいに、慎重ではなく話が進んでいるのではないかという印象を持っています。 

それからもっと言えば、今回はそういう形で表には出てきていないのだけれども、呼吸器の取り外しとかで言えば、昏睡状態のような意識がない状態でもなく、それから末期の激痛というのでもないような人たちで、神経性難病のある状態の人であるとかですよね。というようなことは表には出てないのだけれども、どこかで引っくるめて考えられているようなところもある。これはまたずいぶん違う話です。

もっと言えば、尊厳死協会というのが今回の主体になっているわけですけれども、さしあたって法案に出てくる話というのは、先ほどの2つのタイプを並べて、まぁ「本人同意で」という言い方はするのだけれども、それこそ、先っき言った20年前とは差し当たって言いませんけど、ここ数年の動きだけをとってみても、例えば認知症の高齢者の人の場合ですとかね、それから先っき言ったある種の難病の人の場合であるとか、法案には書いていないのだけれども、そこらへんも明らかにと言うか、いろんな公式な集まりの中でも、理事長さんなり何なりが、そのへんに関してかなりポジティブな発言もされているということで、言わばかなり多様な状態が引っくるめられながら、とりあえずは「本人同意」という形に引っくるめられて、「オッケー」という話になっていて、さらにプラス、そこの括りからもはみ出ていて、「本人同意が取れない場合は、家族でも受ける」という形で、かなりズブズブとは言いませんけども、いろんなものを一緒にして、「だいたい、みんな良いんじゃないの」というか、そんな感じの急な動きになっている感じがしてですね、そういう点では心配なものが僕は結構あるというふうに思います。

小原 非常にいろんなものを引っくるめて、包括的な方向を目指しているように思えるのですけれども、例えば尊厳死の法制化を与党議員が中心となって進めて、特にそれが、最近になって急がれているようになっている動機付けというか、何か利害関係というのはどこかにあるのですか。急がなければならないとか、あるいは、そういった法制化をすることによって得する人たちというのはあるのでしょうかね。

立岩 一つは医療サイドの問題で、こういう事件が起こるとすると、捕まったり起訴されたりということもあります。で、それは嫌なわけですよね、僕だって嫌ですけれども。そこのところを、「そういうことがないようにしてくれ」ということはあるだろうし、「どっちでも良いけど、何かハッキリしてくれないと、私らはどうしたらよいのか分かりません」といったレベルも含めて、ある種の医療サイドからのリクエストというのが、一つにはあるでしょうね。それから、例えば毎日の報道でもありましたけれども、尊厳死協会というは、当初の70年代・80年代というのはかなり小さな、わりと先鋭的なといった動きだけであったのだけれども、高齢化その他が進む中で、わりとこういう発想や動きというのが大衆化・一般化したというのも、バックにはあるのですよね。 

去年の5月ぐらいの集会だったか、それも「いろんな考え方の人に来てもらって」という感じの集会でしたけれども、その時は、尊厳死協会の理事長をやっている井形さんがいらしてて、直接、話してもらっていますが、彼もその時は「これはあくまでも患者本人の話であって、政治経済的な利害とか、そういったものが絡んだ話ではない」という公式見解というか、彼は本当にそう思っているのかも知れませんけれども、そういうことを言ってらっしゃいました。 

ただ、その前年なんかに国際会議みたいなことをやられたのだけれども、そこにはちゃんと経団連の方ですとかもいらっしゃったりして、そういうパースペクティブで発言されたということは実際にはあるし、政治的な動きとの絡みでいえば、医療費やその他の費用も要るし、財政的な問題というのが背後に絡んでいるとは思いますね。

小原 はい、分かりました。どうでしょう、今、だいぶ幅広く状況を整理していただいたのですけども、今のに続く形でも構いませんし、ちょっと全然違う確度からでも構いませんので…。はい、どうぞ。

吉中 高齢者の部分では、認知症の方とか意思を十分に表現できない人というのは似たようなところがあって、これはかなり一般的にですね、寝たきりであったりした方がいよいよ悪くなった時には、「DNRでよろしいですか」というようなことは、かなり広くやられているのです。小児科の場合は、「亡くなられるかどうか」といったことの頻度は少ないですけど、高齢者になるとたいへん多いということもありまして、「DNRを」というような話をしたことがない医師の方が少なく、多分、ほとんどいないのではないかと思いますね。そんなような状態です。

小原 それを、だいたいどういうタイミングでするとかいうのは、もう経験的に任されているわけですね。

吉中 そうです。別にしないといけないわけでもありません。

小原 ただ、ご本人の意識がまだハッキリしている時に確認するということはされていますか。

吉中 確認するということは、逆にあまりない。

小原 ない?

吉中 そうですね。ご本人がお元気な時に心肺蘇生ということまでは、すぐに結びつかないものだから、「一般的な意味で」ということでは、そこまではいかないですよね。で、やっぱりちょっと悪くなって、「いよいよこれは危ないぞ」「急変が起きるよ」ということが想定される時にそういう話になるというのが実際ですね。

小原 だから、容態が急変していたとしても、ご本人の意識はまだある段階で、その話をするということはないのですか。

吉中 そういうことは少ないですね。

小原 少ないですか。じゃぁ、具体的に理由を挙げるとしたら?

吉中 認知症であったり、寝たきりであったりして、自分の意思表示を十分にできなくて、介護を何年間もされていてというようなケースが多いですね。それで、いよいよ「もう肺炎がなかなか治りませんので」というような時に、その場合は当然、ご家族とそういう話になります。

小原 ですから、「ご本人と」ということはほとんどなくて、ご家族との話なんですね。分かりました。

吉中 もう一つね、医療者の方で最近起きていることは、医療者は終末期医療なりDNRなりのガイドラインを強く臨んでいるという方向にきているのは間違いないですよね。それは、この射水市の前に、福島の県立病院の産婦人科医師の逮捕がありましたよね。そういうことがあって、16日ぐらいの朝日新聞の福島版で見たのですが、県警の方では、警察署長といった幹部を集めて、いろんな分野で表彰するのですけれども、医師を逮捕した何とか署の人も表彰されているのですね。警察の方は「それでいくぞ」という話に実はなっていて、で、医療界は「ちょっと待ってよ」という話になっているという、こういう例があります。

小原 それは4月16日ですか。

吉中 そうです。朝日の福島県版です。そうすると、医療サイドは「いきなり逮捕かよ」ということで、「よく分からないし、何か防波堤がないと」というような気持ちがかなり高まっているという話ですね。で、日本学術会議も動いていますし、そのへんの機運はそんな感じですね。

小原 そうですね。原さんはどうですか。

原 ちょっと冒頭にはおらなかったので、話の進め方が分かりませんけど、私の大まかな意見としては、DNRに限定するよりも、もっと広く救急的な場面でも判断を迫られる場面がいろいろとあると思いますから、ガイドラインという言い方になるのか、基本的な考え方みたいなことになるのかは別として、そういうジャンルに関しては病院としてもやはり、まとめる方向をもっと包括的に目指した方が良いというように思います。一つは今おっしゃったように、人が亡くなる際にあたって判断を迫られるということは、現場で具体的にしょっちゅうある話です。例えば「ここに集まっている人たちは価値観とか考え方を共有している」というふうに思うことは多分、錯覚ですから、ここにいる人だって議論してみないと分からないし、ましてや、病院の医療スタッフがどんな考え方を持っているかは、全然分からない。いわゆる民主的医療機関とかそういうようなところでも、過去にいろいろな事例が起きているわけですから。それに、細かい場面から考える方がかえって難しいような気がするので、心肺蘇生とかだけに限定するというよりは、もうちょっと広く「どういうようなに考えるか」みたいに、なるべく包括的に作っていった方がよろしいかと思います。  その対応をここで議論するという話は、立法とかあるいは国のガイドラインという話とは違うとは思いますけれども、もしも変な方向で拙速に作ろうという動きが国側にあるのであったら、こちら側で早く対応するというのも、暴走を止めるという意味もあると思いますね。

中身の方はだいぶ揉まないといけないと思うのですけど、論点的に言うと一つは、「自己決定」とか「本人意思」とかいう言い方を第一優先にするという考え方は、やっぱりいかがなものかなという異議を挟みたいと思います。やっぱり「本人が望んだから」というのは、これはターミナルだけではなくって、生殖医療とかその他でいちばんよく出てくる能書きですけどね。「本人が望んだのだから、何の具合が悪いのだ」というふうなことでは、倫理の議論をする必要がありません。悩まないのは倫理委員会ではないだろうし、医療倫理ではないと思うのです。  射水市の分もそうで、立岩さんがおっしゃったように、「何でその時に呼吸器を外すということをしなければいけないと思ったのか」という、その状況がさっぱり伝わってきません。いろいろとインタビューをしているけど、「誰が同意した」とか「してない」とか、「誰が介護していた」とか、何かそういう手続き的な話ばっかり出てきて、「患者の状態がどうだったから、それで外したんだ」とかいうことは多分、記者が取材をしているようには思えないのですね。

ある種、「本人の意思がどうだから」というのは、もちろん重要な要素なんですけども、「人間の生のあり方とか、死のあり方というのはどうあるべきか」ということは、できればその価値観とか考え方みたいなところで整理をしていった方が良いと思います。

小原 そうですね、はい。今、幾つもの重要な点に触れてくださったと思うのですけど、これからの進め方に関わることとしては、「現在は急転換していますから、国の定めるガイドラインができあがるのを待って、それに合わせる」というのは利口なやり方になるのかも知れませんが、そうではなくて、「急に結論を急ぐような動きがあればこそ、それとは違う、対抗できるようなスタンスをあえて打ち出す」ということもあり得ると思うのですね。そういうものを目指すというのであれば、ここで議論を詰めてやっていく必要があると思います。

その時に、一つのポイントになるのが、「自分が望めば、何でもオッケーか」というように原さんも言いましたけれども、それが何とセットになるかによって、事情が変わってくると思うのですよね。これまでにこの委員会で考えてきたのは、本人の意思と家族の意思ということをセットで考えた場合には、「家族の意思ではなくて、まず本人の意思」というように、本人の方を優先するということを、セデーションに関するガイドラインでも明確に、この病院としての見解を示しています。ところがそのセットではなくて、違う形で「本人が決めれば、安楽死であろうが、尊厳死であろうが何でも良いんだ」ということに対しては、何も自己決定権を絶対化することを我々は賞賛しているわけではありませんので、それに対する一定の条件付けということがやっぱり求められてきますから、おそらく二方向から考えていく必要があるんではないかなというふうに思います。 

で、どの程度に早い段階で、国が定めるガイドラインなり法律が出てくるかはちょっと分かりませんけれども、それとは別にこの倫理委員会で、特にDNRに関する方針を打ち出すということは、その気になればできますから、そのあたりをどういう形でまとめるべきなのかということを、ちょっとご意見としていただきたいのですけれども、どうでしょうか。

吉中 今日、医療安全委員会で議論しながら思っていたのですけれども、DNRという心肺蘇生をしないということ以外にも、川崎協同病院の場合では、終末期医療における酸素の投与・輸血・人工透析・栄養点滴をしないなど、いろいろあるけれども、そこらへんが連続なのか非連続なのかという区別は結構あやふやだと思う。酸素投与とか人工透析とかの中身というのは、やっているのを止めるというのではなくても、積極的な治療をしないということですよね。それと、心肺蘇生をしないというのは、一度止まった心臓・呼吸を、助けるか助けないかということなので、そういう点ではちょっと違うようにも思うけども、なんか連続しているようにも思え、ちょっと切り分けが難しいなというようなことが一つにはあります。 

それからもう一つは、ACLSといいう言葉を聞かれたことがあると思いますけども、市民が心肺停止に陥った人を見た時に、すぐ人工呼吸・心臓マッサージをして助けようというのが普及されていますよね。その考え方は一応エビデンス的にはですね、完全に人工呼吸器を付けて点滴を入れてというようなことをする前に、何も道具は要らないから、とりあえず早く人工呼吸と心臓マッサージをしようということが重要だという考え方になっています。そのことと、我々がやる心肺蘇生の中止ということとの切り分けも、結構難しいですよね。医療現場ではもちろん、薬も使いながら、挿管をして人工呼吸器を付けたり、心臓マッサージをしたりするということをやるのが普通なんですけれども、しかしそこまでいかなくても、かなり有効であるということが分かってきているということもあって、私自身も、「どこで切り分ければ良いのか」ということはちょっとぼんやりしています。少なくとも終末期医療の中にDNRがあるということは間違いないのですけれども、「DNRの範ちゅうって何なんや」ということは、ちょっとご意見を聞きながら、もう少し考えてみようと思います。

小原 そうですね。

吉中 結局、見捨ててしまうみたいなところも、容易に入り込むのですね。

小原 川崎協同病院の場合、今、言われた1から4までの差し控える対象物がありますよね。「もし止めるのだったら、これから順番に止める」とか、「この4つがひとまとまりになっていて、だいたいどれもしない」とか、これには優先順位ってあるのですか。

吉中 それの優先順位は、患者さんによって様々ですね。だけど、死との関係では、酸素投与というのがいちばん大きなウエイトを占めていますね。点滴は、止めてもすぐに亡くなるということはなく、人工透析の方は、1日や2日では別に大丈夫です。「レスピレーターを外す」ということは「中止する」ということなのか、ちょっとここはよく分からなかったのですけど、こういう治療を中止するということは、逆に言うと、「そういう対象の人には元々、酸素の投与をしない」という選択をするというふうに、私はむしろ読んだのですけどね。腎臓が悪くなっても「人工透析をしない」と読んだのですけどね。中止するのはやはりレスピレーターと本当に同じような延長線上にあって、こういう状態だから、医学的な言葉で言うたら「適用ではない」ということで、「人工透析をしない」というふうに一応、読んだのですけどね。

小原 「やっても意味がないから、しない」ということですね。

吉中 そうです。これはそんなふうにも理解できますが、多分、そうではなかったと思います。そうなると、これもあった話ですが、90歳過ぎの認知症のある方が、腹膜炎を疑われたのですけれども、「どうしても手術するのはなかなか」っていう感じだったのだけれども、ご家族が強く希望されたので手術されたということがあって、結果的には後で亡くなられたのですけれども、逆にこんなケースも出てきます。普通だと、癌があると手術にはリスクがあるし、手術不適用という形で、手術するのは薬の効果よりメリットが少ないというふうに考えても、逆に、「それをしたい」というご家族の強い意向で、やらざるを得なくなりますね。

小原 その場合は、ご本人の意向というのは確認されたのですか。

吉中 認知症がきつい人なので、確認は難しいわけです。

小原 あぁ、なるほどね。

吉中 認知症のきつい人は全然難しいです。でも、苦しんでいるのは分かるというわけです。

出島 中央病院や京都で診療をやっている限りは、あまり目立たないことなんですけれども、地方の大学などでは、ある子供が脳死に陥った時に、その当時の法律的には、子供に関しては脳死を適用しないということになっていたのと、それから、元々脳障害を持っている子に関しては脳死の判定は非常に困難なので除外するということで、実際には除外されているのだけれども、一応、一般的な脳死判定をすれば、これは脳死の状態になるので、その時に、ある医師が「あの子の治療で国保財政が悪化するだろう、村八分になるから、それはちょっと考えておかないといけないな」と言ったことがありました。その人は国保の患者さんで、人口3000人ぐらいの村ですけど、器具をつけて、ずっと昇圧剤を使っていますから、1ヵ月で100万円ぐらいかかるわけですね。それだけで、国保財政が悪化していく方に傾くのですね。

それから、大学病院でも小児科で使える呼吸器の台数というのは決まっていますから、「この子が呼吸器を占領しているために、新たな患者さんを受け入れられない」ということは、1ヵ月・2ヵ月と経っていくと、親御さんにもひしひしと分かるわけですね。10年ぐらい前で、呼吸器台数もまだまだ少なかった時代の話ですから、今はちょっと状況が変わっているかも知れませんが、家族に対するそういう圧迫というのは、確実にあるだろうなというふうには思います。 

だから、ウチの病院で普段やっていることだけで論理を立てると、つい、意識から洩れてしまうのですが、このような事情がある地域も、かなりあるのではないかと思います。

小原 あってはならないことですけれども、そういう財政的な状況が人の生き死にを左右するということもあり得るでしょうし、今、議論になっている消極的安楽死なども、一般的に言えばやっぱりそこに問題がありますよね。「これ以上、家族に迷惑をかけたくないから、早く逝かせてくれ」みたいなこともありますから、「そういうことを是認して良いのだろうか」という問いもありますので、そこは、少し見つめて考えていきたいと思います。どうでしょうか。

吉中 ちょっと立岩さんに質問なんですけど。立岩さんが書かれたこの文章に、私はたいへん共感するのですよね。特に、「多くの人は、負担をかけると思うから早く死ぬ」というところで、「自殺しようとする人を、少なくともいったんは止めようとする。なのにこういう場合には、決定のための情報を提供するだけで中立を保つと言うのはどういうことか」という、こういう居心地の悪さを、おそらく医療者は結構感じているわけですね。通常「命は大切や」と一生懸命に説いているのだけれども、ターミナルという名が付いたら、「ちょっとなんか引いてしまって」という感じになるのですね。 

普通に言うたら「やっぱり元気に長生きしたい」と皆が思っているというような、案外単純なところに拘って今まで医療をしてきて、なんでもかんでも一生懸命にいろいろやって、でもそれは結果として良くないということも分かってきたことでたじろいでいるというのが、医療側の感じなんですよね。「なにがなんでも命を救うということで、点滴したり、管を突っ込んだり、いろいろしたら良いわけじゃないよ」ということを言われて、「まぁそんなもんかなぁ」というふうなことになってきたという流れなんですよね。で、もういっぺん元に戻ったら良いのかなというような感じもちょっとしているのですけれども。そのへんの考え方の変遷というのがありますね。

で、「自己決定権の尊重というのが至上主義ではないのだよ」というところにいってしまうと、「何が本当なのか」ということになり、「『死にたい』と言われても、『あんた、それはウソやろう』ということも言わないかんし」というようになってくると、それもなんか吹っ切れない感じで、ちょっとそのへんで混沌としてくるのですけど、何かそのへんの案ってあるのですか。

立岩 そうですね、この後半のところは、「どこに落としどころ」というのは詰め切れていない部分もあります。ただ、おっしゃるように、最低一つは言えることはね、「こういう場合は中立を保たなければいけない」というふうに、いつの間にかになったのだけれども、よくよく考えてみると、生死がかかっているような重大な場合であればなおさら、「そうじゃない」というふうに考える考え方も充分可能だということです。僕らはむしろ、人の生き死にがかかっているような時にはお節介になるのですよね。それで基本的には「良し」とされていると思うのですね。「自殺が増えている」とかいった時に、やっぱり「これはなんや。で、それはどうしましょう」というふうに、社会は動くだろうし、それは動いて良いのだと思いますね。でも、なおかつ「『最後まで本人が』って言った時に」って話は、それでも残る問題だとは思います。だけど、「その手前のところで、『じゃぁどうぞ』というのではない対応の仕方というのはあるだろう」というのが一つなんですね。

それからもう一つは、よく「無駄な延命」という言い方があるのだけれども、それは先っきのDNRの話と関係していると思うのだけれども、やっても明らかに無駄なことって、やっぱりあると思うのですね。それは、人を延命させるために無駄というか、「やっても生きられるわけではないのだけれども、やってしまう」というようなことが、実際にはあると思います。それは、命を長生きさせることに対して無駄なんですよね。だけど、日本語で「無駄な延命」と言うのは、なんか二重の意味があって、「延命のためには無駄だ。やってもしかたがないことをしている」というのと、「この人は生きてても無駄だ」という場合があって、「生きさせるのに無駄なことをしている」と言うのと、「生きていることが無駄だ」と言うのは、全く意味が違います。ただ、この「無駄な延命」という言葉は、その両方に使われてしまうものだから、そのへんがゴッチャになってしまっていて、それは良くないんじゃないかな。そういう意味で言うと、前者の方はやっても儀式のようなものでしかなく、関係者をなんとか納得させたりとかするだけで、なおかつ「苦しい」とかいうことであれば、「やらない方が良い」という場合があるということですね。その場合と、「この人は生きていることが無駄だ」という話は、とても違うことだと思うから、無理してでも分けて考えないとまずいのではないかなと思う。

吉中 言葉の意味をシャープにする必要があるということですね。

立岩 そういう意味での無駄なことはあると思います。それは、人が治ったり生きたりするための処置としては無駄なことというか、無益なこと。で、それが苦痛や負担を伴うことであれば、その場合は止めた方が良いということはあり得ると思うのですね。「じゃぁ、それはどういう場合なんだろう」ということを考えておくことは必要だと思います。それは、先っきの心肺蘇生とかの話でも、そういう場合があり得ることは多いです。

小原 今の2つの無駄の話はそのとおりだと思うのですけれど、前者の無駄ということに関して言うと、延命できる可能性が極めて低い場合には、まさに医学的に意味がないということで、それはある程度、割り切れる部分がありますけれども、今、むしろ問題になっているのは、おそらく後者の問題だと思うのですよね。

その時に、「あなたは生きているのが無駄だ」ということを、例えば、本人もなんか非常に自覚していて、周りも、そういうことをプレッシャーとして与えているような場合に、その雰囲気というのは結果的に、消極的安楽死安楽死とか、最終的には安楽死みたいなことを勧めていくような要因に十分なると思うのですけれども、今のここでの議論の場合では、「家族の決定と自己決定ということでは、自己決定を優先しよう」ということで、だいたいいろんなところでその考えは反映されてきたと思うのですよね。ところが、「自分がこれ以上、生きるのは無駄なんだから」とかいうことを、結果として周りの雰囲気から感じた場合に、それを単純に死へと直結させるのではなくて、押しとどめる価値観や論理は何かというあたりが結構、難しいと思いますね。

それから今の状況では、自己決定で患者本人が「これ以上、生きたくない」「これ以上、家族に迷惑をかけたくない」とかいうことを言った場合には、医療従事者の方は、まさに中立的な立場に立って、「それもやむを得ないな」というふうに判断する方向に動いて行っているのではないかなと思いますけど、「無駄である」という命に対しての歯止めの価値観がどこにあるのかというのは、少し見えにくいなと思いますね。

原 「無駄な命はあるか」と言うたら、「無駄な命はありません」といいう答えで多分、異論はないのだろうと思います。そういう角度からとらえると、そういう感じに受け止めるのですが、逆に、「不自然な延命」みたいな違う言葉を使うのは、「無理に引き延ばしているのはいかがなものかというのが尊厳死」という言い方をする人たちからよく出てくる話です。  こういう場面で、社会・経済的なプレッシャーとか、介護負担をかけることや自分の存在価値みたいなのがプレッシャーになるという怖れというのは、確かに社会問題としてあるのですが、もう一方の思いから、「別にそういうことではなくて、無理に長生きしたって仕方がないわ。これで私は満足よ」と言うのだったら、それはそれで良いことで、本人の意思のどこに違いがあるかということですね。私の感覚から言うと、本人の心理状態として「とにかくこの状態が嫌だ」とか、「自分には価値がない」「辛くて仕方がない」「苦しくて仕方がない」というようないろんなパターンがあるけど、否定的な心理状態で死を望むとか、あるいは、本人じゃなくて他人が判断をして、「やめた方が良いのじゃないか」というような場合の選択は、ちょっと問題があるのではないかなと思う。ある意味では、円満に「私はこれが良いのです」と言うのだったら、抽象論としては悪くないかなと思う。無理にあらがう必要もないです。具体的には、「無駄な命を」と言うつもりはないし、何日かは延ばせるかも知れないけども、メリット・デメリットを考えた時に、「どれだけの意味があるのか」という医療行為はいっぱいあると思います。

勝村 質問なんですけど、例えば先っき言われた「延命するという目的において無駄なこと」「それをやっても延命にならない」と言うことと、「この人の延命自体が無駄である」ということは違うと言った時に、終末期のDNRというのは前者なのですか。「終末期のDNRというのは、延命に貢献しているように見えて、実は貢献していないのではないか」というふうに考えられているわけではないですか。

吉中 「終末期のDNRで延命は何か」というと難しくなりますけれども、心臓が動いて血圧が維持できてというようなことで言うと、明らかに延命はできるのではないですか。

勝村 正直に言うと、延命になるのですか。

吉中 だから、5時間とか1日とか3日という範囲では、当然なります。薬を使って、人工呼吸器を付けていろいろやると、一定期間は延びるのですね。

勝村 「有効性が乏しい」というのは、どういう意味ですか

吉中 このデータの原文は見てないのですけれども、有効性が乏しいということは、「結果として退院可能になる」といったところにゴールをおくと、それは非常に少ないですけれども、時間を延ばすということは確実にできる。

勝村 ということは、そもそも延命に有効でない医療行為というのは何かないのですか。終末期になされている医療行為だけど、延命そのものへの有効性はほぼないというような医療行為はないのですか。

吉中 これまでの話では、ターミナルセデーションは苦痛を取るということだけなので、そうですね。

勝村 でもある意味、苦痛を取るということで有効ですね。分かりました。

出島 医者にとってみれば、「おそらくこの人は、どっちにしてもあと1週間」と感じてて、その1週間にいろいろと治療すること自体を、やっぱり疑問に感じているというのが多分、ベースにあると思いますね。もちろん、良い意味でも悪い意味でも裏切られることもありますが、なんとなく「おそらくこの人はこのくらい」と分かります。で、川崎協同病院の終末期医療では、「余命6ヵ月程度、あるいはそれよりも短い余命の状態を言う」とありますが、6ヵ月に設定されると、結構長いのですね。その6ヵ月の間に何が起こるかということは、新たな治療法が見つかるということも含め、予想もつきません。でも、「多分、ないだろう」と思っているから、やっぱり医者は6ヵ月では終末期と考える。 

「自分がそうなったら、そのへんで治療を打ち切ってもらって良いよ」という人生観を持っている医者も結構いますね。だから、自分の人生観と実際にやることに格差ができてしまうので、「ガイドラインが欲しい」という流れになるのだと思うのです。

吉中 そうなると、機械を付けて点滴をしていろいろして生存している命に価値がないのかと言えば、そうではない。だけど、QOLという考え方が入ってくると違ってくるのですね。クオリティ・オブ・ライフということになってくると、やはり「そんなことまでして生きたくないわ」と思う人が、普通の人にも結構たくさんいます。

小原 実際に消極的安楽死や尊厳死の場合は、まさにQOLとの関係で議論が出てきていますから、患者にとっては、その点がいちばん大事な関心ではないですか。

吉中 そうですね。尊厳死協会のカードを持ってきた人が1人いるのですけれども、その人なんかもやっぱり、自分の生き方とかクオリティとかいうことに強い関心を持っていました。だから、「経済的に困って、追いつめられて」というような人たちがそういうカードを持ってこられた経験は、私は全然ないですわ。いわゆるハイソな人たちです。

小原 そうですよね。普段から余裕をもって考えられる人たちですね。

吉中 それは現場の実感としてあります。

山中 実は、私はそのリビング・ウィルを1名、お預かりしているのです。ずっと関わってきた患者さんで、身寄りがなく自分一人で生活していらっしゃって、精神的にも落ち込みがあったりする方で、「もし自分が救急車で中央病院に運ばれることがあって、何をしても命はそんなに変わらないという時になったら、僕の代わりにその申請書を出して欲しい」というふうに言われていますが、その方は、今、皆さんが考えているようなハイソな生活ではなく、生活保護を受けていて、ギリギリのところで生きてらっしゃる方なんです。私は、その人がリビング・ウィルを示すというのは社会的な背景の中でそうせざるを得ないということがあるんじゃないかなぁという、感じを受けるのです。「誰も自分を励ましてくれないし、誰も自分を待っていてくれない。だったら、そんなことをしなくて逝ってしまう方が良いんじゃないか」という意味のことを感じました。時々、なんか不安になるみたいなようです。 

それと、もう一つ感じるのは、延命治療というのを考えた時に、QOLが大きく左右するということはもちろんあると思うのです。それは延命だけに限らず、例えば癌治療法の治療なんかをする時でも、医師からしたら、「あの治療をしてもほとんど余命は変わらない」ということもかなりあるだろうし、逆に、副作用でその人のQOLを悪化させる可能性の方が高いのだけれども、患者さんが「どうしてもこの治療を受けたいんだ」とおっしゃった時には、やっぱり尊重しているのだと思うのですね。ところが、延命に対してはあまり効果がなく、やってもプラスに働かない治療だとしたら、たとえ患者さんが望んでいても、医師は「延命治療って良くないものだ」というふうに思うのですね。だから、そういうふうに考えた時に、「一般の治療と延命治療でそんなに大きく変わってくるのかな」ということで、「治療を決定する時にどういうふうに考えたら良いのかな」ってことは、今はちょっとごちゃ混ぜになった状態なんです。

小原 実際にこの病院でリビング・ウィルを示される例はどれぐらいあるのでしょうね。

山中 私自身は、実際には今まで3人ぐらいの人しかお会いしたことはないです。

吉中 それは亡くなられた方で?

山中 お2人はもう亡くなられました。

小原 その場合は当然、亡くなる前に「私はリビング・ウィルを持っている」ということを示すわけですね。

山中 入院の時に必ず、書いてあるものを示されるのです。

小原 そうですよね。だからそういう方の場合には、DNRの方針というのは比較的にハッキリしますよね。ただ、今のところ、件数はそんなに多くないということですね。

橋本 そうですね。この方たち以外の方は、あまり聞いたこともないです。  在宅へ往診していた患者さんが緊急で入院して来られた時に、本人の意識がある内に「延命治療をする場合もある」という説明をして、同意書もちゃんとしようと、医師も看護士も一緒にしたことが以前にあります。その時には最初、やっぱり「延命して欲しい」という意向を示される方もあるし、「しないで欲しい」という方もおられます。ただ、説明の中身だとか説明の仕方、その時期、受け止め方だとかは当然、状況によって変わりますが、患者さんの意思も同じで、次、違う時に確認すると、また変わります。だから、「状況によって変わる」ということを大事にしながら話ができるのかということで、その取り扱いが難しく、中途半端で終わってしまいました。たまたま、そういうことを試みていた時の患者さんで、「延命して欲しくない」と言っておられた方が具合が悪くなった時に、ご家族に伝えたら、「そのことを大事にしたい」とご家族もおっしゃって、「入院をしないで、そのまま家で」ということを選択されたケースなんかもあるのです。「どの段階で聞いたら良いか」が難しいなと思います。

小原 そういう聞き取りをされた場合、ご本人の意思というのは同意書のような形で残すわけですか。

橋本 はい、そうです。

小原 結局、いろんなトラブルや事件が起きた場合には、「そういうものがあるか、ないか」というのが、物的証拠としては非常に大きな意味を持ちますよね。

橋本 この人の場合は、たまたま具合が悪くなって来られた時に、関わった医師はそのことを知っていました。でも、運ばれたのが別の病院なら、急変でしたら、先っきの中身で延命治療しますから、そこで違いが出てくるみたいな話になって、「何かそういうものをしておいた方が、治療する側も含めて、お互いにとって良いんじゃないか」ということで動き出したみたいです。

勝村 やっぱり結局、自己決定みたいなことでしょ。だから、そこの危うさというのが倫理的にはいちばん大事なんでしょうね。だから、脳死のドナーカードなんかを書くことでもそうだけど、どれだけの情報を基に意思決定しているかというのがあるように、「延命治療は要りません」と言っても、その延命治療の意味がよく分かっていない場合があるのですよね。「死んでいるのだけど、無理やり心臓だけ動かしますよ」というイメージだと思って、そのように意思表示する人もいてるかも知れないし、脳死臓器移植にしたかって、「本当に自分は死んでいるのだけれど、何かの役に立つのだろう」と思っているかも知れない。だから、そこの境目とか、いろんな情報があるということの、まさに情報の共有をどこまで突き詰めていけるかというところが、共同作業の大事なところです。

それをどこかでしなくて、お互いが楽になろうとしてしまうわけですね。とことん情報を共有する必要がなくなるわけだから。「それ以上勉強しなくても、一つの情報でマルかペケか決めておいたら、患者側も悩まずに良いし」というふうに。こういう辛どさは、常に医療機関側の方がたいへんなことですよね。患者側はその都度その都度だけだけど、医者は常にだから、福島の例でもなんでもそうだけど、結局、自分らがすごく楽になるためのマニュアルを求めていくということは危険だけど、かと言って、分かりにくいものも問題があります。  結局、情報を出すだけ出してガイドラインを作るというよりも、問題をきちんと整理するということが大事で、患者側も医療者側も、その整理がクリアになっていないと、きちんとした自己決定の方に向かっていかないですよね。特に今の世論の風潮とかの影響で、整理がええ加減なままで突き進んでいる面があるのではないですか。だから、「こういうふうに整備すべきで」というぐらいまではきちんと出せたらと思う。

小原 自己決定を絶対視できないにしても、特にDNRの場合は、やはりそれが大きな役割を果たすことは、もう避けがたいと思うのですよ。ただ、その自己決定の中身というのが、本当に人生を感じて、悟りの境地のような形で、一種、良い意味での諦めとしてそれを表明する人もいれば、自暴自棄になったり、家族からのプレッシャーでもって、それを選ばざるを得ないというようなところまで、かなり幅があって、しかも、第三者がその自己決定の質を問うことができないということに、やっぱり理論的な難しさがあると思うのですよね。ただ、いったん、自己決定という枠を積極的に認めると、いろんなものがそこに突っ込まれますから、仕組みとしては機能したとしても、いろんな意味で命の尊厳が脅かされていくという問題があるから、どこでどう条件付けるかというのが難しいと思うのですよね。

ちょっと時間がだんだん迫ってきましたので、少しずつ焦点を「DNRをどうするか」ということに話を戻していきたいのですけども。これはどうしましょ、DNRに関する何か具体的なガイドラインを作るという方向で考えていった方が良いのですか。「それが病院として望みなんですか、どうですか」という質問なんですが。

吉中 アンケート調査の結果で見ますと、6ページにまとめてあるものがあるのです。一番下の8番の記録というところで、「同意書での記録の考え方でいくか、院内での書式が必要ではないかというような意見もあって、「やはり何かあった方が良いかな」ということです。現実には、「家族に話をしてDNRとした」というような記載がカルテ上にあるだけです。

小原 では一応、このアンケートの結果にもあるように、何らかの書式と言うか、ガイドラインや手順書のようなものがあった方が良いということですか。そこのあたりが結局、今後の議論の進め方に大きく関わりますので、どうでしょう。「とりあえず議論さえできていれば良いのだ」というのであれば、次は考えなくて良いのかも知れませんし、どうなんでしょう。あるいは、もちろんDNRに関しての見解や研究はいろいろあると思うのですけれども、どこかが作ったもので、汎用性の高いDNRに関するガイドラインというのはあるのですか。

吉中 個々の病院がやっているのしか、私は見たことはないです。

小原 そういうのしかないのですね。病院を超えて、その上のレベルのものはないのですね。

吉中 ないと思いますね。

東 僕は、DNRということで言うと、やっぱり我々、医療者側の効率、悩まずに片づけていくというガイドラインに多分なるのだと思うのですね。それより、先っき言われたように、もっと「個人の意志は何なんだ」とか「終末期って何なんだ」とかを知ろうとする話とは、全然別の次元だと僕は思うのですね。多くの場合は、我々の方から「死ぬ時はやって欲しいですか、どうですか」みたいなことを聞くだけでね。先っきの在宅の話なんかまさにそうで、在宅で管理されている患者さんに、「おたくに何かあった時に、何かしますか」なんて言うのは、まさしく個人の自由な意思の表明ではなくって、要するに「Aコースですか、Bコースですか」みたいな話だと思うのです。だから、そういう意義でのガイドラインを作るということは、我々の側にとってはすごくメリットがあるのですね。悩まなくて済みます。「この方に何があっても何もしなくて良いよ。家族に電話して『亡くなられました』と言えばおしまい」というわけですが、「こういうものとして割り切って作る」ということであれば、僕は作ったら良いと思うのですけれども、多分、ここの倫理委員会で話しすべきことは、そういうことではない。DNRのガイドラインを作るのは簡単なことなんです。医師が「もうこれ以上やっても無駄と判断したら、やりませんよ」ということで決めてしまったら良いという話ですからね。でも、川崎協同病院のこれを読むと、「これは違うだろう」と思う。「酸素投与まで止めても良い」と書いてあることも含めて、「6ヵ月の終末期」ということなどと、DNRとは何も結びつかないですよね。

だから、僕らがスムーズに考えられるようにするため、簡便なDNRの指針ぐらいは作るべきだとは思うのですけれども、やっぱり原さんが言われたように、包括的なことをいろいろ議論して、やっぱり悩んでからそういうようなことを決めないといけないと思いますよね。

小原 そうですね。

吉中 「DNRは簡単」というけれども、「患者さんご本人の意思」というふうにした場合には、すごい重い話ですから、ほとんど成立しませんよ。

東 だから、それを我々側の立場で決めるわけだから、患者さんご本人の意思というのは誘導することができてしまいます。

吉中 そういうガイドラインではやっぱりあかん。

東 そうは言っても、今現在、ある種の医師たちがやっているのは「こういう状態で、管を入れたら少しは延びるけどなぁ、それで元に戻ることはありませんよ。どうされますか」と言っているわけですからね。「それでもやってください」と言う人は、普通はいないです。

橋本 例えば在宅のターミナルの場合に、癌末期ですでに化学療法とかもしないと決めた人のターミナルに限って言うと、いわゆる一般的高齢者という範囲とは、かなり質的に違うでしょうね。例えば癌末期で、メインの癌に対する治療をすでに止めるという意思表示がある人に対してのDNRというのは、ある種、分かりやすい。すでにそこで意思表示がなされているということですね。  ただ、その人たちが今、困っているのは「病院に運ばれると管をつながれるから」ということで、そのために「どんなになっても病院に運ばない意思があるか」って家族に確認までして、「せん妄状態になっても病院に運ばれないようにしよう」と頑張り、現実に、無理やり家で死んでいく人があるのですね。これは、病院とのつなぎをキチッとする必要があります。ウチのスタッフは、今、在宅の訪問看護をやっているのですけど、本気で家で死ぬつもりの人の場合は、そこをかなり詰めています。

小原 言わば病院に行きたくないということですね。

橋本 行ったら、何をされるか分からないから。

小原 ということはやっぱり、DNRの点に関して病院に対する信頼がないということですよね。

橋本 必ずしも主治医のいる病院に運ばれるわけでもないということですね。ということで、かなり悲惨な状況の中で決意をしている人がいるということです。

吉中 数でみると、高齢者の肺炎とか、そういう人たちのDNRが非常に多いですね。

原 ここの病院の場合で、例えば高齢者の終末的な医療というたら、そんなにガンガンやるのですか。

吉中 高齢者の終末期というても普通は、心臓が止まったらやっぱり心臓マッサージをするとかしますね。

東 普通はかなりやる人が多いですね。意思表明のようなものが何もなかったら、とりあえず何かをやっていますね。

原 かなりやるのですか。

吉中 DNRがない限りは、基本的に全部するという言い方になるけど、必要なことはやっています。

東 レスピレーターをつないでいる人がどんどん増えてきているわけですから、それは多分、ガンガンやっている方じゃないでしょうかね。

原 一般人がこういうテーマでしゃべる時は、実際のことを必ずしも知っているわけではなくて、イメージで語っていますので、それが現実に即しているのかないのかというのは分かりません。どっちかと言うと、今の話を聞くと「ああそうか、この病院はガンガンやる方の病院やな」という印象を受けましたけど、老人医療も10年以上前とは報酬体系も変わり、包括化された関係、あまりガンガンやるところは、かなり少なくなったのではないですか。

吉中 そうです。

原 本当のターミナル段階で、金儲けでやるところはあるかも知れませんけどね。

吉中 だからそこの価値観が難しいのですね。食べられなくなった人に医糧を作るか作らないかという話も、そういう人は大抵「しゃべられないし、痴呆症もあるし」ということで、本人の意思は確認できないですよ。だけど、家族の人は「いろいろなものを作って」とか、「施設に移ろうか」とかの話になって、進んでいくのですね。それで全部、法定代理人のような形で、ご家族が署名してやっていくということになります。そこにいろんな思惑がある程度、見える時もありますよね。

吉中 そういうのもありますね。患者さんや家族の人たちと、DNRを通じて現場でいろいろディスカッションできて、一緒に患者さんを看れて、亡くなった時にも「良い末期を過ごせたね」という感じになればね、今よりは少なくとも良いということになると思います。なんかチケットを切るみたいに、「こうやって良いですよ」という話ではやっぱりあかんけど、そんなふうな流れにはならないと思いますけどね。

原 よく分からないですけどね。私の感覚では、本来的な意味での心肺蘇生、つまり、「心臓の止まった人を、もういっぺん電気でたたき起こしたりするのか」というところのテーマで言ったら、「そんなことで責任を問われることは、実際問題、あまりないのと違うか」という気はしますけど。問題はあるのですか。

吉中 心肺蘇生をしなかったらということですか。

原 しなかったら。したことが問題になるのですか。

吉中 したことで、ややこしくなることもあり得ますけど、それは多くはないです。心肺蘇生をしない方向に行くというのは、やっぱりある種の価値観があって、労力が無駄であるというのは明確なんですよね。当直にしてもナースにしても、静かに寝ているのと、一生懸命にやって朝方までいろいろやっているのとでは全然違い、気分的には必ず入り込みます。

原 今、お聞きしたかったのは、例えば「これにガイドラインが要るのか要らないのか」という意味で言ったら、「家族や縁者との関係で何らかのトラブルに発展することが本当にあるのかな」ということで、むしろ医療スタッフの方々が、一律に皆が「電気を流したりしなければ責任を問われる」みたいな感覚があるのかな。どっちかと言うと、医療者側の内心といったことが主因なのですかね。このテーマだけについてはそういうふうに思います。

吉中 だから、そこは結局、医療者としての倫理性に関わるところではあるわけですよね。それで訴えられたことはないです。

原 訴えるって、こんなもので刑事事件になることはあり得ないですからね。

吉中 それはないです。

広瀬 ウチに来ているヘルパーさんが、ある訪問先の家に入ったら、介護していた人が死んではって、センターに電話をかけたら「お腹を触ってください」と言われて、触ったら温かかったので「温かいです」と答えたら、「人工呼吸をしてあげてください」と言われてやったそうなんです。でも、「何かそういう約束事ができてたとしたら、あの場合、生き返っていたらどうなったのでしょうね」と、逆に聞かはったのですよ。いつまでもそのことに拘って、「仕事を辞めたいぐらいや」と言ってはりました。私もこの間、自治会の心肺蘇生の訓練に行ったのですけども、先生の言ってはることを聞いて、ちょっと「手伝うこともどうかって」考えますわ。

小原 そうですね、明確に「して欲しくない」というリビング・ウィルを持っている人にやってしまったら、結果的にまずいわけですよね。

広瀬 はい。私は、医療費削減のためにやってるなぁと思ったのですけど、この分ではできへんなぁ。

東 病院に入院されている方の状態というのは、ある程度、限定されますから、家での話しとは多分、ちょっと違うと思います。

だから今の場合は、言われたように、やっぱり我々の側の「とにかく何も意思表示がなかったら、とりあえず何かをしなければいかん」というような強迫観念なんですよ。で、今は知りませんが、僕らの感覚では、「お家の人が来られるまでは、とりあえず心臓マッサージをしましょう」とか、「来られるまで1時間ぐらいかかる」と言われたら、逆に「1時間ぐらいしましょうか」みたいな話なんですよ。それを、「初めからしませんよ」ということに同意していたら、どうにもならないことはしないで、安らかに亡くなっていただける。だから心肺蘇生だけで言えば、僕はまさしくそういう問題かなと思うのです。ここで問われているのは、もっと違う話だろうと思うのですが、DNRだけの話だと、そんなに難しいとは思わないですね。

小原 それは僕も分かります。ただ、もしここで議論して何かを形にする場合には、DNRの手順だけでなくて、「なぜ、そうなのか」という、もう少し理念的なことであるとか、あるいはそういったことがなければ、やはり、他にモデルとして役立つものがありませんので、そういうことを含んだものになると思うのですよね。ですから、これまでやってきた例えばNTに関するガイドラインなんかにしても、結論は非常にハッキリとしていまして、「ここではしません。したい人は違う病院に行ってください」と、ただの一言で済むわけですけれども、その結論に至るためにどのぐらいの議論があったのかということを、考え方も含めて形にしたわけですから、同じことはできると思うのですよね。そういうものを作るというのは、意味があるかなと思います。つまり、医療スタッフの側にとっても、手順が明示化されるということもありますし、そして、おそらく家族の方に対しても、一定の説明になりますから。

原 ちょっとよく分からないのですが、今日の議事要項では、これは2つを並べて書いてあるのですけど…。

吉中 そこは、両者の区別も含めて、そんなに鮮明になっていたわけでなかったので、並べてあるのです。

小原 だから今のところ、何をどう作るのかってことは、何も決まっていないのです。

原 決まってはないのですね。

小原 ですから、何を作ったら良いのかということも含めて、今までちょっと議論してきたのです。もし、「終末期医療についての指針」となるとかなり包括的になりますから、ちょっと辛どいと言うか、たいへんだと思うのですけれども、DNRに少し特化してやるのであれば、それほど時間もかけずに、ある程度はまとめ上げることができるのではないかと思いますね。

広瀬 すみません、患者側からの疑問ですが、心肺蘇生をすると、その患者さんは生きているけれども、苦痛とか何かはあるのですか。

東 死んでいる場合が多いです。

広瀬 死んでいて、ただ心臓が動いているだけ?

東 本当は、それで戻るのだったら、やらなければいけないけど、「戻らないだろう」と思ってやっているわけです。DNRを中止するという意味は、戻らないのにやるということでしょ。

吉中 「戻らない可能性が強い」と判断して…、

東 事実上は亡くなってるのですよ。

広瀬 では、自覚症状はないわけやね。

吉中 自覚症状は多分ない。

東 だけど心臓マッサージをすれば、肋骨を折ったりするわけですよ。

出島 だから、「家族が来られるのを待つ」とかいうことも理由になりますけれども、家族との話の中では、ほとんど「なぜ長い間、心臓マッサージをするのか」と言われまして、その場合は「1分1秒でも、とにかく生きていて欲しい」、「この子はずっと安らかな死を望んでいる」ということになるのですが、そんな話ができていくと、逆に、互いの思いも通じます。

吉中 川崎協同病院では、「終末期医療の指針」と併せて、現物は分からないのですけど、当初は「蘇生をしないための指示の指針」というのを作っていますね。先っきのレポートにもありましたけれども、その時に「終末期医療というふうに捉えて、DNRという指示を出した人については、必要なケアだとか可能な治療行為、その他がおろそかになる傾向がある」と言われていて、「そういうことがないようにしよう」という項目も書かれてもいますけれども、何かそういう印象も含めて、私はそう思います。

それから、「蘇生を行わない指示書」というものでは、気管内挿管・心臓マッサージ・昇圧剤投与とか幾つか載っていて、「どれを望まないかチェックしてください」と書かせて、そして「印鑑をおしてください」ということで済ませるだけの、そういうものもあります。

小原 どこからどこまでを選択するかを判断するって難しいですよね。

勝村 そうとうに説明をしないとね。

吉中 ここで、「とにかく、呼吸器は一度付けたら外せないよ」というのは、すごいプレッシャーになっている家族もあれば、本人もあれば、医者もあります。

小原 そうですね、気管内挿管のところですね。

吉中 そうです。「人工呼吸は止めたらあかん」ということが一方であるから、そこはかなりハッキリとされています。

ちょっと勉強して整理しなければいけないと思ったのは、先っき申しあげた「蘇生をするというのは、必ずしも気管内挿管をすることを意味しない」という状況にはなってきており、「心臓マッサージをすることは、必ずしも体がグチャグチャになるということを意味しない」という教育を、今はしていっているわけですね。で、「そういうところまでは準用できるかも知れないな」というふうに思います。先ほど習われたと言われた、ACLSという基本的な心肺蘇生だと、管を入れたり針を刺したりはしないわけですよね。「そのこともしたらいかんのか」ということは、成立しないのではないかと思います。普通は、溺れている人を見つけたらすぐにしなければいけないし、その範囲で、ご家族が来るまで見守るというようなことが多分、いちばん良いのではないかと、思ったりするのですけどね。

東 今みたいにACLSとかという考え方がありますが、僕ら側の考え方での判断というのもあると思うのですよね。下手なマッサージなら肋骨が折れますが、上手なマッサージでは肋骨は折れないので、「基本的な心臓マッサージは、とにかくやりますよ」と、「だけどそれ以上のことはしませんよ」というような、僕らの考え方みたいなものをやっぱりキチッと出さなければいけないのかも知れません。立岩さんの書いたものの3ページに、僕らの立場がすごく良く出ていて、「『医療者は常に無駄なことまでして命を長らえさせようしているのだ』という昔ながらの考え方があるけど、必ずしもそうではないのだ」ということで、「無駄なことはしたくない」という気持ちが僕らの中にずいぶんありますよね。「亡くなった人に余計なことはしたくないから、ある意味、儀式的なことになるけど、ひょっとしたら可能性があるから基本的な蘇生ぐらいはやります。だけど、それ以上のことは、この場合には治る見込みがないからやりませんよ」という僕らの立場をやっぱり言わないといけない。患者さんの方の希望もあるけども、「それは違いますよ。あなたは治る可能性があります」ということだったら、「ここまでやりますよ」という話をしないといけない。 

ガイドラインを作るとしたら、もうちょっと「僕らはこういうふうに考えていますよ」ということをむしろ言った方が良い感じがしますね。ただ今あれを見ていると、「判断はどうします」「どうします」と言っているばかりです。

小原 そうなんです。最後の結論だけを求められてもね、これは本当に不安に追い込まれるだけなので、「この病院としてどう考えているのか」ということをまず出したうえで、選択肢を与えてあげた方が良いと思いますね。その意味では「やはり、DNRに関するガイドラインのようなものがあった方が、双方のために良いかな」という気はいたしますね。

勝村 終末期では、お医者さんを含めた周りの者も「一生懸命やった」というふうに思いたいですし、家族の方も「精一杯やってもらえたかどうか」というのはすごい納得の材料になるではないですか。だから、「精一杯やっていること」が見えやすいということで、一生懸命に心肺蘇生をしようとするのだけど、もう一つ、家族が納得できることとして、「精一杯の説明」があると思うのです。つい最近、僕の職場の同僚が肝硬変を放ったらかしにしたために、静脈瘤が破裂して下血し、全身がむくんで入院したのです。そして入院後は、点滴も麻酔しか入れないで、集中治療室にも入れてもらえない間に、意識もなくなって、人工呼吸器を付けられましたので、「ちゃんと治療してもらえていない」という不満を家族が言っていました。それはそれで、もう集中治療室に入れても回復はできないとか、向こうのエクスキューズがいろいろあるのだけど、一生懸命に説明していなくて、治療も一生懸命にしているように見えないわけです。

その一生懸命さの出し方という意味では、双方ができるだけ情報を共有していくことが重要です。意思決定と言うけど、患者が決定するか、医者が決定するか、その両方で決定するか、誰かが決定しなければいけないので、その決定のための情報をお互いにぶつけ合う努力が大切で、最後に成功するかは分からなくても、そういう努力をお互いにしていかないけない。それをどこかで楽にするために、ガイドラインを作ったり、意思表示カードを書かせたりするというのなら、意味はありません。しかし、情報を共有し判断するうえでは、条件もいっぱいあるし、患者側の考えを整理したり、議論を整理したりして、自分たちの考えを説明しあえるような形を作っていくことは、必要なような気がします。

広瀬 昔、ERという海外ドラマを見てたら、かなり高齢のお母さんがだいぶ悪い状況の時に、「ある薬を使ったら少しは良くなるようなこともあるのだけれども、合併症とかいろんなことが出てくるので、それを投与するよりも、安らかに眠りように亡くならせてあげた方が良い」という説明をキッチリしてはる女医さんがいてはったのです。家族はそれに対してものすごく反発してはったのだけれども、亡くなっていく過程を見ていて、「本当に良かった」っていうふうに最後には分かられたのです。今、言われたのと一緒で、やはりキッチリした説明をすれば良いのだなぁと思いまして、ERもたくさん見たのですけれど、そこだけがいつも頭に残っているのです。とにかく、先生も一生懸命に説明することが大事だし、そうすることによって、「薬をくれなかった」とか「心肺蘇生をしなかった」という問題も起こってこないのではないかと思います。

小原 そうですね。そういう意味では、一生懸命に説明するための前提として、共通認識のためのガイドラインというのがやっぱり要りますね。だから、まず共通の認識を持ったうえで、それぞれの医療スタッフなりの一生懸命さを伝えれば良いのであって、まず土台は要るんじゃないかなとは思います。

今、ずっと意見を伺っていると、概ね、「このDNRに関しては、手順及び考え方についての、何らかのガイドラインがあった方が良い」ということで、今日は結論付けて良いと思うのですね。ただしこれも、何のたたき台もなしに、ものが生まれはしませんので、どうでしょう、次回の委員会までに、それほど長くなくても良いと思うのですけど、実際上の手順を含んだこの病院としての考え方のようなものを、少しまとめていただいて、原案として出していただくということを頼んでいいですか。

吉中 私らも協力はしますが、出島先生にお願いします。

出島 ベースになるものを見たことがないので、なかなか全体が掴めません。特殊性が常に頭の中にあってなかなかまとまりそうもないのですが。

吉中 それはここで編集をすれば良い。材料としては川崎協同病院のものなど、いろいろなものを参考にしても良いと思う。ちょっと疑問な点は、とりあえず議論してもらって、次回で決めようとなると難しいので、次々回以降への継続審議になっても別に構わないから。今までも1年近くやってましたからね。

小原 はい、そうですね。ものによっては1年近くはよくやっていますので。

吉中 そして書き手を替えたりして、まぁいろいろしましたね。

出島 逆に、僕のすごく率直な話をすると、あまり立派な文章を前書きで付けても、現実に医療スタッフの方からは「そんなに患者さんと話をしている暇はないよ」という声が出てきそうな気がしているのですよ。そこが、「どういうふうに意味のあるものが委員会で作れるか、どういう手続きがとれるか」が、ちょっと難しいと思います。

吉中 そういう議論になることに意味があるということで、何も言わないよりは、「こういうものはできるか」と言った方が、議論になっていくかも分からない。

小原 ということで一応、次回も引き続き、このことについて継続して話していくということでよろしいですね。また、エホバの証人の輸血問題に関しても、もし何か進展があったり、必要があれば、並行してやっても良いと思います。次回は、6月29日でよろしいですか。じゃぁよろしいですね。それではこれで、本日にご用意しました議題を一応、終えたいと思います。どうもありがとうございました。

 

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